117:魔獣行、宵闇
ほんの些細な話だった。きっかけも忘れるぐらいに、ただ交わした会話のうちの一つ。
「オラオラ! この程度で寝てんじゃねえぞ!」
ただその時の師匠の顔を、強く覚えている。
「あなたのお師匠さんにはお世話になったんです、お礼をさせてくださいよ。……我々なりのお礼、ですがね」
そっと頭を撫でてくれた師匠の顔は、とても穏やかなものだった。
初めてかもしれない。この人が笑うところだなんて。
「泣ける話で反吐が出るぜ、てめえが代わりにサンドバックになるなんてよぉ!」
暖かかったのを覚えている。
うれしかったことを、覚えている。
「ふふふ、倉田さん。私が楽しむ分は残しておいてくださいよ。あっさり死なれては、胸のつかえも取れません」
「おっと、調子に乗りすぎたか。このガキ、結構頑丈だからよ。つい力んじまったぜ」
うれしかったんだ。何の理由もなく、訳が分からないぐらい。
その時何故涙がこぼれたのか、自分でもわからない。
ただ、悪い気分にはならなかった。悲しくもないのに、痛いわけでもないのに。
「おや。少しはしゃぎすぎましたかね。病床から抜け出てくるなんて……安静にしていた方がいいですよ」
「へ、いいじゃねえか。どっちにしろ……だろ」
うれしかった。ただ、うれしかったんだ。
□□□
鎮痛剤と解熱剤があったことを思い出し、それを力なく飲んだ比嘉はやがて眠りについた。よほど気力と体力を使ったのであろうが、それでも寝顔はとても苦しそうで、見ていられないものだった。
差し込む日差しが薄くなり、夜のとばりが落ちていく。苦しそうにうめく比嘉の声だけが、耳に残る音のすべてだった。
刻限通り現れた呪術師の二人は、もうこちらの要求をわかっていたのだろう。
「少し離れた場所に開けた草地を見つけました。そこでじっくりお話をしましょう」
木々に閉ざされた草地は薄暗く、普段なら聞こえるはずの虫の音もない。風ですら、木の葉を鳴らさずにいる。おそらく、何らかの結界が張られているのだろう。人が近寄らないようにするためのものだ。
声も遮断されている。何度となくあげてしまった苦悶の声が、周りの山肌にまったく響かない。こちらが気を失わない程度に加減された攻撃は、ただ苦痛だけを大きくしていく。拷問に使われるものもあった。
拳で。または呪術と思われるもので。痛みのために、体が意識を手放そうとしている。
今自分が倒れているのはわかるが、うつ伏せなのか仰向けなのかもわからない。血が喉につまり、何度も咳き込んで嘔吐する。
これでいい。あの人が、師匠が助かるなら。これでいい。
腹部を強く蹴り上げられ、折れた膝は支えにもならず、腹を抱えて前にのめり込んで倒れた。
視界はぼやけている。大きなダメージに加え、大量の出血。脳の機能もまともに働いていない。
だから、その目に入った光景を幻だと思った。
なんで、ここにいるんですか。なんで。寝てないと、ダメなのに。
「驚いた、その傷でここまでくるなんてなあ」
倉田のうれしそうな声が聞こえた。森田もまた、自分が優位なのを確証して賛美を飛ばす。
「巳影から、離れろ」
声は苦しそうに震えている。意識を保つのも難しいはずだ。
倒れながらも手を伸ばす。どうか、その人は、師匠だけは助けてください。俺はどうなったっていいから、師匠の傷を。
「ううん、感動的な献身ですねえ。いいお弟子さんをもって……比嘉さん、あなたも幸せでしょうに」
「貴様ら……っ!」
「おいおい、殺気立つなよ。そんなよろよろで、何しようってんだ?」
かすみ始めた視界の中で、小柄な人影はよろめいた。傷口を抑え、膝をついて。それでも、呪術師たちをにらむ相貌は変わらない。
「お弟子さんの苦労を無駄にするおつもりですか? 私たちは彼の行動に大変感動しています。だから」
背の高い呪術師が、比嘉の顎先を靴の先で上に持ち上げる。
「せめて一緒に、とどめを刺してあげますよ」
話が違う。
「馬鹿か? 本当に解呪なんてすると思ってたのか? こいつはすげえジョークだぜ! 気合入ってんなぁ!……二人ともぶっ殺すに決まってんだろ」
……。
「ここまで滑稽な人たちは初めてでしたよ。おめでたいというか、脳みそがお花畑なタイプなんでしょう。そういう人たちを手にかけるのは……ああ、神はなんと罪深い」
……。
「やめろ……その子に……」
……。
「見るのがお辛いのでしたら、あなたから旅立ちますか? 門出を祝おうじゃありませんか」
……。
ベタニア。
「比嘉、てめえは入念にひっぱたいてから、じっくりと殺して……あん?」
……。
ベタニア。
聞こえるだろう。俺の声。いるよな、すぐ後ろに。
「ん……? おや、お弟子さんはまだ立ち上がる力があるようですね」
ベタニア。決めたって言った割には、遅くなって悪かった。
「……巳影……?」
お前の力がほしい。だから、無力な自分はもういらない。
だから、ベタニア。
「……巳影!」
奴らの首を、喰い飛ばせ。
□□□
「何故打つのをためらった。さっきの拳なら、私の隙をつけたのだぞ」
「……」
「怒っているわけではない。だが厳しい現実を生きるためには、常に勝機を……」
「……痛いもん」
「……ん?」
「師匠だって、お稽古だからって。たたかれたら、痛いもん」
「……」
「師匠を……師匠まで、痛くしたくないもん……」
□□□
意識がうっすらと戻り始めた。どうやら自分は倒れているようだが、感じるのは固い地面だけじゃない。
「気が付いたか」
すぐ目の前に、比嘉の顔があった。彼女はこちらの頭をなでながら、強く下唇をかみしめていた。
膝枕、の状態だった。さすがに、これは気恥ずかしい。だが体をよじろうとするも、身は重たく動くことはできなかった。
「今は、休んでいろ。眠るんだ。疲れたろう」
目が覚めた途端だというのに、おかしなことを言う人だ。しかし、視界はゆっくりと閉じていく。まどろみ始めた意識の中で、わずかに残った力で問いかける。
「なんで、師匠……」
そんな、泣きそうな顔をしているのか。
溶けていく。声も気持ちも。まどろみの中に沈んでいく最中で、比嘉の言葉が聞こえた。
「……すまない」
何を、謝るんですか。何で、泣く必要があるんですか。
もう、大丈夫なのに。敵なら、もういないのに。
そうだろう……なあ、ベタニア。




