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105:焦げ付いた使命感

 起き抜けに差し込んできた頭痛は、ベッドの上で巳影から低いうめき声を吐きださせた。鉛のように重い上半身をゆっくりと起こし、自室を見渡す。昨日自室へと帰った時刻は十二時を過ぎていた。シャワーも浴びず、そのままベッドの上に倒れ込み……。

(あれ……なにか、夢を見たような……)

 ベッドに身をゆだねると、ものの数秒で寝入ってしまった。その後、大事なことを聞いたような、知ったような……。今それがすぽんと抜け落ちてしまっている感覚だけがある。

 時刻は午前六時。今日は連休最終日だが、昨日の続きをやらねばならない。シャワーを浴びて身支度を整え、いつでも集まれるように準備をすませた。


 □□□


 『黛書房』二階、工房。そこで時計盤に向かい、蝶子は朝の風を窓から感じながら、光るパネルをタッチし作業を進めていた。しかし、その顔は険しいものだった。

「……これ以上、この帳簿からは目新しい情報を収集できない、か……」

 窓際ではチクタクが風を受けながら、身を丸くして眠っている。いつも蝶子が目を覚ますころにはどこかで動いているというのに、珍しいこともあるものだと蝶子は軽く流して時計盤の前で考え込む。

「曾祖父がからんでいるのなら一番の近道は、()()()()()()()()()、かもしれない……」

 昨日起きた出来事。空は赤く、大地は揺れ。異形が歩き回る世界。思い出すだけで身震いがした。そのうえ、自分は怯えるばかりで何もできないでいた。

 情けない……。そしてそんな自分が許せない。自責の念が募り、まだ朝の五時前だというのに作業を開始したのは、罪悪感を紛らわすためだった。

 戦う能力は持っていない。でもせめて、何かの役にたたなければ。帳簿の解析を進め、つかめる情報を少しでも……。しかし、絞り出しても掘り起こしても、目新しい情報は出てこない。

 次第に焦燥感がこみ上げてきた。この帳簿だけでは、核心に迫ることは難しい。

 それなら、自分にできることはなんだ? ただ情報を呼び起こすだけの力で、できることはなんだ? 何もないのなら、現状で自分に価値があるとは言えない。

 必要悪。……その言葉が、高橋京極の声で脳内に呼び起こされた。

「……」

 顔を上げ、肩越しにチクタクが眠る窓際を振り返った。チクタクは変わることなく目を閉じ、静かに眠っている。チクタクにわずかな申し訳なさを感じつつも、蝶子は工房を下りて地下の時計盤の前まで歩いた。蝶子が時計盤の前に立つと、自動的に光るパネルが複数浮かび上がってくる。

「この町をあんな地獄にしようとしているなら……同じ地獄からじゃないと、情報は得られない……!」

 光るパネルを操作し、喉を固く鳴らした。パネルからは短いメッセージが浮かび上がっていた。

 封印解除、という短い一文。

 息が乱れていた。切迫するものが肺を押しつぶしているように、苦しい。指先が震える。昨日の記憶から呼び起こされる恐怖によって、体中が凍ったように固まっている。

「私は……私が生きていい理由がほしい……っ!」

 時計盤に浮かび上がった針が目まぐるしく回り始める。やがて分針と秒針は、十二時の表記の上で姿を重ねて停止した。

 地下室全体が揺れ動く。重く低い音に引きずられるよう、小さな振動が足元から上がってきた。

 同時に、無味無臭だった地下室に、どこからともなく腐臭と血臭けっしゅうが立ち込め始めた。息をのめば口の中に粘り気が張り付き、腐肉の臭いが喉に絡みつき、離れようとしない。

 だが、そんなことに構っていられない。蝶子は顔をしかめながらもパネルを操作し、最後の入力をすませた。足元から上がってくる揺れはさらに強くなり、それは目の前……時計盤を押し上げるように振動を強めていく。

 時計盤が少しずつ、上へと昇り始めた。それは蝶子の胸の高さほどまで持ち上がると、再び重い音を立てて、地鳴りのような振動とともに停止した。

「……答えて。あなたたちは一体、何を成そうとしているの」

 光るパネルが、ノイズのようなもので揺れ始めた。

「あなたたち『月輝ル夜ノ部隊』は……天宮一式は、何者なの……?」


 □□□


 蝶子と連絡が取れない。神木からそう連絡があったのは午前九時ごろだった。

 電話口の神木は平静を保ってはいるが、声の底から不安の色は払拭できないでいた。マンションの前で神木の車に拾ってもらい、後部座席へと乗り込む。

「また朝からごめんね。でもスタンバってもらってて、助かるよ」

 運転席でハンドルを切る神木の横、助手席にはまだ眠たそうな目をこすりながら座っている紫雨がいた。

『今朝の八時には、黛さんのスマホは圏外扱いになってたんだけど』

 後部座席に座っているのは切子と、その手の中のスマートフォンからスピーカーを通して話す帆夏がいた。

『なんだか普通じゃないんだ。奇妙な淀みのような、濁った気配を感じたの』

 あくまで自分の勘、と付け加える帆夏だったが、それに対し神木は「構わないよ」と前を見ながら答えた。

「いつキョウゴたちが仕掛けてくるかもわからない。できることなら決着がつくまで泊りがけでも挑むべきだが……」

 神木の横顔は、緊張と焦燥でこわばっているように見えた。表情にいつも見せる柔らかさがない。

「それで、ほかの人たちは……」

 ししろと清十郎の姿はなかった。神木が電話を掛けたところ、すでに電車やバスに乗って向かっている最中だという。

 車は田園を縫うように抜け、バスが通る一直線の道へと出た。ここからはひたすらまっすぐ。もう『黛書房』の姿が見えてもいい距離だ。

 ず……と、巳影は右目に重たいものを感じた。視界が、右側だけぶれて見える。

『巳影っち、気づいた?』

 こちらの気配に帆夏も勘づいたか、スピーカーから声をかけてくる。

『巳影っちの右目に渡した『竜宮真鏡』は、簡単な細工なら見抜ける力を持ってるよ。例えば……見た目を屈折させる結界みたいなものもね』

 巳影は左目を閉じて、右目だけに精神と神経を集中させた。

 右目の視界は、どこか薄暗いものを映している。朝、それも晴れた日だというのに、太陽が隠れているような暗さだった。土で舗装された道も、妙に荒れているような気がする。

「な……なんだ、あれは!?」

 前方、一キロほど先……『黛書房』があるあたり。その周囲には、天まで続く光の柱のようなものが伸びており、つながった空は赤黒い色に……昨日見たばかりの色に変わっている。

「どうしたんだい!」

 神木は巳影から返事を聞く前に、強くアクセルを踏んだ。

「き、昨日みたいに、『黛書房』を中心に空間が変異してます!」

 右目から見える空は、まるでバケツでもひっくり返したかのように、赤く黒い色が広がり、染まり始めていた。その光景は、高橋京極が試運転として使った、異界の景色そのものだった。

「先生、急いでください!」

「わかってるよ!」

 気のせいじゃない。

 腐肉が漂わせる腐臭と、生臭い鉄の味を喉元に塗り付ける、血臭が漂い始めていた。


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