記憶を失くした婚約者
彼との出会いは最悪だった。
私、カレン・バレンティアが9歳のとき、親の一存で決まった婚約。
自分の与り知らぬところで、将来を共にする相手を決められるなんて、と当時の私は強い嫌悪感を持っていた。
それでも、父の友人はお家柄も立派だというから、期待と不安が入り混じった気持ちで会うことを承諾した。
割合でいえば、不安の方が随分と大きかったように思う。
「君が私の婚約者だね。光栄に思いたまえ」
その不安は的中した。
彼は尊大な人間だった。見ているのは私ではなく、私の瞳に映る自分だ。
自己陶酔に浸る彼を見て、私は自分の将来に絶望した。
それでも、まだ出会ったばかりだ。一緒にいる時間が増えれば、相手の良い一面が見えてくるのではないかと思って、表面上は繕った笑みを浮かべていられた。
「おい、このお茶を入れたのは誰だ?」
「わ、私です……」
「不味すぎる。淹れなおせ」
使用人に冷たく当たる態度を見て、将来の自分を幻視した。
見えてくる一面は悪いものばかりで、男性として魅力的かどうか判断する段階ではない。
人間的に受け付けられない。付き合いを持つことも拒絶したいくらいだった。
彼との婚約が決まってからは、今までの生活が一変した。
楽しみだった午後の紅茶のひと時が来るたびに憂鬱になる。些細なことで苛立ちを覚えて、私まで使用人に当たってしまう。
慌てて謝罪をしたが、自分の中に生まれた罪悪感は消えない。
友人に近い関係だった従者とも、少し心の距離が離れてしまったように思う。
当然だ。私自身、自分が少しずつ嫌な女になっている自覚があった。
このまま時間が経てば、私も彼のような他人に敬意を払えない人間に成り下がるのか。
そこまで考えて、更に落ち込んだ。
私は魔法が好きだった。
色んな種類があるけれど、その中でも炎を扱う魔法が得意で、先生には良く褒めてもらえた。好きなことに没頭している間は、嫌なことを全部忘れられる。
他人にはとても言えないけれど、掌に灯した炎を使って婚約のことも彼のことも、何もかも燃やしてしまいたいとさえ考えた。
ある時、お父様が珍しく焦った表情で私の部屋に来た。
息の乱れる父を落ち着かせ、一体何があったのかと尋ねると、婚約者の彼が記憶を喪ったことを告げられた。
覚えているのは自分の名前くらいで、家族の事さえ忘れてしまった、と。
私はそれを聞いて安堵した。これで婚約は解消されるかもしれない。
同時に、他人の不幸を喜ぶ自分が酷い人間に思えて自己嫌悪に陥った。
婚約に関しては、保留という形になった。
彼は記憶を無くした状態で、右も左もわからない。それを配慮した両親が伏せていたのだ。
素敵な両親だと思う。彼に、それが受け継がれなかったのが残念でならないけれど。
***
私は嫌な気持ちを発散させたくて、街に繰り出すことにした。
従者を連れて、少し遠くの街まで出向くことにした。その街限定の紅茶が飲みたくて、父に頼み込んで外出の許可を得た。
帰り道で、大雨に降られてしまった馬車が転倒した。
崩れた道、ぬかるむ地面。私は愚かにも様子を見る為に外へ出た。
ひらひらのドレスに、ヒールを履いていた私は足を滑らせる。
崖、というには小さいかもしれないが下に転がり落ちてしまった。
上ることはできない。助けだって呼べない。
私は近くの洞窟に入って、寒さを凌ぐことにした。
濡れた服が張り付いて鬱陶しい。徐々に体温は下がり、私は泣き出しそうだった。
そこに彼は現れた。
「怪我は無い? 大丈夫?」
嫌な相手ほど、強烈に記憶に残っているものだ。
短く刈り上げた金髪。碧い目。世間一般で美男子と呼ばれる彼が、私は大嫌いだった。
彼は私のことを覚えていない。それが余計に腹立たしい。
「……大丈夫、です。どうしてここに?」
「いや、馬車が倒れてたもんだからさ。怪我してるおじさんがいて、君が落ちたって聞いたから。怪我が無くてよかった」
