01:春と修羅
あちこちに上がっていた火の手は、建物を駆け上がり、夕暮れをつかもうとするほどの勢いで広がっていた。
大地が赤いのか、天空が赤いのか。それは……ちぎれ、切断され、貫かれた人体から流れる赤なのか。壁を焼き、床を舐め、集合住宅そのものを貫く赤のせいなのか。その判断は、誰からも下せないだろう。
もう、悲鳴は聞こえない。うめき声も、助けを求める、懇願する声も聞こえなくなってしばらく経つ。
収まらない動機は呼吸を粗くし、吸い込む熱で肺が今にも溶けそうだった。
『いいか、飛八巳影』
頭の中から聞こえる獣の声は、こんな時でも変わりはなかった。地響きのような、深い底の見えない谷底から、響いて届く唸り声。
牙を剥いているであろう獣が、自分の名前を呼ぶ。
『一合だ。一瞬、一撃で決めろ。未熟なお前の体では、私の力を二度も使うのは難しい』
早鐘のように鳴る頭痛の音か、心臓が鳴る鼓動の音か。ガンガンと体全体を打ち付ける痛みが、今にも意識を奪いそうだった。
『いいな、一度だけだ。一呼吸で奴を……「友」を撃て』
□□□
春風が桜の花びらをすくい上げ、穏やかな気温が頬をなでていく。春に鳴くホトトギスはまだ慣れないのか、時々鳴き声を喉につっかえさせていた。
「初めまして、飛八巳影です。この春から転校してきました、気軽に巳影と名前で……ごもっふ!」
開けられた教室の窓から入り込んだ桜の花びらが、自己紹介中の巳影へ吹きつけ、口の中へと入ってしまう。盛大にむせた自己紹介は不本意ながら場を沸かせ、変な意味で目立ってしまった。
妙に火照ってしまった頬に苦笑いを浮かべ、席につく。それを外から笑うように、ホトトギスがつっかえた声で鳴いていた。
新学期の始業式は滞りなく終わり、クラスの自己紹介の後、すぐに解散となった。
4月のはじめから部活に励む者、帰宅する者で、放課後の活気が膨れ上がっている。
「飛八くん、少しいいかな」
担任の教師である青年、神木が教室を出ようとしていた巳影を呼び止めた。
「君は、どこか部活へ入るつもりはあるかな」
「部活……ですか。今のところ、あまり考えてません」
「そうか。じゃあ案内のプリントだけ渡しておくよ」
手渡されたプリントには様々な部活が紹介されている。メジャーな運動部から文化部、それに同好会やサークルと、多岐にわたっていた。
「学校の掲示板やホームページでも確認できるけど、気が向いたら相談してほしい。この学校では任意だから、気負う必要はないよ」
プリントに目を落としながら、巳影はポツリと言った。
「……『茨の会』って、ありますか」
街路樹の桜に、飛び慣れてない若いカラスが降りて、身だしなみを整えるかのように、くちばしで羽をつつく。
「いばら?」
神木も同じプリントを取り出し、見回して見るが、
「いばらって、あの茨だよね。園芸部はあるけど……ガーデニングとかが好きなのかい?」
「……。いえ、特に。では失礼します」
きょとんとしたままの担任を置いて、巳影は教室を出ていった。
生徒たちが行き来する廊下を歩きながら、渡り廊下を進んで中庭へと出る。生徒たちの各クラスがある教室棟と、資料や道具などの準備室が並ぶ実習棟の間。
中庭には、二本の記念樹と、それを囲う花壇が端のほうに設置され、苔むした地蔵が二つ並んでいた。地蔵の側を、数羽の雀が飛び回り、地面をつついている。
小さな広場となっている中庭のベンチに腰を下ろし、改めてプリントを眺めた。
『部活動か。流石に『茨の会』の名を堂々とさせてはいないだろう』
爽やかな風が吹く中庭で、地響きのような唸り声が、頭の中を横断した。
「その名前だけしかヒントがないんだ、がっつきもするよ」
