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109:屈しても、なお

 山道とは名ばかりの切り立った岩と石でできた道は、ろくな舗装がされていない。巳影はそれが懐かしくもあり、憎らしくもあった。急く気持ちと、後ろめたい気持ちがないまぜになり、体力と気力をいたずらに削いでいく。

 古くから日本の霊峰の一つに数えられる『羽天乃山(はねあまのさん)』。その中腹に、質素な古寺がひっそりと建っていた。周囲は森林におおわれ、見上げれば『羽天乃山』が空を突くように伸びている。時刻は朝の五時頃。天候は寒気を呼ぶ曇り空であった。

 そんな状況だからか、人気は全く感じられない。薄暗い視界の中、佇む古寺は暗い影を宿しているようにも見える。どうにも近寄りがたい雰囲気を持つ古寺へ、巳影は固唾をのんでから歩き近づいていく。

 古びた山門をくぐり、本堂へと続く石畳の道を行く。

「この時間なら……師匠は奥の本堂にいるはずだ……」

 重たい気持ちに入り込む、恐怖の念。勝手を言ってここを飛び出したのは、自分自身だ。説教、折檻は当然としても、破門とされても仕方ない。最悪見向きもされず、取り合うこともなく追い返される……可能性はどれも大きいものだ。

 しかし。ただで帰るわけにはいかない。石にかじりついても、再び教えを乞うまでは引くことはできない。

 奥歯をかみしめ歩く石畳に、ぽつりと一つ、大きな雫が落ちてシミとなった。その一滴を追いかけるようにして、強い雨が一斉に降り注ぎだした。空は暗く、黒い雨雲を垂らしていた。

 慌てて本堂の軒先まで走った巳影は、びしょぬれになった上着を脱いで乱暴に絞る。山中の澄んだ空気がひやりと冷たく、肌の温度を下げていた。だが、構ってはいられない。勢いをそのままに、本堂の扉を開けようとしたその時、背後から石畳を歩く足音が聞こえてきた。

「出て行った時も雨だったな。お前は雨を降らさなければ出入りもできないのか」

 カランコロン、と。耳に……緊張が走る全身が聞き覚えた、下駄の鳴らす音が、巳影の心臓を大きく膨らませた。緊張と畏怖の念。巳影はゆっくりと振り返った。

「二年もどこを走り回っていた。何があったかは……聞くまでもないか。その面を見れば察しはつく」

 澄んだ鈴の音のような少女の声の後を、小さなため息が追いかけた。

 雨粒をはじく番傘の奥。のしかかるような雨雲の色は、彼女にだけ届いていない。白く細い髪は肩口まで伸び、色素の薄い瞳は鮮やかな朱を宿している。その双眸が、(こら)えるように言葉を待っている巳影を映し出した。

「何をしに来た。まさか今になって修練をやり直したい、だの言わんだろうな」

 温度をまったく感じさせない、淡々とした物言いに、巳影はすぐに答えることはできなかった。ただ震える手を強く握りしめ、腹にたまった嫌な気持ちを深呼吸で追い出していく。

「飛び出しておいて、虫のいい話だと自分でも思っています。ですが、今は力が必要なんです。どうしても……今の自分じゃ、届かないことばかりなんです」

 強い雨脚が、二人の間の石畳をたたく。

「力か。新たに技術を習得でもしたいのか。なら他を当たれ。動きだけならどこの道場やジムでも教えてくれる」

 肌を、肉を、神経を、血管を。うねる熱が体中に走り始めた。軒先から出た一歩の足跡が、濃い蒸気を立ち昇らせた。

「……不足しているのは、技ではなく……心だと思っています。心の持つ力が……心そのものが、俺には徹底的に足りてないと」

 落ちてくる雨粒が気化し、大気を揺らがしていた。

「敵わない相手を前にして、ろくな選択肢を作ることができず。いつも火力ばかりの一点突破のみ……ここで手札が増えても、敵を前にして茫然自失となるのは変わらないと思います」

 握った拳に、更なる力を加えた。猛る火柱は高くのぼり、その足元の石畳にはもう、その足元の石畳はもう、しみ込んだはずの水気は完全になくなっていた。

「立ち向かう心じゃなく、立ち上がる心がほしいんです。強敵を前に折れても再起できるだけの、タフな精神力が……諦めない心が、今の俺には必要なんです」

 無力。その場しのぎだけに終わっていた自分を現すのであれば、その一言だった。皆が皆押し黙り、次の手を見つけられないでいたあの場。誰もが深く追求しなかったが、全員の心にあったものは……諦観の念であった。

 必要なのは機転でもなければ奇をてらう戦略でもない。もっと奥底にある、根底にあるものだ。

「……」

 番傘が閉じた。上物と見ただけで分かる着物が雨を吸い込み、白い肌に雫を落としていった。幼さが残る顔立ちは、巳影とさほど年齢は変わらないように見える。痩躯な体は小柄で、巳影と比較すれば小柄な巳影よりも一回り小さい。しかし。

「荒療治が望みらしいな」

 か細い指が、乱暴にぬれた前髪をかき上げた。その一言が、巳影の体を折りかねないほどの圧力を生んだ。

(……屈しない!)

 うつむきそうになる自分を叱咤し、噴き出す炎の勢いを借りて前を見据える。肩をリラックスさせ、足を肩幅に開き、腕を前に構えた。目の前には、まったく同じ構えをとる少女がいる。

 少女の唇が、わずかに吐息を走らせる。巳影が動く前に、下駄の踏み込みが石畳を割り、腰を返して撃ちだされた正拳突きは、巳影の体をあっさりと重力下から解放させた。地面を跳ね、止まらない勢いは本堂の門に巳影の体をたたきつけた。

 巳影は地面へとずり落ち、激しくせき込んだ。体をくの字に折り、痛みに悶えていた。しかし、震える膝は強引に上半身を起こさせた。

「こ……ここから、だ」

 腕からあふれ出る炎が、全身にいきわたり始める。

「ここからを……学びにきたんだ!」

 地を蹴り、腹の底から声を絞りだして突っ込む。対する少女は変わることなく構えを取り、その口元をかすかにほころばせた。

 彼女の名は、比嘉(ひが)(あおい)

「荒い」

 突進から打ち出す巳影の拳は、あっけなく外へと受け流された。バランスを崩した巳影の腹部が、がら空きとなる。

 そこへ叩き込まれた拳は、巳影の意識を無造作に刈り取ってしまう。一言も漏らすことなく崩れ落ちる巳影の体を受け止め、少女比嘉葵は嘆息をついた。

「しかし。心意気だけは、買ってやる」

 自分の体と近い体格の少年を、あっさりと肩に担いで本堂へと入っていった。

 彼女こそ『地蓮流新法』の師範(マスター)であり、拳を極めた無頼の武道家でもあった。


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