108:ラストチャンスの一週間
「あの……少しいいですか」
重たい空気の中、呼吸音すら大きく聞こえてしまう沈黙の中で、声を上げるにはかなりの気力が必要だった。そして一度口を開いてしまったのだから、もう引っ込みはつかない。
巳影は全員の視線を集めてから、手を強く握り言葉を吐いた。
「俺……一度自分を見直してみようと思うんです」
「見直す?」
返したのは清十郎だった。それに巳影はこくりとうなずき、うつむきつつあった顔を上げて、全員の顔を見渡した。蝶子はまだ眠っている。その横顔を見つつ、口を開いた。
「今のままじゃ……今の俺の実力じゃ、高橋京極や天宮一式、それにあの化け物にも通用しません。むしろ今まで何とかなってきた方が、おかしいぐらいです」
頭の中で眠っている獣が、瞳だけを開いた。こちらの動向をうかがうように。
「もし、時間さえ許されるのなら……なんですけど。初心に戻って鍛えなおしたいと思っています」
巳影が絞り出すように言った言葉を受け、ししろと神木が、切子へと視線を向ける。そして全員の注目を切子が浴びる形になり、巳影は小首をかしげた。
その切子はしばし考えた後で、ゆっくりとうなずいた。
「残る独立執行印は二つ。ここまでくれば、いくら『茨の会』だって簡単に手出しはできないよ」
「そうなん……ですか?」
「うん。第二の封印管理者は、私だからね」
「……え?」
言葉を詰まらせる巳影に、切子は努めて穏やかな声を作って言った。
「でも安心して。絶対奴らに封印を破られないことを約束するよ。私の実力は知ってるでしょ?」
確かに。フィジカルの面でもメンタルの面でも、切子はとても頼もしい存在だ。その彼女が守るというのであれば、心強い気持ちになれるほどであった。
「ちなみに、第一の独立執行印って……」
「それも心配ないよ。今すぐ全部説明するのは難しいけど、まず破られることはないから」
好奇心からついでに聞いてしまったが、切子がそういうのであれば、問題はないのであろう。
「……つーか。飛八の言うこと、俺ら全員にも当てはまるんじゃねえか?」
清十郎は火のつけてない煙草を指の間でもてあそびながら、巳影たち全員を見渡して言う。
「少なくとも、俺と柊、飛八の攻撃はもう、あの化け物相手にゃ通用しなくなってる。だったらそれを超える力と能力、手段や知恵を得るべきじゃねえかな」
それに黙っていた紫雨が眉をしかめてぼやいた。
「集合知だっけ……うっとうしいなぁ。僕らの力もやっぱ通じなくなるの?」
水を向けられた神木は腕を組んでどうだろう、と唸る。
「僕と兄さんの『悪性理論』なら、学びようがないというか……」
「……確かに。一度気持ちも状況もリセットするべきだね」
神木が立ち上がり、全員を見渡して言った。
「今日は一度解散しよう。一度全員頭を冷やして、それぞれでできることを考えよう。飛八くんは……いつ出発するんだい?」
「できるなら、今日の内にでも。学校も……行けなくなりますが」
「行く当てはもうあるんだね。ならば、一週間……のんびりとできるのはこのぐらいだろう。それに合わせて、また一週間後にみんなで集まろう。その時には、課題をクリアしてほしい」
時間ならどれだけあっても足りないが、確かにのんびりはできない。むしろ、その期間で何も得られないのであれば、どう時間をかけても解決法は見いだせないだろう。そもそも時間に猶予がある状態ではない。
短期集中。それぞれが真剣な面持ちでうなずいた。
□□□
『黛書房』から帰宅し簡単な荷造りを終えて、巳影はバッグ一つでバス停の前に立っていた。空はまだ昼の手前だというのに、薄暗い。分厚い雲が空をふさいでる。
「何とかする……とはいえ。師匠がまた相手をしてくれるかどうか……」
ぼやいてからふと、視線を感じて振り返った。
長く続くバス道から、見覚えのある人影が歩いてきた。巳影はバッグを投げ捨て、とっさに臨戦態勢をとる。
「町を出るのか」
現れたのは、高橋とともに行動していた少年だった。
「な、何の用だ!」
語気を強めて言う。それは半分……いや、それ以上に自分を鼓舞するためのものだった。
「出て行くのか、と聞いている」
冷たく、氷のような相貌が巳影を捉えた。それだけで、周囲の温度ががくんと下がったかのような悪寒を覚える。
「で……出て行くわけじゃない。訓練のためにいったん離れるだけだ!」
「……一度飛び出でていった奴を、あの比嘉葵が再び面倒を見るとは思えんがな」
無意識に、巳影は押されるように後ろへと下がっていた。嫌な汗が額から噴き出してくる。
「な……なんで師匠の名前を……」
「お前は去れ。無力は無力。いくら技を鍛えてもその事実は変わらない」
少年は巳影の疑問には答えず、変わることなく氷の威圧感を押しはなっていた。
「誰が無力だ! お、俺は……」
「無力な人間がいたずらに技を覚えればどうなるか、わかるか」
不意に飛んできた言葉に、一瞬なんのことだかと思考が停止した。
「それはいずれ、暴力へと変わる。力なき、意思なき技は、弱者だけを焼き殺す力へと変わる」
少年が一歩前に踏み込んだ。その足を中心に、冷たい風が吹き上げてきた。
「俺の名前は桐谷矢斬。お前と同じく、頭に獣を宿す者だ」
「獣をって……!?」
それは、とても美しい姿勢で、踏み込む足の力にも無駄がなく、返した腰は遠心力を生み、まっすぐに突き出した拳は、巳影が防御姿勢をとる前に、みぞおちへと深く突き刺さった。
その瞬時、焼かれるような鋭い痛みとは別に、冷え切って砕かれるような冷気が巳影の体を貫いた。
「このまま去れ。この地は無力さを許さない。獣を宿すものならば、より一層な」
右正拳突き。空手などで見られる基礎にして限りない精密さを求められる……巳影の学んだ『地蓮流新法』でも初手として教わる拳である。
巳影は地面に膝をつき、腹部を抑えて身をよじった。呼吸が難しくなり、声すら上げられない。
何とか顔を上げるものの、踵を返し歩いていく様には、こちらのことなどまるで視野にも入っていない扱いが感じ取れた。その背中が消えるまではいつくばっていた巳影は、強く奥歯をかみしめる。
拳を作り、地面に突き立てて立ち上がった。
「……殴り飛ばさなきゃいけない奴がふえたな、くそ」
鈍痛を腹部に抱えながらも、巳影は気丈に乱暴な言葉を吐き捨てた。