中庭には今、巳影一人しかいない。「頭の中との会話」は口に出しても聞かれることはないだろう。
「それにこの町……「土萩町」の土地勘が全くない。だからどこかに融通の効く拠点がほしいんだ」
頭の中からは、特に返答はない。同意見だろうか。
「町に出る機会の多い部活やサークルがあれば、丁度いいんだけど……」
基本的に学内で行う活動を部活動というのだから、難しい注文だと自分でも分かる。一覧に一通り目を通した巳影は息をついて、宙を仰いだ。そう都合の良いものは見当たらなかった。
土萩町。小高い山に囲まれた、田園広がる田舎町だった。歴史は古いらしく、多くの伝承を残していると聞いていた。多数の記念碑や郷土資料館もあるようで、いつかは回らなければならない。
空は晴れている。校舎に切り取られた青空は、静かだった。耳に届くものは、時折に吹く風のなびく音だけで、それに耳を澄ませて目を閉じた。
「ねえ、君」
不意に、上から少女の声が降ってきた。目を開くと、実習棟の四階から窓を開け、こちらをのぞいている一人の女子生徒がいた。
「そこ、危ないよ。早く離れた方がいい」
「……?」
危ない? 思わず周りを見渡してみるが、何の変哲もない中庭である。ベンチが設置され、適度に掃除もされているからか、地面には落ち葉もない。緩やかな風が吹いて、二本の記念樹の葉を揺らした。
『飛八巳影、立て』
牙を剥いた獣の地響きが、唸る。
『結界が敷かれている。来るぞ』
飛び上がるように地面を蹴り、ベンチから転がり落ちた巳影は、背筋に感じた冷たい感触にごくりとつばを飲む。
今しがた自分が座ってくつろいでいたベンチには、深い溝が……いや、何か鋭い刃物でえぐったような痕跡が走っていた。
雀たちが空に落ちるように飛んでいく。鳴き声はなかった。
「……!?」
周囲を再び見渡す。そこに、主だった変化はない。誰もいない、物静かな中庭。空は晴れており、雲一つない。壁となっている教室棟も、実習棟も……静かで、人の気配すらなかった。
(あんなに廊下に生徒がいたのに……下校したわけじゃない、部活だって始まったばかりの時間のはず)
下から見上げる窓ガラス、どの廊下にも、人影らしきものが見えない。それどころか、溢れていた放課後の喧騒、活気、折り重なる人の声すら消えている。中庭は、静か過ぎた。
後ろ、と遠くで叫んだ声が耳に届いた。反射的に横に体を投げ出す。転がり、回転する視界の中で、記念樹と並ぶ花壇の方へと意識が行った。
違和感。
(……集中しろ、考えろ、推察しろ)
リミットは、自分が体勢を立て直すまでの、二秒もない時間。その間に、今起きていることの正体を掴まなければならない。
『自分が何者であるかを、思い出せ』
濁流のように流れる視界に、染み込んでくる獣の声。
背が土に触れ、靴底が地面を捉える。顔を上げ、ありったけの力を、握った右拳に集中させた。
牙に、焔が宿る。
風が切り裂かれ、空気は焼かれ、拳は標的を砕いた。
「……ッ!?」
振り切った腕に、確かな手応えを感じ、そして今、目の前で崩れ落ちていくものに言葉を失った。
ガラガラ、と重たい音を立てて崩れていく小さな影は、細かい破片へと砕かれて、白い煙を立ち上らせていた。
「じ……地蔵……?」
それは大きさにして一メートルもないであろう、苔むした地蔵だった。ハッとなり、花壇脇へと振り返った。そこには二体あったうちの一体の地蔵の姿がない。
「……どうなってる……」
呆然となった巳影の耳に、活気だつ放課後の空気が滲んできた。上を仰ぎ見ると、校舎には人影がたくさん見える。談笑する声や、吹奏楽部の音楽、実習棟の向こうからは運動部の掛け声が響いてきた。
バサリ、と空を羽で打つカラスが大きく青空を旋回し、鳴き声を一つあげた。