終着駅から始まる物語
気がついたら降りなきゃいけない駅を乗り過ごしていた……。
本に夢中になっていたとか、酒に酔って寝過ごしたとか……。
そんなこと、誰にでもあるだろう?
今の俺がまさに「そんな誰にでもある状況」になっていたんだ。
目を覚ましたら電車のシートに、必殺の右ストレートを食らってKOされたボクサーみたいに俺は撃沈していたんだ。
寝ぐせのついたスーツ姿で、疲れ果てた鞄を抱き、どこかで拾ってきたのか謎のロープを握りしめていた。
ああ、おそらく状況は最悪。取返しのつく状況じゃない。
窓の外は全く知らない景色が次々流れていく。
見知ったビルも看板もない田園風景だ。
「ああ、やっちまったか……」
完全に白旗だ。
慌てて立ち上がる気力もない。
時計を確認しようとしたが、腕時計をし忘れていた。
今何時だよ? ってかここどこだよ?
スマホを取り出すも無反応。
「充電が切れた?」
どうやらこいつはまだ寝ていたいらしい。確かにここは心地いい。
電車の歩調に合わせて揺れるつり革。空調の乾いた空気。夕暮れが差し込む窓。
車内灯はまだつかない。臙脂色のシートの端っこの特等席の角に背中をはめ込むようにもたれた贅沢な時間。眠るなというのが無理な話だ。枕が硬い揺れる壁であったとしても。
相当眠りが深かったのか、この電車がどこ行きだったのかすら思い出せない。
徐々に鮮明さを取り戻す俺の脳みその最新の記憶は、会社から帰るところまでだった。
「そうか、慌てて駆け込んだんだな……」
よく覚えていないがきっとそうだ。三日ぶりに家に帰るし、早くベッドに沈み込みたかった。うちの会社は忙しい。過密なスケジュール、突然の予定変更、初めから無理な納期に、溜まっていく仕事。残業や泊りは当たり前。特に俺みたいな独身は率先して残される。
もっともそれが給料に反映されるかっていうとそうでもない。
やっとの帰れると思ったらこれだ。俺はいつからアウトドア派になった? 電車の中で景色見ながら優雅に眠るなんて。
「全く……」
空いていたシートに身をまかせた瞬間、緊張の糸が切れてしまったんだ。
「今、どの辺なのだろう?」
やっとそこまで頭が回り、確認しようという気になった。
うん。どこを走っているのかわからない。
まあいいか、どうせ駅にはつく。そんなに慌てても仕方がない。
車内には俺以外の乗客もいたがそんなに多くはなかった。空席が多い。立っている乗客はいない。めかしこんだ老夫婦や小学生の男の子、それに若いOL風の女。
乗客同士が会話をしているわけではないが、車内はなぜか和やかだった。
俺は他の乗客がそうしているように大人しく次の駅を待つことにした。
ひとまず次の駅で降りて戻ろう。どれくらい掛かるかわからないが……。
ため息をつきつつ、俺がそんなことを思っていると、車内にアナウンスが流れた。
「まもなく〇△□駅に到着します」
スピーカーの調子が悪いのか、それとも車掌の活舌が悪いのかやけに聞き取りにくい。
何の駅だか聞き取ることができないが、電車はホームに入っていく。
「よし、ひとまず降りて……えっ?」
俺は席を立とうとして、思わずその異様な光景に目を奪われた。
ホームで待っていたのは女子高生や俺と同じくらいの会社員。それに、犬や猫、牛や馬などと言った動物……人間も動物もみんな綺麗に整列して待っているじゃないか。
「な、なんだこれ!?」
電車が停車してドアが開くと、次々と乗客が入ってくる。
俺が降りる隙なんて少しもない。女子高生、会社員、子供、老人、動物。
どうやって入ったのか、首の長いキリンや明らかに入り口よりも大きなゾウまで車内におさまり、俺の隣には尻の大きなパンダが腰かけてくる。おかげで俺はキツキツに端に追いつめられた。最後に乗ってきた黒い猫は、キョロキョロと周囲を見回したあと、なぜか俺の膝の上を自分の席にした。
俺は降りることができないまま電車はそのまま駅を発車する。
何なんだ? 何なんだよ、この電車?
女子高生がつり革を掴む横で、ゾウが鼻でつり革を掴んでいる。座席の上にある荷台にキリンが首を乗せくつろぎ、荷台のスペースをインコやフクロウたちとシェアしている。
たぶん……いや、絶対異常事態だ! 夢か? こんなことあるわけない!