「あなたまで下りてしまっては意味がないのでは?」
「きついこと言うね。でも安心して。ちゃんと助けも呼んでもらうように言ってある。一人でここに残るってのはしんどいだろ。誰か一緒にいた方がいいと思って」
「──あ」
言葉が出なかった。
ありがとう、怖かった、寂しかった。
伝えたい言葉はあったけれど、唇が震えて紡ぐことができない。
「冷えるよな。まぁ、少しの辛抱だ」
彼はそれを寒さのせいだと思ったらしい。
私は二の句を次ぐことができなかった。
二人の間に沈黙が流れる。
状況も相まって、何を話していいのかわからなかった。
彼を一方的に知っているという状態が、歪さを生んでいるのだろう。
彼は沈黙に耐えきれなくなったのか、私を前におどけるような声を出す。
「こういうときは、人肌で温め合うのがいいらしい。試してみる?」
そんなおかしなことを言うものだから、私はつい冷たく返してしまう。
「いやらしい。最低です」
「……なら、お嬢様の考えってのを聞いてみたいね。人の案を否定するなら、自分のを出さなきゃ」
「なぜ、私が貴族だと?」
「そりゃ、上等な服を着てるし。君の従者も『お嬢様』って言ってたから。……そういえば名前を聞いてなかった」
「カ、カチュアです」
私は咄嗟に嘘の名前を言った。
もしかしたら、彼はもう両親からカレン・バレンティアが婚約者であることを聞いてるかもしれないと思ったから。
「俺はアメリ。まぁ、短い間だけどよろしくカチュア。で、さっきの続きだ。案はある?」
「……私、炎魔法が使えますの。あなたには無理でしょうけど」
「あぁ、たしかに魔法は苦手だ。それで温まるってのもいいかも。で、お嬢様ご自慢の魔法で燃やせるものはどこにある?」
彼が洞窟をじっくり見渡して言うものだから、私も同じようにしてから気付く。
「……あ」
燃やせるものはどこにもない。
外は視界すら遮られる程の大雨で、弱まる気配はない。
仮に出られたとして、濡れた薪は使い物にならないだろう。
「と、灯し続ければ」
「悪いことは言わない、やめとけ。体力が持つ訳ない。本末転倒もいいとこだ」
「わ、私は魔法が得意だと……」
「それは、身綺麗にして体力も気力も万全のときの話だろ?」
言われるまでもなくわかっている。一度出した魔法を維持し続けるのは容易ではない。
可能な者もいるだろうが、今の私にその技量は無かった。
「お手上げ?」
意地悪な笑みを浮かべて笑う彼がなんだか気に入らなくて、何か方法は無いかと思考を巡らせた。
そうして、彼の頭頂部の濡れた金髪が目に入る。
「……いいえ、ありましたわ。燃やせるもの」
「どこに?」
「……」
「髪を見るのやめろ、頼むから。それやったら戦争だ」
それを言うときだけ真剣になる彼を見て、自分の頬が緩むのがわかった。
……こんな状況なのに。
私の表情の変化に気付いた彼が、今まで見たことのない表情で笑った。
こちらを安心させるような、包み込むような、そんな顔。
記憶を喪う前の彼は、人を嘲るときにばかり底意地の悪い笑みを浮かべていたのに。
私はその変化に戸惑う。
「やっと笑った」
「……っ!」
顔が熱くなった。きっと、見られたらすぐ気づかれるくらいに。
そんな顔を見られたくなくて、私は下を向く。
お礼を言わなければ。
助けてもらった。支えてくれた。
直接、顔を見ていうのはなんだか照れくさい。
私は下を向いたまま、ぼそりと呟く。
「あ、ありがとう……」
「いいよ、気にする必要ない」
顔を上げると、お互い様だからと彼は笑った。
本当に別人のようだ。
嘘の名前を言ったことを少しだけ後悔する。
でも、本当の名前を伝える日は、そんなに遠くない気がした。
その時はきっと彼の名前を呼ぶだろう。
記憶が戻らないでと願う私は、性格が悪いのかもしれない。
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