闘争と逃走
「ふざけんなよ……」
恫喝するような、紀之の低い声が聞こえてきた。汐羅はただ顔を俯けて、縮み上がっているしかない。
「よくも汐羅を泣かせたな」
(あれ……?)
汐羅はふと違和感を覚えた。汐羅に対して怒っているというのに、この言葉はおかしくないだろうか。まるで自分を心配してくれているようだ。
汐羅は顔を上げた。そして、自分の考えは間違っていなかった事を知った。紀之が世にも恐ろしい表情で睨み付けていたのは、早苗の方だったのだ。
「う、梅川くん……?」
早苗はたじろいだ。もっとも、汐羅は激怒する紀之を前に微動だに出来なかったのに対し、早苗は上ずりながらも言葉を発している辺り、彼女の心臓には毛が生えていると見て間違いないのかもしれない。
「どうしたの……?」
「どうしたの、だって?」
紀之の眼光がますます危険な色を帯びた。流石の早苗も後ずさりする。
「俺の汐羅を酷い目に遭わせたお前を許さないって言ってんだよ」
紀之はぎらつく瞳のまま、半歩早苗に近づいた。早苗が小さく「ヒッ」と悲鳴を上げるのが聞こえる。
「失せろ」
紀之が脅しをかける前に、早苗は髪を振り乱しながらほうほうの体で逃げ出していた。その顔は恐怖に歪み、厚く塗ったファンデーションがひび割れていた。
「チッ……」
紀之が小さく舌打ちした。左手で、反対側の手を軽くさすっている。壁にぶつけた彼の拳は、真っ赤になっていた。
「だ、大丈夫!?」
汐羅は思わず紀之の手をとった。すると、紀之の体が一瞬強張ったような気がした。
「保健室、行こう」
「いや、いいから……」
紀之は汐羅に手を握られたまま、決まりが悪そうに言った。凄味を利かせたはずなのに自分も傷ついてしまったなど、あまりにもカッコ悪いと思っているようだった。
「だめ、行くの」
汐羅は紀之の手を引っ張って教室を後にした。意外な事に、紀之は大人しくされるがままになっている。汐羅は安堵した。紀之は気が付いていないようだが、先程の一連の流れは、クラスメイトの衆目を集めるには充分なものとなっていたのだ。