俺は恐る恐る自分の膝の上に来た黒猫を撫でてみた。猫は俺のことを一瞬に見上げたあと、何事もなかったかのように元の姿勢に戻りゴロゴロと喉を鳴らした。
この感じ……猫の体温、重さ、ゴロゴロ、隣のパンダの圧迫感……。
マジか?
夢のはずなのに、夢だとは思えない。夢ならリアルすぎる!何なんだ、この電車?
しかも、戸惑っているのは俺だけだ。
みんな普通にしている。騒ぐわけでなく、暴れるわけでもない。
この電車は、一体どこに向かっているんだ? 俺はいつもの電車に乗ったんだよな?
急に不安になってきた。酒に泥酔していても、半分寝ているような状態でも、家に帰る方法を間違ったことはない。今回に限りとんでもない間違いをしているとは考えにくい。
いつもの電車、いつもの方向に乗ったはずだ。もしかして俺がいつも降りる駅を通り過ぎるといつもこんな感じなのか?
「……?」
俺はもう一度周囲を見渡した。
そんなバカな! 動物が乗ってきて人間と動物で満員の電車なんて! そんな電車があるなんて聞いたこともない!
「えっ?」
みんなが一斉に顔を上げた。そう、間違いなく一斉に、みんなが揃ってだ。
女子高生も会社員も、老人も、子供も、キリンも鳥も、ゾウも、そして俺の膝に座っていた猫さえも、顔を上げて窓の外を見たんだ。
俺はその視線につられるように窓の外に目を向けた。
窓の外の夕暮れは、深みをまして今まさに夜となろうとしていた。
次々に流れていく紫紺色の空の彼方を見ていると、ぼんやりと……いや、俺の脳裏には鮮明に映像が浮かび始めたんだ。
母親の腕に抱かれた赤ん坊の姿が。
なんだこれ? この人……見たことがある。 この人は……?
高速で時が過ぎていく。赤ん坊には両親の他に二人の兄姉がいた。
三つ上の兄と、二つ上の姉。
あの服……記憶にある。それにあの目つき、髪型……。
記憶が掘り起こされる。
あれは、小さな頃の兄さんと姉さんだ。そして赤ん坊の母親は若い時のおふくろ?
ということは抱かれているのは……俺? 俺なのか? ……たぶん間違いない。
成長記録のホームビデオみたいに映像は進んでいく。
兄さんと姉さんのあとをヨチヨチと追いかける幼い俺の姿。
やがて、足取りも落ち着き、幼稚園に入園。いじめられっ子に泣かされながら、母さんのお迎えを待つ日々。
少し経つと小学校。同級生のあとを必死で追いかける俺。昔から足が遅かったんだ。
クラスでは、よく見積もっても中の下。いや、見栄を張ったか。下の中くらいの成績で、授業中はいつもうつむいていたっけ。
俺が追いかけていたのは友達の背中だけじゃなかった。本当は、兄さんや姉さんのことも追いかけていたんだ。
兄さんや姉さんのあと追いかける……思えば、これが俺の人生だった。
兄さんは小さな頃から頭のいい子で運動神経もよく、成績も優秀だった。
受験で私立の中学に入学して、そこでの成績もトップクラスだった。
兄さんはそのまま有名な大学に入学して医者を目指し、それを実現した。
兄さんのあとを姉さんも追った。同じ中学に合格し、高校、大学と一流どころを卒業した。
成績こそ兄さんに及ばなかったが、運動神経はずば抜けていた。今でも実家には、姉さんが獲得したメダルが飾られている。
今は連絡を取ることもないが、我が家の自慢の兄と姉だ。
俺も、内心では二人に追い付こうと一生懸命だった。優秀な二人の弟として結果を出したかったし、当然できると思っていた。だけど、それは叶わなかった。
勉強も、運動も、これと言った実績を残すことができなかった。
塾にも通ったし、家庭教師もつけてもらった。でも、兄さん達が入学した中学にすら、俺は入学することができなかったんだ。
今でも覚えている。
合格発表の日に肩を落として落胆した両親の姿を。そしてその時を境に、俺の家族での立場が決まった。
兄さんと姉さんは両親の自慢。母さんは近所の人と話をしても、兄さんと姉さんの名前はよく口にしていたが、俺の名前は隠されていたことを俺は知っている。
俺は、俺なりにその立場を理解した。この場所に俺は相応しくない。
ドレスコードのある一流のレストランにジーパンでは入れない。どんな場所でも、不釣り合いというのはある。不釣り合いな場所は居心地が悪い。
俺にとってはそれが家だった。俺の家族は俺がいることによって、どこか歪で完成することがない。
俺のせいで。
そんな風に思えてならなかった。家での俺は、時間が過ぎるのを待つ影だった。何も語らず、気にされず、夜になれば見えなくなる。
