ある日の御曹司とローズマリー(2014年 1月 30日公開分)
その日、石蕗一朗は久しぶりに自宅でのんびりと過ごした。
今までせわしなかったかといえば、もちろんそんなこともない。彼は基本的に超人である。ポニー・エンタテイメント社の代表取締役に収まってもう数ヶ月。降りかかる仕事は大抵その日のうちに片付けて、余裕があれば愛車を乗り回して本社支社子会社への視察に行き、気が向けば夜には各方面との付き合いで赤坂や銀座に出向く。
一朗は秘書を持たなかったが、スケジュール管理の半分はローズマリーに任せ、あとはだいたい自分の気まぐれで決めていた。一郎のライフスタイルは、それまでナロファンのログインに当てていた時間を社長としての業務に当てるようになったくらいで、わりと変化がなかったのであるが、それでもこの日のように、昼頃までソファでのんびりと紅茶を飲むような一日は、久しく訪れていなかった。
「一朗さま、お昼はどうなさいますか?」
掃除と洗濯にひと段落をつけた桜子が、ぱたぱたとリビングルームに戻ってくる。一朗は開いた本に視線を落としたまま、すぐにこう答えた。
「なんでもいいよ」
「一朗さま、それは作り手の気持ちをまったく考えていない言葉ですからね?」
「ナンセンス。もちろんわかっているけど、桜子さんの場合はそれが仕事だよ。そして僕は自分の発言には責任を持つから、君は安心してお昼を作ってくれればいい。出てきたものがザザムシでもトンスルでもシュールストレミングスでもちゃんと食べよう」
「本当ですね? 本当になんでも食べるんですね?」
「そう言いつつ、桜子さんはプロなので僕の好みに合わないようなものは作らない」
「くっ」
一朗の指摘はすべて正しいので、桜子はわずかに声だけを漏らして台所へと引っ込んでいく。
「お茶、いりますかー?」
台所から声だけ聞こえてきたので、一朗は顔を上げ、机の上に置かれたティーカップをひと目見た。
「お願いしようかな」
一朗が読書を再開しようとすると、きゅい、きゅい、という小さな音をたてて、机の上を小型の機械が歩いてきた。
六本の足がそれぞれ別に動き、アルモニア製センターテーブルの上を懸命に這っていく。胴体部には一本の受信用アンテナが立ち、更には少し大きめのカメラが接続されていた。電池とモーターで駆動し、カメラで撮影した映像をリアルタイムで〝本体〟に送信するこれは、人工知能ローズマリーの〝眼〟である。このたび晴れて自走式になったのだ。
ローズマリーの〝眼〟は、可動範囲がそう広くないであろう眼を上下に動かし、ある一点でじっと止まった。一朗の顔を正面から見据えてくるカメラを、一朗もまた正面から見つめ返す。
『見つめないでください。照れます』
「じゃあ見ない」
『イチロー、今の私の言葉には、〝実はもっと見つめて欲しい〟という乙女心が潜んでいることを、イチローは理解できなかったのでしょうか』
「予測は建てられたけれど、僕は本音を隠すことで相手に察してもらおうというやり方にはなるべく応じないことにしている」
『では、私のような人工知能が暗喩を用いて乙女心を表現する手法を会得したことに関して、コメントをいただけますか』
「あざみ社長に報告することが増えたかな」
『イチローはイケズであると認識します』
きゅい、という音がして、カメラが下を向いた。
「一朗さまがいけずなのは、今に始まったことではありませんが」
トレーの上にポットを載せて、台所から桜子が出てくる。彼女が一朗の腰掛けたソファの隣でそっと腰を落とすと、ローズマリーの〝眼〟はモーターの駆動音をキュイキュイ鳴らしながらその場を退いた。桜子は一朗のカップに茶を注ぐ。桜子の茶髪がふわりと動いて優雅な曲線を描くと、一朗の視線はわずかにそれを追った。が、すぐに読書へ戻る。
「桜子さん、髪伸びたんじゃない?」
「そーですか? まだイケると思うんですけど……不潔ですかね」
「いや……前髪のサイドが長いのは昔からだし、桜子さんがいいと思うならいいや」
ローズマリーの〝眼〟が、二人の会話を受け、キュイキュイと視線を行き来させる。桜子を見て、一朗を見て、また桜子を見て、そのあとやはり一郎を見てから、ローズマリーは言った。
『人の髪型にはファッションの一部であるとのことですが』
「うん」
『イチローの髪型にはどういった意図が?』
「ん……」
そこで初めて、一朗は本を閉じ、自らの前髪をそっとなぞった。桜子も横から覗き込むようにして一朗を見る。
「サイドに関して言うなら、一朗さまのもみあげは見事にアシメですね。他はストレートなのに。理由でもあるんですか?」
「あるといえばあるけど」
石蕗一朗のプラチナブロンドは見事な猫っ毛である。一本一本が細く柔らかい。彼の心臓に生えている毛は剛毛であろうが、そんな肝の太さなどまるで感じさせない繊細な作りである。世界が嫉妬する髪であった。
こうした髪質はワックスやパーマによって髪型を固定するのには向かない。かと言って彼は長めの前髪を流すわけでもなく、比較的自然な形で下ろしていた。あるがままの自分こそ最強であるとうたう石蕗一朗であるからして、当然の髪型ではあるのだが、唯一手が加えられているのが左右の髪型である。
手を加えるといっても、片方を耳にかき上げ、片方を長めに伸ばし下ろしているに過ぎないのだが、それでも意図しないと作れない髪型だ。明確な左右非対称になっているのが、気になると言えば気になる。
「別に大した理由じゃないよ」
「大した理由じゃないかどうかは私たちが決めます。ねぇローズマリー」
『はい』
一朗の口癖を逆手に取ると、彼は露骨に眉根を寄せた。だが、すぐにいつもの余裕ぶった笑顔に戻ると、本をセンターテーブルの上に置いて、長く伸ばした自らのもみあげをそっとなぞった。次に、自らの胸に止まる不格好な蝶のブローチを示す。
「僕は、大抵のものは左右対称の方が綺麗だと思うんだよね。蝶の斑紋にしてもそうだけど」
杜若あいり謹製のデザインを知り合いの職人に作らせた、銀細工の蝶は、確かに不格好ではあるが左右対称だ。ブローチだけではなく、彼が好む多くの節足動物は、自然界において見事なシンメトリーを実現している。
「で、僕は自分を完璧な生き物だとは思っているけど、本当に無欠だったら世の中はきっとつまらないと思う。だから髪型くらいはあえてアシメにしとこうかな、と」
「想像以上に大した理由じゃありませんでしたね」
「だから言ったじゃない」
桜子の言葉に、一朗は肩をすくめた。ローズマリーはカメラアイでじっと一朗の顔を見つめていたが、しばらく後にこのようなことを言う。
『私は、そちらの髪型の方がイチローに似合っていると判断します』
桜子も頷いた。
「そうですよね。たぶんこれで一朗さまの髪型も完全に左右対称だったら、お坊ちゃん臭が強くてきっとダサいですよ」
二人の言葉は歯に衣を着せぬものであり、はっきり言って一朗の趣旨とも反するものではあったが、彼は相変わらず涼やかな微笑を浮かべると、本を開き直してからこう返した。
「なんか褒められてる気がしないんだけど、ありがとう」