第176話 朝食
目が覚めた。サラリとしたシーツの肌さわりと硬過ぎず軟らか過ぎないマットレスに身に覚えがあった。シルバーメタリックの天井と埋め込み式ライト。これは俺のベッドだ。
俺は体を横に向けた。衣擦れの音がする。軽やかで耳触りがいい。隣には誰もいなかった。
温もりがあった。今しがたまでそこに誰かがいた。布団に顔をうずめると残り香。甘い、花のような香りだ。杏がさっきまでそこにいた。
俺は戻って来られた?
いや、違う。ヤールングローヴィによると俺は植物人間になっているはず。これは夢だ。俺はドラゴンと戦って死にかけている。
ベッドから降りた。ナイトウエアのままキッチンへと向かう。ドアは自動だ。寝室を出ると廊下を進む。センサーが察知し、壁のパネルが一枚また一枚と進むのにつれてガラスへと変わって行く。高層ビル群の向こうには小さくくっきりと富士山が見えていた。
地上は公園が幾つもあり、他は森におおわれていた。地球の人口は十億人で、生活の全ては高層ビルの中にあった。地上には誰も住んではいない。
多くの野鳥が飛んでいた。俺の住まいの高さはビルの中ほどだった。有力者ほど高い所に住んでいる。
上を見ればきりがない。地球で生まれたことだけでも感謝だな。若き日、グレて一旦は月や衛星軌道上のコロニーには行った。しかし、地球生まれもあって幸運にも地球に戻って来られた。
キッチンで杏の後姿を見た。俺はボサボサな髪をかきつつ、おはようと気の無い挨拶をした。
感動の再会のはずであった。走って行って、抱き上げてもいいくらいだ。杏がおはようと返すと俺はテーブルに座った。
夢なら願望も繁栄されていていいはずだ。普通の日常。だが、間違いなく現実では無い。といっても夢でも無い。だったらこれは記憶か。
テーブルの上にイチゴがあった。ガラスのミニサラダボールに五、六個乗っている。イチゴは俺の好物で、俺の椅子の前にはいつもあった。里紗に言わせれば、これさえあれば俺は静かなんだとよ。
「マーフィー。ニュースが見たい」
マーフィーとはこの部屋のAIだ。ピコンと電子音が鳴ったかと思うとテーブルの向こうの壁ガラスに映像が映し出される。
衛星軌道上のラグランジュ点と呼ばれる五つの場所にコロニーがある。そこと、月面上にある幾つものコロニーの現状が報道されていた。
どの画像もデモと治安部隊の衝突であった。デモは多くのプラカードを掲げ、地球に帰せと要求している。
俺は映像を見ながら、ミニサラダボールに積まれた一番上のイチゴに手を伸ばす。摘まもうと指に触れた瞬間、そのイチゴはコロンとバランスを崩した。ボールから落ち、テーブルをコロコロ転がって俺の前で止まる。
あ、落ちたと思いつつ慌ててそれを摘み、口に放り込む。映像には死傷者の数がコロニーの画に合せてテロップされていた。イチゴを咀嚼しながら治安部隊とデモの争いに食い入る。
ことは地球連邦政府がサイト6の建設を発表したことに端を発する。全てのコロニーが人口の過密化に喘いでいた。容量オーバーによる住宅不足や環境汚染。それに道路渋滞や鉄道混雑など移動時間の長大化。
ほとんどの人たちは職もなく、土星や木星の衛星などに鉱石やエネルギー採掘に出稼ぎに行くしかなかった。体力がない者は路上生活となる。
そうなると治安の問題は深刻で、商業施設は次々と閉鎖されて行った。人が生きていける環境では無くなっていたのだ。
各コロニーの改善のためにサイド6は計画された。地球連邦政府は地球からさらに遠くへ人々を送ろうと言うのである。
杏がキッチンからやって来た。トースト、目玉焼き、ポテトサラダにベーコンがワンプレートで、俺の前と向かいの席に置かれる。珈琲もそれぞれ出された。
実際、大国同士は月の表面の土地や土星木星への航路を巡ってことごとく対立していた。宇宙空間での戦争は幾度となく起きている。
それを押してまで大国同士はサイド6建設へ向けて意見を一致させていた。人々を絶対に地球に戻さないという強い意志の現れと言えよう。全てのコロニーで暴動が起こるわけだ。
杏も皿と珈琲を手に俺の横に座った。ふわりと頬笑んだその表情から花の香りがしたような気がする。
「おはよー」
声だけが聞こえた。お姫様のご登場だ。里紗は持っていたコートとショルダーバックを向かいの椅子の背に掛けると滑り込むように座る。ニコっと笑みを造り、フォークを手にする。頂きますと言うなり、分厚いベーコンにフォークを刺した。
「おお、今日もやる気だな」
俺が言うと、もちろんと親指を立てる。そして、次々とプレートを片づけていく。小さい顔のほっぺがぷっくりと膨らんで、まるでリスのようだった。
☆
エレベーターを降りると駅だった。どの高層ビルも地下は駅となっていて、各ビルと路線が繋がっている。
駅員はアンドロイドだ。NR2ヴァルキリーのような美女でもなければ、今話題のムービースターのような色男でもない。誰が見ても分かるようにどの駅のどの駅員も同じ姿かたちをしている。中肉中背のどこにでもいる中年男がデザインされていた。
駅を歩く人はまばらで、車両も一車両しかない。減速しつつリニアがやって来たかと思うと短いホームにピタッと止まった。
下車する者はいなかった。乗車するのはたった四人で、車両には十人も乗っていなかった。
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