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110:師匠の事情

 齢は九つの時。初めて会った比嘉葵の印象といえば、「怖そうな人」であった。

 だが、父という男が八つ当たりで殴るような怖さではなく、母という女が恨み妬みをぶつけるような怖さでもなかった。いわば、新種の怖さだった。暴力の気配もなく、ヒステリックに叫ぶ様子もないのに、怖いと感じてしまったのは何故なのだろう。

 だが、手を振り上げられる時に生まれていた、どうしようもない絶望感はなかった。

 あるのは、理由のある厳しさ。すべては己に返ってくるという、とても納得のいく理屈であった。

 それから、怯える必要のない「恐怖」は、日を重ねるうちに「畏怖の念」へと形を変えていった。


 □□□


 固い畳の上で巳影は意識を取り戻すと同時に、横たわっていた姿勢から瞬時に立ち上がる。広い本堂の奥には大きい仏像が祀られ、その正面……本堂の中央部にて、座禅を組み瞑想のため瞳を閉じている比嘉葵を見ることができた。いつの間に着替えたのだろうか、今はもう着物姿ではなく、動きやすい袴姿であった。

 腕時計で時刻を確認する。朝の六時を過ぎた頃だった。最後に腹部への攻撃を受けて意識が途切れてから、一時間ほどたっている。今更になって、みぞおちあたりに残っていた重たい鈍痛が響きだす。

「心がどうのと言っていたが、肉体的にはタフになったではないか」

 目を閉じ、瞑想の姿勢を崩さないまま、比嘉はそう言葉だけを巳影によこす。

 確かに。武術を習いたてのころ、一撃でも受ければ一日は寝たきりになることも珍しくなかった。痛みこそ残っているものの、今は日常生活程度ならば問題はないだろう。

「ここを出ても、基礎のトレーニングを怠っていなかったのは分かった」

 比嘉の双眸が見開かれる。それだけで、広い本堂の空気が一瞬のうちに凛とした、清浄なものへと変わる。

「して、巳影。お前はまだ朝食をとってないだろう」

「……え?」

 座禅の姿勢を崩し、立ち上がった比嘉は「まだのようだな」と巳影に一瞥もやらないまま、本堂の大きな扉を開ける。

「教えたはずだ。食は健康的に日々を送る上で欠かせないものだと」

 外の雨脚は弱まっていた。吹き込んでくる冷たい風を受けながら、比嘉はようやく巳影へと振り向いた。

「まずは朝食にするぞ。ついて来い」

「え、え……ど、どこへ、ですか?」

 すでに比嘉は下駄をはき、番傘を手にしていた。困惑する巳影を待つ様子はない。巳影は慌てて小さな背中を追いかけ、傘もなく外へと飛び出した。



「最近、朝マックにハマっている」

 ハンバーガーをもりもりと咀嚼しながら、テーブルの向かいに座る比嘉はたて続けにフライドポテトにまで手を伸ばした。

「は……はぁ……」

「山や畑で採れる食材の精進料理もいいが、たまに食べるジャンクフードが美味だ」

 なぜか得意げに言う比嘉だったが。巳影は店内の様子をそれとなく眺めた。

 古い、昔ながらの大衆食堂の壁には「朝食定食始めました」と筆で書かれ、その隣に真新しい紙に「ハンバーガー始めました」と墨でつづられていた。

 今比嘉が食べているものも、巳影の前にあるものも、確かにハンバーガーなのだが、大手チェーン店が作るものではなく、ホットサンドにパティ……ハンバーグそのものとソースがかけられ、刻みキャベツが敷かれているものだった。一から手作りで仕上げた商品である。

(これはこれですごく美味しくて贅沢なものだけど……)

 マクドナルドではないため、朝マックと表現していいものか。しかし、比嘉は満足しているようだ。野暮なことは言わないでおこう。

 巳影は一つ息をつくと、お手製ハンバーガーにかじりつく。肉のうまみ、ソースの酸味、新鮮なキャベツ、そして上下を包むホットサンドと、どれもが満足のいく具材であり、大手にも負けないハンバーガーであった。

