怒り
「それは出来ないよ」
汐羅は鉄の仮面をつけたような無表情になると、即答した。心の中に流氷が流れ込んできたかのような冷え冷えとした気持ちだった。だがそれは、どこまでも早苗が自分を小馬鹿にしたような態度を取っているからではなかった。早苗のような者に、紀之を渡す訳にはいかないと思ったのだ。
「悪いけど、私、もう早苗の事は友だちだと思ってないから。それに紀之だって……」
「おーい、汐羅」
汐羅がガツンと言ってやろうとした時だ。教室の入り口から呑気な声がした。間の悪い事に、そこ立っているのは紀之だった。
教室中が彼に注目していると汐羅が思ったのは、気のせいではないだろう。きっと皆、早苗と一輝が破局した事などとっくに知っていて、汐羅と早苗の会話に耳をそばだてていたに違いない。そこに二人が今話題にしている人物が偶然やって来たのだから、そちらの方を注視してしまうのは当然の成り行きだった。しかし、そんな事など知る由もない紀之は、何食わぬ顔で教室の中へと入ってくる。
「現国の教科書、貸してくれないか? うっかり忘れてきて……」
近くまで来て、紀之は言葉を切った。彼の目が早苗に釘付けになっている。汐羅と早苗が一緒にいるという事に、面食らっているようだった。
「わぁ、梅川くん、ちゃんと話すの初めてだよね?」
獲物が自分の方からやって来た事に、早苗は歓喜していた。先ほど汐羅と話していた時よりも、声を数オクターブ上げながら、紀之の方へいそいそと寄っていく。まるで蛇が餌の小動物に接近していくような動きだった。
「あたし、汐羅の親友の杉村早苗っていうの。よろしくね。今から汐羅に梅川くんの事、紹介してもらおうと思ってたところだったんだぁ」
早苗は、つい今しがた汐羅から「もう友だちだと思ってない」と言われた事を都合よく水に流して、腰の辺りをくねくねさせた。
しかし、紀之は困惑したような顔になるだけだった。その視線が汐羅の方に向けられる。汐羅は慌てて「違うよ」と言って、事情を説明しようとした。
だが、その言葉はすぐに引っ込んでしまった。紀之の表情が、汐羅と目が合った途端に豹変したのだ。眉間に深い皺が刻まれ、唇が真一文字に結ばれた、怒りと憎しみに満ちた顔になったのである。精悍な顔立ちをしている紀之は、そんな表情をすると恐ろしいくらいに迫力が出た。
(ど、どうしよう。紀之、すごく怒ってる……)
汐羅は思わず竦み上がってしまった。紀之のこんな顔など見た事がない。汐羅が早苗を紀之に紹介しようとした事が、余程癇に障ったらしい。それは勘違いなのだと弁解したいが、何か話そうにも喉が紀之から発せられる凄まじい怒気に恐れをなしたかのように、さっぱり機能しなくなっていた。
巨大な太鼓を打つような、乾いた大きな音が教室に響いた。紀之が顔を俯けながら力任せに傍の壁を殴ったのだ。弾みで壁に貼ってあったプリントが何枚か落ちてきた。
汐羅はいよいよ怯えた。こんなに乱暴な事をする紀之を見るのも初めてだった。彼が少し首をもたげた時に見えた、乱れた髪の隙間から覗く目は獣のようにギラギラとしていて、その底なしの怒りが窺えるようである。
汐羅は震えながら泣きそうになった。こんな紀之は知らない。彼の持つ憤怒をそのまま自分にぶつけられたら、汐羅の小さな体など、すぐにバラバラになって壊れてしまいそうだった。




