106:罪の系譜
揺れは次第に収まりつつあった。足の底を波打ち、遠い地下から来る振動は、気配そのものを地中の深い部分へと落としていった。
蝶子は無意識に安堵の息をつこうとした。わずかに吐き出しかけた吐息が、目の前のものを見て固まった。
「地獄の蓋を自ら開けた……これも黛の血のなせる業か」
時計盤の上に、大柄な体格の男が座り込んでいた。
見覚えがある、どころではない。やはり同じ臭いだと思ったのは、間違いではなかったことを確信する。
猛禽類を思わせる鋭い相貌。深くかぶった軍帽からは、その眼光がくっきりと見えた。
写真で見た通りの、記録でしか知らない曾祖父。名を、黛時啓。
「わざわざ鬼である俺を呼び出して……娘、お前は正気か」
喉の奥で笑う時啓は「いや、この血筋には正気も狂気もないか」と一人でうなずいた。
「して。何をもくろむ。俺は 『響鬼』の名で封じられ、れっきとした人食いでもある。そんなヒトとは到底呼べぬ人外を、何をもって呼び出した」
目の前にいる黛時啓は……いや、鬼である『響鬼』は、蝶子に値踏みするような視線を向けた。
体は緊張して固くなり、息は浅く、手のひらの中は汗でぬれていた。
手段を選んでいる余裕はない、選べる価値もない。ならば、できることを。
蝶子は手を絞るように握りしめると、『響鬼』の目をまっすぐ見て口を開いた。
「天宮一式とは、何者なの」
『響鬼』からすれば第一声である蝶子の言葉に、『響鬼』は一瞬目を丸くした。だが次の瞬間にはけたけたと笑い声をあげ、手の平を顔に当てて笑いを押し殺そうとする。
「失礼したな。あまりにも……間の抜けた問だったのでな。そんなことを聞くために、お前は『独立執行印』を解除したのか」
蝶子は喉の奥で言葉を詰まらせる。愚かな選択だったと突きつけるような物言いに、蝶子は何も言い返すことができずにいた。
「何者か知りたければ、本人に直接聞けばよかろうて。やつのことだ、特に隠すことなくペラペラとしゃべるだろう。……しかし」
笑いを交えた言葉の後、『響鬼』は小さな息をついた。
「俺を外へと出したことへの感謝は述べたい。とんでもない悪手だとしても、俺からすれば僥倖だ」
『響鬼』は人差し指を立てると、その爪先に小さな灯をともした。小さなろうそくほどの明るさを持つ光を眺めながら、『響鬼』は語りだした。
「あいつと会ったのは日清戦争終結後だ。当時の日本は、欧米列強とのにらみ合いのせいで、軍内部の空気はひどく悪かった。どいつもこいつも殺気だっててな。そんな中だ、あいつが現れたのは」
風もないのに、『響鬼』の指先にともした火がゆらりと波打った。同時に、地下室内の空気も変わっていく。壁という壁から、光のパネルが浮かび上がってきた。それぞれが点灯と消灯を繰り返し、それが一つの絵に変わっていく。
「初めまして、黛一等陸尉殿。自分は天宮一式と申します」
光の明暗だけで映し出された映像は、ひどく鮮明であり、発色も美しかった。壁一面がスクリーンとなる技術を、蝶子は知らない。映像だけならともかく、今聞こえた音声はどうしているのか。
だが、そんなことよりも。その光る壁に映し出された人物は、写真の通りの風貌であった。
敬礼する天宮一式は、不思議な雰囲気を持つ少年に見えた。あどけなさを残しつつも、落ち着きあがり堂々、というよりも飄々としている。
それだけに、浮かべている笑顔をまともに信用する気にはなれなかった。
そこには当の『響鬼』も同じ心境なのか、つぶやきにはどこか棘のあるものになった。
「奴も同じ陸軍だと名乗ったが、そんな名前は聞いたことがなかった。しかも俺と同じ一部隊を指揮する一等陸尉だときたもんだ。第一印象は「うさんくせえ」、の一言につきる」
また火が揺れて、同時に壁に映る映像が切り替わった。場所は、どこかの宿舎か。ランプ一つで薄暗い部屋の中、テーブルをはさんで『響鬼』……当時の黛時啓と天宮一式が向かい合い、酒を食らっていた。
「顧問?」
「ええ、あなたには自分たちの部隊における頭脳になってほしいんです」
俺が? と面食らっている黛時啓に、天宮一式は自然な微笑みをもってうなずいていた。
「黛殿は……『土萩村』の出身、でしたよね」
その名前が出た瞬間。軍刀が天宮一式の喉元に迫っていた。抜刀の瞬間は、蝶子には確認できなかった。黛時啓が立ち上がり、テーブルの上に片足を置いた時にはもうすでに……抜き放たれた軍刀は、天宮一式を捉えていた。
「貴様……何故その村を知っている。もちろん本当の意味で、だ」
猛禽類の爪は、一瞬で頸動脈を裂いて死に至らせる距離にあった。だというのに、天宮一式は怯えるどころか微笑の一つも変えず、優しい眼差しを黛時啓に返していた。
「……自分にも、不思議な縁がある村です。今はそこを……『土萩村』を拠点にして、とある極秘任務を遂行している最中であります」
「陸軍がか? 聞いたことはないぞ」
そこで天宮一式は何人かの名前を口にした。どれも「先生」とつけられ、名前が呼び上げられるたびに、黛時啓はこわばっていく。
「……以上の先生たちに支持をいただいております。すべてはこの国のため……やりがいがあると思いませんか」
しばしの沈黙の後、黛時啓はテーブルから足を下ろし、軍刀を鞘に納めて座りなおす。
「何をやろうってんだ。あの村にゃぺんぺん草も生えやしねえぞ」
「なら、これを機に村おこしといきませんか? 何もないからこそ生まれた業なのです、きっと……活気づくでしょう」
「……。その部隊の名は」
「『月輝ル夜ノ部隊』と、命名しております」
黛時啓の顔が、さらに険しいものに変わる。
「貴様は村について、どこまで知ってやがる」
「素敵な独自文化があること。そして『輝ける夜』が降臨される場所である、と」
目を伏せ、まだ中身が残っているお猪口を手に取り、それで唇を湿らせた。
「そして叶うなら。もう一度会いたいと思っているのです。生きるための力を与えてくれたあの人に」
空になったお猪口を眺めるその横顔は、とても穏やかなものだった。




