苛立ち
「だから俺は、杉村には気を付けろって言ったんだよ」
一通り汐羅の言い分を聞き終えた紀之が、やれやれと首を振った。
「前に言っただろ? 俺と同じ塾に通ってる奴の先輩の友だちの部活の後輩が、杉村と同じ中学だったんだけど、あいつ、滅茶苦茶評判が悪かったって」
汐羅は返す言葉もなかった。紀之は、汐羅が早苗と友人関係になったと聞いて何日か後にはその話をしてくれたのだが、当時の汐羅は、そんな又聞きを繰り返したような情報が信じられる訳がないと判断してしまったのである。
それに、一年生の時に早苗と同じクラスだった子と話していても、早苗の悪口が飛び出してきた事は一度もなかったので、そんな悪評は、ただの噂話に過ぎないと考えてしまったのだ。今にして思えば、狡猾な早苗は、過去の一年間は恐らく猫を被って過ごしていたのだろう。そうして自分好みの恋人を手に入れる機会を、虎視眈々と狙っていたのだ。
「……で? 長谷とは別れたのか?」
「……そうなんじゃないの」
汐羅はブスッとして答えた。
昨日の放課後、汐羅を呼び出して別れを告げた一輝は、言いたい事を言い終えると、逃げるようにその場を後にした。そして今朝、汐羅は一輝が早苗と仲睦まじそうに登校してくる姿を目撃してしまったのだ。間違いなく、一輝の中では汐羅との関係は『終わった』事になっていた。
しかし、その事を早苗に物申しに行く気にはなれなかった。泣いて訴えたりなどしたら、早苗は表面上は申し訳なさそうな顔をしつつも、陰ではほくそ笑むに違いないからだ。汐羅にとっては、早苗はもはや悪女以外の何物でもなかった。あんな女を喜ばせるような事を、誰がしてやるものか。
「汐羅、お前、酷い顔になってるぞ」
紀之が心配そうに言った。
「長谷との事は残念だったけど、まあ、仕方ないさ。汐羅は鈍いからな。いつか別れるんじゃないかと、俺は思ってたぞ」
「鈍くない」
紀之はたまに汐羅に「鈍い」と言うが、今回に関しては、汐羅は二人の関係に薄々気が付いていたのだ。この件は何を置いても一番に早苗が悪いとは思っているものの、汐羅が反省すべき点を一つ挙げるとするならば、『鈍さ』ではなく、気が付きながらも楽観視を決め込んだ自分の『迂闊さ』の方だった。
「まったく、しょうがないな……」
機嫌の直らない汐羅を見て、紀之がため息をついた。
「今日は特別に俺が奢ってやるから、ちょっとはそれで気を紛らわせろよ」
「……良いよ」
「遠慮するなって」
紀之は、手をひらひらと振ると、通学路を少し外れた道に入っていった。