汐羅の選択
「紀之、さっきはありがとう」
汐羅の突然の行動に驚いて固まる紀之を尻目に、汐羅は言葉を続けた。
「私のために怒ってくれて、嬉しかったよ」
汐羅は深呼吸して、「一つだけ、質問していい?」と尋ねた。ずっと引っかかっていた事を口にする。
「『俺の汐羅』ってどういう事?」
「えっ……」
紀之は虚を衝かれたような顔になった。その目が泳ぐ。
「な、何の話だ?」
「さっき言ってたでしょ? 『俺の汐羅を酷い目に遭わせたお前を許さない』って」
「お、俺、そんな事を言ったのか……?」
紀之は顔を引きつらせた。どうやら無意識の内に放った言葉だったらしい。それか、激高しすぎて記憶が飛んだかのどちらかだ。
「だから……それはその……お、俺の……おさ……幼馴染の、汐羅っていうか……」
紀之は舌がもつれたように上手く言葉を紡げていなかった。顔色が赤くなったり青くなったりと、せわしない。
「……紀之、流石に私もそこまで鈍くないよ」
汐羅が静かに言った。紀之の言い訳がぴたりと止む。
「……そういう事なんでしょ?」
紀之が昔から焦がれていた人物が自分の事を指しているのだと、汐羅にはすでに分かっていた。
だが、かつて一輝に想いを告げられた時のように、汐羅は舞い上がったりはしなかった。淡々と、その言葉を受け止めている。
紀之は、その様子に不安を煽られたのだろう。唇を噛んで視線を外している。だが、彼は知らないのだ。紀之の想いは、かつての一輝の告白の言葉よりも、ずっと汐羅の心の奥まで染み込んでいっているという事を。そして、そこから新たな感情が生まれようとしている事を。
だが、この感情が何という名前を持つのか、汐羅は知らなかった。きっとこういうのは、クラリスの方がずっと詳しいに違いない。だが汐羅は、今の自分がこの想いに名前をつけられない事を残念には思わなかった。




