第107話 ダイブ
通行手形とはえらい言われようだな。だが、実際そうなのだからしょうがない。
アトゥラトゥルは翼を広げた。獅子ケ岳の上昇気流で山腹から山頂へ向けて押し上げられていく。月光が白い山肌を蒼く染めていた。
アトゥラトゥルは風に任せて飛ぶ。もう急ぐ必要もないのだろう。おそらくは、ラキラの里はもう目と鼻の先だ。それにドラゴンの領域に入ったのだ。人に見られる心配もない。
突然、ラキラが立ち上がった。
「あのぉ、言いにくいのですが、」
「あ、危ないだろっ!」
ラキラは手を広げた。俺の声が届いていないのは致し方ない。だが、俺の言葉を全く気に掛けていないのもどうかと思う。
それにこの落ち着きよう。風を目一杯受けている。いかれていると思った。それどころか、ラキラはその状態でさらに進行方向に背を向けた。
俺を見下ろしている。俺はぶかっこにも車に引かれたカエルのようにアトゥラトゥルの背中に必死にしがみ付いている。はずかしいどころではない。
「前、前。落ちたらどうすんだっ!」
「ジュールが遊びたいってうるさいんで、少し時間をください。ジュールに付き合ってあげたいんです」
はぁ? なんて? 風で聞こえない。
ラキラは飛び上がった。あっという間に後方へ消えて行った。俺は唖然と見送るしかなかった。
なんで?
なんで、その状態で飛び上がるんだ!
いや、そんなことを考えている暇はない。アトゥラトゥルに伝えないと。
『ラキラが落ちた! ラキラが!』
「なに?」
ラキラが俺の右を飛んでいる。ジュールが翼を広げていて、ラキラはまるでウイングスーツを着ているようだった。ラキラはヒラリと俺の頭上で回転し、俺の左側へと移動した。ゆっくりと距離を空けていく。
ジュールが翼を畳んだ。ラキラの速度が上がり、見る間に小さくなっていく。アトゥラトゥルも翼を畳んでその後を追う。
眼下でまた、ジュールの翼が広げられた。ラキラの体が浮いて行く。あっという間にラキラの姿は俺たちの頭上にあった。アトゥラトゥルも翼を広げた。ラキラを追うように上昇していく。
揚力の差は段違いだ。アトゥラトゥルはすぐにラキラを捉えた。追い抜いて行こうと交差するその瞬間、ラキラの指先がアトゥラトゥルの左翼に掛った。
ラキラの体はその手を支点にして軽やかに反転する。まるで重力から解放されたようにアトゥラトゥルの翼にふわっと降り立ったかと思うとラキラは翼の上を走り、俺の前を駆け抜け、右翼へと進む。翼開長は優に百メートルはある。ラキラは端から端まで走り切って、また星空にダイブした。
ボディーラインが一直線となった美しい姿が無数のきらめく星々の中へと吸い込まれていく。ラキラは見る間にアトゥラトゥルに後方下に引き離されていった。
アトゥラトゥルは大きく円を描きつつ降下する。やがてラキラの背後に付く。ラキラの姿は氷上を軽やかに滑るようにジグザグに飛んでいた。そこにじりじりと近づき、横に並ぶ。ジュールは上機嫌のようだ。口から魔法陣が次々と作りだされている。
内容は全て、ヒャッホーとかイエ―とか、魔法陣を出すまでもないようなものだった。だが、仕方ない。それがドラゴン語なのだ。魔法陣は次々と現れては消える。ラキラも楽しんでいるのだろう、俺に手を振っていた。
やれやれだ。タイガーという立場を忘れてしまっている。とはいえ、ラキラはやはり十八、九の少女だ。俺も十八、九の時、バイクを乗り回していたしな。まぁ、ここは目をつぶってやるか。
ふと、ラキラが消えた。並んで飛んでいたはずなのに、上を見ても、後ろを見ても、どこにもいない。
俺はアトゥラトゥルの背中から肩口へ向けてじりじりと移動する。空を飛ぶのは怖くはない。若い時はジェットパックを装着し、ヘリから飛び降りたもんだ。けど、DIYで三角屋根の棟を命綱無しで歩くのは怖いだろ。今の気分はあれと同じだ。
風に飛ばされないよう匍匐前進で慎重にトゲを掴んで進んでいく。やっと肩口まで到達した。
下を覗き込む。ヘルナデスの山々が見えるばかりだ。やはり下を飛んでいるわけでもない。ラキラはどこに行ったのか。
突然、翼の下からバッと、ラキラが顔を出した。驚くってもんじゃない。思わず手を離してしまった。が、何とか態勢を立て直す。
いないと思ったラキラはアトゥラトゥルの脇、翼の下に隠れていた。キャッキャ笑ったラキラはアトゥラトゥルから手を離す。膝を抱え、グルグル回転しながら後方へ飛んで行ってしまった。
くっそー。からかわれた。もしかして、一番楽しんでいるのはラキラなのかもしれない。ラキラはすぐさま後方から迫って来て、俺たちを追い越し、正面に出た。アトゥラトゥルの顔に近付き、その角を掴むと並んで飛んだ。まるでイルカと戯れるダイバーだ。
ラキラはアトゥラトゥルの顔を抱きしめ、頬ずりし、離れた。そして、そこでいきなり錐もみを始める。なぜかアトゥラトゥルも翼を畳む。もしかして、俺の予想が正しければ、これはえらいことになる。
案の定、アトゥラトゥルも錐もみ回転を始めた。俺はへばりつくのみ。引き剥がされないよう強化外骨格の力を借りる他はない。俺はみっともなく、黄色い悲鳴を上げていた。
新たに俺の黒歴史が刻まれた。女の子のような叫び声を上げたのは若き日、妻の杏とジェットコースターに乗って以来だ。
すでに錐もみ回転も終わり、ラキラとアトゥラトゥルは並走している。ジュールは俺の方を見て、かっこわりぃ、って言っている。ラキラはというと、ちょいちょいと前方を指差していた。
切り株のような形の山が幾つもあった。テーブルマウンテンと言われるやつだ。大きさも大小さまざまで、最も大きい山の頂上には森が広がり、断崖の岩肌には滝が三つもあった。ジンシェンがいた里のように儀式用のドームも建てられている。
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