教える者と教えられる者
「……ねえ、紀之」
廊下の人気のない所に差し掛かると、汐羅は紀之の手を放した。紀之は、ほっとしているのか残念なのか分からないような複雑な表情をしていた。
「私、泣いてないけど」
他の事が言いたかったのに、まだ脳が上手く考えをまとめ切れていないのか、最初に出てきた言葉がこれだった。
「目、赤いだろ」
紀之が汐羅の顔を覗き込みながら言った。
「徹夜でゲームしてたからだよ」
「えっ、そうなのか?」
紀之は気まずそうに眉をひそめた。勘違いであんなに怒ってしまった事が、恥ずかしいらしい。
「ゲームって『悪役令嬢育成計画』か?」
羞恥を誤魔化すように紀之が話題を転換した。「そうだよ」と汐羅が同意する。
「もうやらないって言ってたのに、気が変わったのか?」
「まあね」
汐羅は頷いて、自分が迎えたエンディングの事を話した。
「良かったな、クラリス」
話を聞いた紀之が、感慨深そうに言った。
「ちゃんと好きな奴と結ばれてさ。自分から告白したなんて、偉いじゃないか」
紀之は純粋にクラリスの事を尊敬しているようだった。「私もそう思うよ」と汐羅は言った。
「好きな人に好きって言えない人もいるのにね」
「……何だよ」
汐羅の言い方に棘を感じたのか、紀之はむっとした顔になった。
「俺だって……」
紀之が汐羅の方をじっと見た。あの潤んだような、独特の眼差しだ。どうしてそんな目をするの、と汐羅は聞かない。聞かなくてもその理由が分かるような気がした。
紀之の唇が微かに動いた。何か、言葉を発そうとする。
始業開始十分前を知らせるチャイムが鳴ったのは、その時だった。二人の間に満ちていた、脆く柔らかな雰囲気を掻き消すくらいには、その音は大きかった。紀之は、糸の切られた操り人形のような顔になった。
「じゃあ、俺、戻るから。……教科書は、他のクラスの奴に借りるよ」
紀之が居た堪れないといった風に踵を返した。その表情は、言いかけた言葉を飲み込んだ事に安心しているようにも、悔しがっているようにも見えた。
結局これが相応しいのだろうか、と汐羅は思った。もし先ほど紀之が言葉を続けていたら、自分たちの関係は何かが変わっていた気がする。だが、そうはならなかった。言葉は発せられる前に、紀之の腹の中に再び落ちていったのだ。紀之と自分の関係は、今以上にも未満にもずっとならない。このままが良いという事なのだろうか。
『私はこの後……何をすればいいのでしょう?』
汐羅が戸惑っていると、まるで助け船のように、そんな可憐な声が聞こえた気がした。クラリスの最後の問いだった。
(それに対する私の答えは……)
『 どうすればいいのかなんて、自分で考えなさい。 』だ。自分と紀之の関係を決めるのは、他の誰でもない、紀之と、そして汐羅自身だった。まさか教え子に導かれるとは。どうやら汐羅にも、『セーラ先生』のような存在は必要だったらしい。
迷いはなかった。汐羅は小さくなっていく紀之の背を追いかけて、その腕を掴んだ。




