115:怨念の刃
『あの子供を、引き取る?』
電話口から聞こえるあきれた声に、比嘉葵は真顔でうなずいた。
「そうだ。あの子は……飛八巳影は責任をもって私が導く」
そう言った後、受話器の向こうからさらにため息が続いた。
『だから……部隊を抜けたのか』
「ああ。お前のようにな。だからこそ、補助を頼みたい」
『……。わかった。あんたがそこまで言うなら、俺も責任もって付き合うさ』
「助かる。獣を律するには、健全で強固な精神が必要だ。そこは私が叩き込んでみせる」
『俺ができることと言えば、環境を整える程度だが……衣食住はそろえてみよう。それにはあてがある』
「あかね団地だったか。いい所なのか?」
『のんびりした郊外の田舎さ。最近近所にコンビニもできた』
苦笑が聞こえた。相手が腹をくくったことが理解できた。
『だけど、気を抜くなよ。連中は黙っちゃいない。必ず動きを見せるはずだ』
胸の中には、小さくしかし掻き消えることのない不安が、常に宿っている。
『土萩村の……『茨の会』の呪縛は、あんたも知ってるよな』
具体的に名前を聞くと、心のざわめきはより濃く、強くなる。だが、ここで怯えているわけにはいかない。比嘉は強く受話器を握りしめて言った。
「あの子を、天宮一式に利用はさせない。必ず守り抜く」
とん……と、力なく下りた包丁がまな板の上で止まる。広いとは言えない台所には、鰹節の風味が嗅ぎ取れる甘い香りが漂っていた。
「……だが、あの子はもう……天宮一式と会ってしまった。土萩村を知ってしまった……」
輪切りにしていたきゅうりの断面を見つめ、比嘉はぼそりとつぶやいた。そこに、飄々とした声が通る。
「後悔ですか? あなたほどの人でも、悔やむことがあると?」
切っ先が持ち上がった包丁は、台所の隅で捕らえられている森田へと向けられ、飛ばされた。森田は荒縄でがんじがらめにされ、顔は複数の打撃により元のサイズの倍は膨れ上がっている。
頬すれすれに飛んだ包丁に「ヒッ!」と悲鳴を上げた森田を無視して、比嘉は煮物の味を見る。
「少し濃いか。いや、あいつは甘めな味付けが好きだからな。食えるだろう」
「ちょ、調理中失礼しますが……縄、ほどいていただけたりは……しません?」
今度は小皿が縦に回転して、森田の額にささるような勢いでぶつかった。小皿は見事に砕け散り、破片をばらまく。
「あ、あの……これはあなたのことを思ってもいる用件なので……」
額から血を流す森田は、頬を伝って伸びて落ちた血を、舌の先でなめとって言った。
「結界、解除できないんですよ。手が動かないと」
後ろ手に拘束された手をひらひらさせながら、森田は笑った。
「じゃないとお弟子さん、私の相方に殺されますよ」
音を殺すのは、暗殺の常とう手段の一つと言えた。人間は五感の中でも聴覚は、周りの気配を察知することに使われる。
いつの間にか消えていた虫の音に舌打ちして、比嘉は台所を飛び出した。
□□□
繰り出される手刀は、まさに刃物と変わらない鋭さと切れ味を持っていた。倉田の無駄のないフットワークは、雑な動きでしか立ち回れない巳影を徐々に追いつめていく。
「はっはぁ! どうしたどうした!」
愉悦に顔がゆがむ倉田の手刀が、防御に回る巳影の腕をかすめ、赤く深い切り傷をあとに残していく。防御のためにあげている巳影の腕は、すでに切り傷だらけになっていた。
(くそ、速い……!)
ただ腕を出す速度が速いだけではない。踏み込み、腰を回し、背で反動を作り、屈強な指をそろえて打たれる手刀は、次の動作にもつながっていく。右、左と交互に出される動きは正確であり精密でもあった。
隙がない。反撃の糸口が全くつかめない。まだ致命傷を受けていないとはいえ、あの手刀がいずれ自分の体に深々と刺さるまで、そう時間はかからないだろう。
巳影は相手の間合いから逃げるため、大きく後ろへ飛ぼうとした。だが、一瞬踏ん張るために止まった膝に、倉田の蹴りが叩き込まれた。
そのローキックは非常に重く、巳影はあっさりと転倒してしまった。受け身をとる間もなく、背中を畳に打ち付けた。
「下がるのはいいが、飛ぶのはいただけねえな。てめえは間合いを調節するための動きがおおざっぱかつ、ワンパターンだ」
耳の痛い話だった。現に何度も比嘉との組手で、その癖を狙われダウンを取られている。分かってはいるものの、考えるより先に体が動いてしまう悪癖であった。
しかも。
(足が……立てない!)
蹴られた足は鈍くしびれ、麻痺していた。痛覚すら感じない足は、まるで棒にでもなったかのようだった。
『何をしている、飛八巳影』
パニックになりかけていた頭の中から、牙をむき憤る声が聞こえた。
『見ていられん、変われ。今が私を前に出す時だろうに』
獣の唸り声は、完全に苛立ちを含んでいた。それに気おされた巳影は、わずかに残っていたためらいを見せる。息をのんで足を引きずり、少しでも倉田から離れようともがく。思考が、まともに働いていない。
「はは、てめえ今、いい顔してるぜ。その怯え、恐怖、混乱……見ていると胸がスカッとするぜ」
這って離れようとした巳影の首根っこをつかみ上げると、倉田はほくそ笑んで手刀を大きく振りかぶった。
「とりあえず腕の一本ぐらいは貰おうか!」
薪に振り下ろされる斧のように、倉田の手刀は肉へ食い込み血しぶきを引き出し、切り裂いた。
「……は?」
倉田は間の抜けた声を出す。がくりと崩れ落ちた瞬間を見たはずなのに、今倉田自身の腹部へ深々と突き刺さっている拳は、何だ?
「し……師匠!」
風は後から吹いた。本堂の壁をぶち抜いて割って入った比嘉は、肩から下に切り裂かれた体をそのままに、今度は倉田の顎先へと拳を振りぬいた。
不十分な姿勢から放たれた拳だったが、それは倉田の体を地面からはぎ取り、はるか後方の壁に激突させた。だが、その代償は激しい出血を生む。
膝をつく比嘉は、顔面蒼白になっていく巳影を見上げ、小さく笑った。
「ばかもん。この程度でパニックになるな」
「で、でも……」
「……まったく。手のかかる……」
巳影は激しく動揺し、震えて動けない。立ちすくむ巳影は、そのまま倒れ込む比嘉を前にして、凍り付いたようにまったく動くことができずにいた。