第1章 第4話 人の心
「その左脚、手術すれば治るんですよね?」
うつ伏せになっているオリヴィアの顔を覗き込むことはできない。
「どうして治さないんですか?」
だが表情は見えなくても、わかる。
「どうして大好きなバレーを捨てたんですか?」
今のオリヴィアから逃げることは敵わない。
「……好きじゃないからだろ」
「うそ。あんまりわたしを舐めないでくださいね。これでもちゃんと、伊達さんのファンなんですから」
「嘘じゃないよ。少なくとも、勝てないバレーは好きじゃない」
「…………」
こんなこと言ったら嫌われるだろう。軽蔑されるだろう。また失望されて、今度こそ捨てられるに違いない。それでもこれが嘘偽りない俺の本心だ。
「女子バレーで妖怪と呼ばれる選手は中高合わせて7人いる。他の選手を圧倒的に上回る真の天才。日本でたった7人の、名誉ある称号。だが男子バレーの世界では、たった一人。俺だけが、特別だった」
そして男子バレーの世界から、妖怪は消えることになる。それはきっと、未来永劫。
「確かに手術すればバレーがまたできるようになる。でもできるだけだ。完全に元の身体に戻るわけじゃない。リハビリにブランク。全盛期からはわずかに。だが絶対的に、劣ってしまう」
あぁ恥ずかしい。情けない。みっともない。俺を神格化しているファンの前で、こんな人間らしいくだらない悩みを打ち明けるなんて。
「俺は特別でいたいんだ。チームスポーツであるバレーボールで、一人でも勝てるような特別に」
台風の目と呼ばれたコートの中心に陣取り、コート全域を一人で守る、リベロの極致。いくら手術をしたとしても完全に脚が元に戻るわけではない。0.1秒でも遅れたら使えなくなるこの戦法は幻と消えてしまう。だったら俺がバレーを続ける理由はなかった。
「……嫌なんだよ、失望されるのが。弱くなった、昔なら拾えた、事故になんて遭っていなければ。そんな風に、バレーもまともに知らない知った顔した奴から言われたくないんだ」
俺はちょっとした有名人だ。そしてこれからもっと、有名になる。台風の目が使えなくなったところで俺に勝てるリベロはいない。きっといずれ世界を舞台に戦う選手になるだろう。バレーを続けてしまったら。
「結局俺は逃げたんだよ。こんなはずじゃなかったのにって、不特定多数の匿名から言われるのから。あの時人を助けていなければと非情な後悔をし続ける人生から。全部、あきらめたんだ」
さて、もういいだろう。この時間も終わりだ。あきらめないことを信条にしていた俺はもう死んだ。オリヴィアが俺を敬愛する理由はなくなった。
「たぶん監督はお前にプレーを磨けと言ってくるだろうけど、基礎トレーニングは忘れるなよ。絶対に怪我だけはするな。そうすればきっとお前は……」
「だから舐めないでって言ったでしょ」
だがオリヴィアは、俺から逃げることはしなかった。
「うちはファンである以前にバレー選手。何も知らないで好き勝手叩く人たちとは違う。その決断が普通のことくらい、うちにだってようわかる」
俺よりも遥かに強い力。強い心。俺を払いのけようとしたらいつでもできるのに、オリヴィアはそれをしない。俺の下で、言葉を続ける。
「衰えを感じたら引退。不調だったら休場。プロアスリートの世界では当たり前のことです。それを咎めるほど、脳死で推してるわけじゃありません」
「ただ、それでも、ごめんなさい」。オリヴィアは、言う。
「一ファンとしては……やっぱりバレーをするあなたが見たいです……!」
選手として、ファンとして、矛盾する感情。彼女はそれを隠すこともせず、赤裸々に語る。
「だってわたしが憧れたあなたの姿はコートの中心にいる妖怪じゃない。でかい選手に紛れながら、いつの間にかボールを繋いでいるあなただから……。だから……うちは……!」
だがその想いも、現実的な事象には敵わない。
「オリヴィア!」
窓ガラスが割れる音が耳に入った瞬間、俺は彼女の身体に覆いかぶさっていた。俺の身体ではオリヴィアの全身を守り切れないが、それでも何もしないよりはマシだから……いや。自然と身体が動いてしまったから。
だがそれは杞憂に終わる。ガラスの破片も割った本体も俺たちの身体には届かなかった。でもこれは……。
「……やりすぎだろ」
俺の部屋に投げ込まれたのは、野球ボールほどの大きさの石。これが偶然なわけがない。いたずらで済むわけがない。
「俺に……どうしろってんだよ」
迫りくる現実と理想。その二つに挟まれ、俺の心は揺らぐこともできないでいた。