第177話 アヴェ・マリア
通勤するのは稀であった。ほぼ仮想空間の中で仕事は行われている。大学の場合はというと教授も受講者も一つの教室には入る。しかし、それがWEBであっても対面であっても良かった。里紗は対面派だった。食べ歩いたり、旅行したり出来る友達を造りに大学に行っていた。
リニアを降りるとエレベーターに乗った。あっという間に百二十階までやって来る。ドアが開くと秘書アンドロイドが待っていた。通路を進み、部屋に通される。俺はコートを脱ぎ、それをアンドロイドに渡した。アンドロイドは受け取ると代わりにタブレットを渡して来た。
俺はそれを手に通路を進む。目前に木製の大きなドアがあった。俺を認識して開く。目前には長手方向に十人は座れるような大きな木製のテーブルと全面ガラス張りの部屋があった。
テーブルには椅子が五つしかなかった。どれもが革製で、ヘッドレストやアームレストがあり、ランバーサポートも付いていた。体を預けると全身にフィットし、圧迫感がまるでない。快適な座り心地を確かめるように俺は目を瞑った。
ドアが開いた音がした。足音が四人分ある。目を開けると四つある席に男がそれぞれ腰を下ろしていた。
男たちはタブレットを見ながら喋り始めた。コロニーの治安悪化や新たなサイド建設により彼らはプロを欲していた。どれくらいの人員が必要なのか、競合相手はどう動いているのか、契約内容の見直しなど。
軍からのリクルートが主に話題となっていた。俺は軍に多くのコネがある。直ぐにでも地球を発ってコロニーを周り、めぼしいやつに直に会って一本釣りして回ることとなる。
WEB上ではこう言った会議は出来ない。ハッキングにより競合相手に筒抜けとなるし、市井にハッカーはごまんといるのだ。WEBは宇宙の隅々にまで広がっている。
サイド6に関連する事項である。産業スパイならまだしも、顧客の情報や会社の動きをWEB上に晒されるなどのリスクは避けなければならない。
俺は帰路についていた。家に着いたら早速コロニーへの旅の準備をする。
ビジネスマンや旅行者といった風体でコロニーに行ったら、直ぐにアースノイドとばれてしまう。命が幾らあっても足りゃぁしない。報道関係者ということで軍に紛れこむのがいいだろう。
現地では我が社の護衛アンドロイドを使うか。いや、それも好手とは思えない。アンドロイドはコロニーに暮らす普通の人々には手が届かない。コロニーの暴動では既得権益を持つ者が真っ先に狙われている。その者たちはほぼアンドロイドを護衛に付けていた。そして、彼らは余すとこ無く我々のような会社の顧客でもある。
軍からのリクルートが目的だが、退役軍人も拾って行きたいところだ。片腕が無いとか、半身がサイボーグとかでも何ら問題が無い。仕事はアンドロイドがしてくれる。俺たちは指揮官が欲しいのだ。
現役退役関係なく、くすぶっているやつは大勢いる。そいつらを見つけなければならない。現地の社員を案内に付ける。地球を発つ前に社員の選定は必要だ。誰でもいいってわけではない。こいつだというやつにはスケジュールを開けさせる。
思った以上に危険な旅になりそうだ。犯罪者たちもこの混乱に乗じて活動を活発化している。アースノイドと知れたらどうなるか。拉致されて、下手したら解体され臓器を売られる。
エレベーターを降り、玄関の前に立つ。ドアが俺を認識し、扉を開ける。ピアノの音が聞こえた。
曲はシューベルトの『アヴェ・マリア』だった。
ぐっと郷愁に駆られてしまう。だが、会社から帰った俺はいつものように立ち止まり、ただ聞き入っている。これはいつかの記憶。本当の俺はここにはいない。
流れるメロディーはシンプルで一定のリズムを崩さず、音は澄んでいて静かだった。ワンフレーズ終えると俺はメロディーに引き込まれるように廊下を進む。廊下の壁が次々とガラスとなって東京の蒼い空が視界いっぱいに広がっていった。
心に深く沁み入る旋律と蒼一色に染まった風景に、時間がゆっくりと流れているような錯覚を覚える。曲は、湖畔の岩の上にある聖母マリア像に、父の救いを求めて祈る乙女を描いていた。
静かな湖畔。聖母と対面する乙女。その風景を想像するだけで心穏やかになる。乙女は自分のためではなく、父の救いを祈っている。
人は自分の幸せばかりを想うと心すさんでいく。誰かのために祈るという行為は人を優しい気持ちにさせる。この曲はいつもそれを俺に教えてくれた。俺はコートを脱ぎ、それをソファーの背にゆっくりと掛ける。
全てのコロニーに住むすべての人たちに想いを馳せた。誰かを地球に降ろせば、残された誰かは憤る。宇宙に住む全ての人を地球に戻すなんてことはもう出来ない。それほどまでにコロニー全体の人口は増え続けていた。
せめて彼らに幸有らんことを。
そう思う以外、俺には何もできなかった。いや、そう思っていなければ正直やってられない。でなけりゃぁ俺たちアースノイドは全て罪人となってしまう。
杏は何を思ってこの曲をいつも弾いているのだろうか。ピアノに向かう杏は曲に入り込んでいた。
邪魔しないようにピアノの横に立つ。杏の慈愛に満ちた横顔に心が洗われた。ここは俺の特等席だ。いつもこうやって杏とそのピアノに俺はこころ癒されている。
やがて曲が終わり、杏のたおやかな指が止まる。俺へ振り向いた杏の表情に、ふわりと優しい笑みが浮かんだ。
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