第075話 ペイジ
行軍はやはり、ゆったりであった。ブルーレイクは湖畔の町で、湖に張り出した半島のような場所にある。街並みは教会を中心にひとッ所に詰め込まれ、朝霧も相まってブルーレイクはまるで湖に浮いているようであった。
馬車の窓からそれをしばらく眺めていた。リーマンはというと本を読んでいる。幻想的なブルーレイクの街並みをチラリとも見ない。田舎は好きではないようだ。牧歌的で落ち着いた、時間を感じさせない風景には興味がない。さしずめ、都会派なのだろう。
やがて馬車は湖を背にした。俺は目を閉じた。
ロビーでのイーデンの顔がまぶたに浮かんで来る。アンダーソン邸では痛みに耐えているかのような苦悶の表情を見せていた。妻子と話すイーデンの表情は、アンダーソン邸での出来事が遠い昔のように思えるぐらい晴れやかで明るかった。
あれが本来のイーデンなのだろう。俺は本来の俺に戻れるのだろうか。いや、戻らなくてはならない。杏と里紗のためにも。
杏の、彼女らしいあの暖かい笑顔を失いたくはない。里紗はちゃんと寝て、ちゃんと飯を食っているのだろうか。小鳥のような溌剌とした声が聞きたい。
リーマンは本に夢中のようである。ページをめくる音が途絶えない。何を話しかけられても無視を決め込むと内心身構えていたが、もうその必要はないようだ。
俺は安心して杏と里紗の思い出に浸った。杏との初めてのデート、初めてのキス。楽しかった会話、プロポーズ、ウエディングドレス、誓いのキス。宙に浮くブーケ。
そして、里紗の誕生。初めてつかまり立ちした時は杏とバカみたいに喜んだもんだ。言葉を喋っては喜び、リズムに合わせて踊っては喜んだ。何度も三人で旅行に行った。三人でいるとずっと笑いが絶えなかった。
☆
ブルーレイクから十日ほど経った。例によって俺はリーマンに語りかけられたとしても答えるつもりはない。速度が適度なせいか、馬車の揺れが心地よかった。行きの移動が尋常ではなかったのが分かるってもんだ。
連日のふかふかで肌さわりのいいベッドも満足していた。快適でよく眠れたが、王族仕様の馬車も捨てがたい。狸寝入りのはずが、揺りかごに揺られているようで本当にうとうとしてしまう。リーマンも俺に話しかけるつもりはないようだ。いつものように本に夢中である。
馬車が止まった。馬車を止めたということはもう昼飯ってことだろう。皆それぞれ、これから昼の支度をする。俺たちはしばし待機だ。
昨日の移動では草原にテーブルを置いての昼食だった。まるで我がまま女王様の御茶会である。俺とリーマンだけがテーブルを使い、ワインを飲み、フォークとナイフで飯を食った。そして、最後にはティーとスイーツだ。
この行軍の設定は、上洛を促しに来たリーマンを兄のイーデン・アンダーソンが快く迎え入れ、兄弟一緒に王都まで旅をする、である。そのために国軍を早々に返し、身内だけでの移動だった。優雅なランチはポーズでもある。どこで誰が見ているか分かったもんじゃない。
噂というものは尾ひれはひれつくものだ。王族の野郎、優雅に飯を喰らいやがって、なら俺たちの目的に適っている。ただし、ランチには肝心なイーデンが加わっていない。設定上おかしいと言えばおかしいのだが、イーデンはすでに賜姓降下している。
王族のテーブルに臣民は同席出来ない、とするならそれも理屈だろう。イーデンは相変わらず黒ずくめのプレートアーマーを着込み、剣の柄に手を添え、周囲を警戒している。護衛騎士として忠実に仕事をこなしていた。
イーデン抜きのランチは俺に少なからず罪悪感をもたらした。先王の血を引くイーデンは本来なら王族である。キース・バージヴァルでない俺の方がむしろそっち側の人間。しかも、元の世界ではまさに要人の護衛も請け負っていた。
ソフィアとアリスもいることだし、イーデンに対して何かこれ見よがしのようで気が引ける。
どうも、食事に限って言えばこの旅は面白くないようだ。王都にいる時は従僕なんかを使わず、カリム・サンらと普通に飯を食っていた。その点で言うと、キース・バージヴァルがアホだったおかげだ。もちろん、キースは誰からも咎められなかった。
ここに来て、従僕を持てと、やっとリーマンが指摘した。これからは更に口酸っぱく言って来るのだろう。そう思うとげんなりする。
フットマンやペイジを使うのは性に合わない。フットマンの彼には悪い事とは知りつつ、我慢しきれずリーマンの元に返してしまった。それ以来、あのフットマンは俺の所には来ていない。
リーマンも強引に押し付けるのは逆効果だと思ったのだろう。従僕が王族にとっていかに大事かを事あるごとに俺に説いていた。
俺としては、椅子は自分の加減で引きたいし、かといって従僕から仕事を奪ったと思うと気がめいる。地が庶民だからしょうがない。この旅は、食事がまさに鬼門だった。
否が応でもリーマンと差し向う。昨日の昼飯といい、昨夜の晩飯といい、王族というのはどうのこうのと、王都に帰るまでずっと聞かされるのだろう。
ふと、馬車のドアの前に誰かが立つ気配がした。ドアからノック音がする。昼の支度は済んだには早すぎる。馬車はさっき止まったばかりだ。
テーブルの配置や料理にこだわりのあるリーマンは当然、眉をしかめた。適当に席を用意したのなら許さないとばかり、あからさまにバンっと本を閉じ、どうぞと強い口調でドアの外に立った者に命じる。
ドアが開かれるとそこにいたのはこの馬車の後部に同乗するフットマンではなかった。先触のために先行したフットマンだった。リーマンの表情が怪訝な顔つきに変わる。
「どうしました」
リーマンがそう尋ねるとフットマンは馬車に上がり込む。
「火急のことにて失礼いたします」
ひざまずくともう一人、後から馬車に上がり込んで来る者がいた。少年である。
身なりはどこにでもある庶民の服装であったが、淀みなくひざまずく辺り、おそらくはペイジと呼ばれる従僕なのだろう。彼らは十代半ばまで見習いをし、フットマンへと昇格する。
「なにがありました」
リーマンは王都の異変を察した。ペイジは本来なら王都にいるはずだ。仕事をしながら宮中の作法や習わしを学ぶ。
馬車の床に並んだ二つの顔色は真っ青だった。唇もかさかさで紫色をしている。額からも汗がぼたぼた落ち、床を濡らしていた。体はぶるぶると震え、まるで二人とも川でおぼれたようである。
フットマンは意を決したのか、震えが一瞬止まったと思うと目をカッと見開く。
「五日前、陛下がご崩御あそばされました」
そう言うとフットマンとペイジは二人とも同時に、床に張り付くように頭を下げる。
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