116:外道の天秤
巳影がようやくちゃんとした突きを打てるようになったころだった。組手途中で偶然、巳影の拳が比嘉のあご先をかすめた。
ダメージにもならないものだったが、運悪く比嘉は軽い脳震盪を起こし、よろけて膝をついてしまった。
その時、巳影はひどく狼狽した。顔面蒼白になり、大丈夫か、ごめんなさいと、とにかくパニックになっていた。比嘉が崩れたというショックと、それを自分が引き起こしたという罪悪感が、一気に膨らんだのだろう。比嘉はすぐに立ち直ったが、それでも巳影は心配そうに、そして自らの行いが招いた結果に罪の意識を抱えていた。
この子は、自分が加害されることには無頓着なのに、自分が加害してしまうことに対しては、必要以上の負荷を持ってしまう。
戦士には向いていない。そういう直感が働いた。だというのに。
心のどこかでは、ほっとしている自分がいた。
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朝。日差しが山に差し込んだ頃。寝室で布団に寝かせた比嘉は、まだ目覚めない。顔は時々苦しそうに、痛そうにこわばり、噴き出す汗はいくら拭っても浮き上がってくる。
応急処置しか施せなかった。乱暴な止血と不器用にまかれた包帯では、深い傷を完全にふさぐことはできない。すぐに救急に助けを求めようとしたが、スマートフォンは圏外。固定電話はどこにもつながらなかった。
おそらく、あの呪術師の二人が事前に電話線を切ったのだろう。嫌な予感がして配線を見に行った巳影が見たのは、鋭利な刃物で切断された電話線だった。明らかに、人為的なものだ。
パニックになりながら、過去比嘉が自分に施してくれた治療の限りを思い出す。救急箱を取り出し、清潔な環境を作り……巳影ができたことはその程度だけであった。
「……あの時、ためらわなければ……」
比嘉の側で正座する巳影は、手に持つタオルを強く握りしめた。
倉田という男に劣勢だった時。その時にはベタニアにすぐ変わるべきだった。だが、恐怖に囚われた巳影の頭は真っ白になってしまった。選択肢すらなくなった……迫る死を前にして、すくむだけに終わっていた。
その後、気が付けば倉田の姿は消えていた。死んだわけではない。撤退したのだろうか。
「……何をしけた顔をしている」
掠れた声に、巳影はうつむいていた顔をはじかれたように上げる。
顔色は青白く、血の気がない。だというのに、痛みでひきつる頬を無理やり押し上げ、比嘉は不敵な笑みを作っていた。
「師匠!」
前のめりになる巳影だったが、返事はすぐに返ってこなかった。比嘉は浅い息の中で、言葉を放つタイミングを計っている。
「おしゃべりの余裕はない。聞け。これは、毒だ」
反射的に聞き返そうとした意思を、巳影はぐっと押さえつけた。
「怨念を肉体に宿らせ、相手の体に毒素となる怨嗟を注ぎ込む……まさに呪いだな」
おぼつかない視線が、なんとかとった様子で巳影を捉えた。
「今の私の体で呪術の解呪は難しい……。結構、複雑に体へ食い込んでいる。時間がかかりそうだ」
つぶやくような声を聞いて、巳影は自分の右目に意識を集中する。
右目には、比嘉の体にまとわりつく黒い有刺鉄線のようなものが見えた。それは蛇さながらの動きで比嘉の小柄な体の中に入り込み、縫うようにして傷口付近から這い出ている。
かばった比嘉を切り裂いた手刀には、呪詛が込められていたらしい。
「完治させるには、毒と同じくワクチンに当たる血清がいる……」
そこで、比嘉は黙り込んだ。唇をかみしめ、小さく舌打ちする。巳影は焦る気持ちに負け、口を開いた。
「それ、どこで手に入るんですか。俺が持ってきて……」
「おやおやおや、師匠思いのお弟子さんですねえ、泣かせるじゃありませんか」
声が割って入るまで、ふすまの向こう……庭に現れた気配に気づけなかった。巳影はすぐさあ立ち上がり、乱暴にふすまを開けた。
「おはようございます、飛八巳影くん」
そこには昨日見た、背の高い男と、隣で目をぎらつかせている背の低い男が並んで立っていた。背の低い男……倉田は笑っていない。顎先に包帯を巻き、殺気立った目で巳影を……その奥にいる比嘉をにらみつけている。
「……今お前たちに付き合ってる暇はない」
殺気だっているのは、巳影も同じだった。言葉とは裏腹に、ふがいない自分への怒りと、比嘉を傷つけられた怒りが交じり合い、臨戦態勢に入る。
「いいんですか? 我々が帰っても。それじゃ呪術は解呪できませんよ?」
飄々としゃべる背の高い男……元シャーマンの森田、だったか。森田の言葉に巳影は「どういうことだ」と語気を強めて返した。
「呪詛を毒に例えた通り、血清にあたるワクチンは……呪詛の元からしか精製できません」
「……!」
「つまり。我々の協力が必須、というわけです」
にこりと笑った森田の目には、苦痛に顔をゆがませる比嘉が映っていた。
「が、殴られた相手がそう簡単に助けを出せると思うか……?」
倉田は一歩前に出て、拳を手のひらに打ち付けて唸り声をあげた。
「てめえの師匠に殴られた腹と顎……めちゃくちゃ痛かったぜ。まだ痛みが引かねえし、まともにメシも食えねえ」
今にも飛び掛からんとしている倉田を、森田が長い手で制した。
「しかし、我々も鬼ではありません。条件次第では……お渡ししてもいいのですよ、ワクチン」
乗るな、と身を起こそうとする比嘉が声にならない声を上げる。それを背中で感じながら、巳影は強く握った拳を震わせていた。
「……条件は」
絞り出す巳影の声に、森田の顔は満面の笑みに変わった。
「我々の当初の目的はあなたの師である比嘉葵の抹殺でしたが……うん、あなたがいい。あなたにしましょう」
「……?」
「ここまで入れ込んでいるお弟子さんが目の前で亡くなられたら……比嘉葵はどんな顔をするでしょうねえ」
食いしばる奥歯が、音を立てて割れそうになっていた。拳からは、すでに大気をゆがませる熱が放たれていた。
「また今夜にお伺いしますよ。それまでによぉぉぉく考え、相談しておいてくださいね。保身で自分を守るか、献身で師を守るかを」
上機嫌で笑い声を携えたまま森田は去っていく。倉田は舌打ちし、不服そうでありつつも黙って踵を返して森田へと続いて姿を消した。