「気に入ってくださって、何よりですわ」

 大衆食堂を切り盛りする女将の老婆が、キッチンより顔を出す。

「比嘉さんはいつも美味しそうに食べてくれるから、うれしいことで」

「うれしいのはこちらもだ。今日も美味しいバーガーにありつけて、幸福この上ない」

 しかし。と言葉を区切り、比嘉は店内を見渡す。

 自分たち以外、客の姿は全くなかった。開店直後の早朝だから、ではない。

「この味は新たな名物になれる。食べに来ない奴は損をしているな」

 比嘉の言葉に、女将は苦笑した。

 『羽天乃山』のふもとに広がるのは、古くから続く温泉街だった。昔は登山客を中心ににぎわう古風な街並みは、シーズンでなくとも活気であふれていた。しかし、観光業の激しい競い合いに、老舗であることだけが取り柄のこの温泉街は、ついていくことができなかった。

 客足の途絶えた町はシャッターで閉ざされた商店が続き、生き残っている店もわずか。

 この地で生まれた若者たちはみな、不便な故郷に飽きて都会へと出てしまう。後継者不足も深刻な問題だった。

「……」

「何を湿った顔をしている、さっさと食わないか」

 ぼう、と店内を見渡していた巳影の額を、人差し指ではじいて比嘉が言う。

「もうすぐ常連の人たちが来る。私たちが店を狭くしてはならん」

「いえいえ、お気を遣わず。比嘉さんたちもゆっくりしていってくださいな」

 今この食堂は、近所で宿や土産物を扱う店などを営む老人たちの憩いの場となっているようだった。

「我々は修練がある故、そのお言葉はまたの機会にいただこう」

 手を合わせ、お辞儀をする。巳影も口いっぱいにハンバーガーをほおばりながら、一礼した。そのまま会計を済ませようとしたとき、ばたばたとあわただしい足音とともに、店の戸が開かれた。駆け込んできたのは初老の男性だった。ぜいぜいと息を切らせ、汗だくになっている。

「ひ、比嘉さんは来られておるか!?」

 ただ事ではない様子に、比嘉はすぐさま初老の男性に肩を貸す。

 女将が慌てて水の入った湯呑を持ってきた。男性はそれを飲み干すと大きく息をつき、「比嘉さん、また連中が……!」と、手に握っていたわら半紙を比嘉へと渡した。

「だ、大丈夫ですか……一体何が……」

 巳影も遅れて男性に肩を貸して、手近な椅子へと座らせた。男性は半ばパニックになっており、息を整えるのがやっとだった。

 ちらりと比嘉を見やると、殺気立った目つきでわら半紙を握りつぶしていた。比嘉は丸まった紙を巳影に放り投げ、手に拳をたたきつける。

「安心されよ。皆のことを守るのも、私の役目だ」

 比嘉の言葉に、男性の顔から不安の色が少しずつ薄れていく。巳影は何のことかついてけず、丸められた紙を広げてみた。同時に、そこに書きなぐられていた文面に息をのんだ。


「比嘉葵を差し出せ さもなくばこの町の人間をすべて処分する」


 短く書かれたものから顔を上げる。比嘉は口をへの字に曲げて鼻息を荒くした。

「ただのトラブルだ。お前が気にすることはない」

「トラブルって……ただ事じゃないでしょう、これ」

 悪質ないたずらという線はない。それは憤っている比嘉の態度を見れば明らかだった。

「教えてください、これが()()なら修練どころじゃありません」

 食い下がった巳影にしばし沈黙していたが、嘆息交じりに比嘉は口を開く。

「実は、少し前から命を狙われている。この町の人間たちを盾にしてな」

 巳影は言葉を失った。比嘉は忌々し気に息を荒くして言う。

「相手は二人組で暗殺を生業にする、呪詛師だ」


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