学校と自分の部屋の往復。帰ってきては、自分の部屋で息をひそめる。
それが俺の生き方になった。
映像の中の俺は、自分の部屋で必死に勉強机に向かっていた。
ペンを握る手が痛くなっても、座っていることすら辛さを感じるようになっても、俺は勉強をやめなかった。たぶん、同じ歳の時の兄さんや姉さんよりも遥かに勉強していたと思う。
それなのに俺は兄さんたちよりもはるかに成績の劣る学校でさえ、一番になることができなかった。高校も、大学も平凡なところ。
その頃には、父さんや母さんの興味がすっかり俺から離れているのがわかった。
俺は家族の目から逃げるように就職活動に勤しんだ。俺が就職をした時代は、就職氷河期と言われた正社員になることが難しい頃だ。
俺は、何度も何度も、面接に落ちた。
おかげで面接に慣れ、落ちることにも慣れた。
こんなご時世だ、希望していた仕事になどつけるわけがない。
それでも、俺は居場所がほしかった。
このまま家にいることはできない。仕事をしなければならない。なんでもいいんだ。
新品の革靴が長年連れ添った相棒みたいに足に馴染んできた頃、俺はやっと就職先を決めることができた。
俺は懸命に働いた。兄さんは医者になったけど、その兄さんよりも稼ぎたかった。
姉さんよりも、何か自慢のできるような成功がほしかった。
それを証明できる何かを目に見える形でほしかった。
すでに家は出ていたけど、勲章を持ち帰りたかった。金でも、功績でも、なんでもいい。
認めてもらえるほどのもの。兄さんと同等じゃダメ。姉さんよりもすごくないとダメだ。
じゃなきゃ、家族の俺への気持ちが変わるなんてことない。
そんな何かを手にして、俺は初めて家族になれるんだ。
そう信じた。
だけど、社会に出れば、ライバルはずっと多い。俺はそこでも落ちこぼれた。
上司の罵声と嫌味の日々。
「一緒に頑張ろう」そう言った同期は先に昇進した。
「俺も先輩みたいになりたいです!」そんなことを言って目を輝かせていた面倒を見た後輩は、瞬く間に業績を追いこしていった。社会人になって初めてできた恋人は、いつの間にかその後輩と腕を組んで歩くようになっていた。
一緒に頑張ろう? 俺みたいになりたい?
冗談だろ? 俺は嫌だね。 俺みたいになるなんて。
「これは……」
俺の今までの記録だ。まるで自分の今までの人生のダイジェストだ。
「ダイジェスト?」
これ、走馬灯?
ふと、そんな言葉が思い浮かんだ。そうだ。これが走馬灯というやつだ。
「……ああ、そうか」
俺は、死んだのか。俺は流れていく風景を見ながら自嘲する。
このわけのわからない電車も、現象も、過去の自分を見る、なんていう罰ゲームも、みんな合点がいった。
俺はようやくこの電車の意味も察しがついた。この電車は、死者の魂を運ぶ電車だ。
あの女子高生も、老人も、子供も、キリンも、ゾウも、となりのパンダやこの猫もどこかで死んだのだろう。俺と同じように。
この電車はそんなやつらを天国まで運ぶ電車なんだ。
「そうか、そうか……」
俺はシートに身を沈め、息をついた。力が抜けた。
煙草でも吸いたい気分だったが、電車の中だ。きっと禁煙なんだろうと諦める。
「下らない人生だった……」
いるだけで疎まれる存在だった。何をしても上手くいかない。失敗だけの人生だった。
今見てもそう思う。
でも、それでも、俺なりに懸命に生きた。結果が伴わなかっただけだ。
「全部終わったんだ」
喘いで、もがいている。ずっといつ沈むかわからない状態で、水面ギリギリに顔を出して生きているようだった。
それが終わった。俺は水面から離れ、底に沈み、そして解放されたんだ。
もう白い目で見られることも、無視されることもない。すでに優劣のついたもので誰かと比べられることもない。負け試合はもうしなくていい。
「……」
電車の揺れが心地いい。窓の外を見る者の中には涙を流しているやつもいる。
だが、俺は到底涙など出そうになかった。この場所こそ、俺の望んだ場所なんだから。
それは俺だけじゃない。
俺の周囲にいた人間もそうだろう。俺が死んだことで悲しむ人間などいない。
「うん?」
流れる映像が俺の知らないものになった。
電話だ。電話が鳴っている。色々な場所で一斉になり始めた。その電話は次々に取られていく。そう俺の知る限りのみんなが。
上司、同期、後輩、元カノ、同級生、兄さん、姉さん、母さん……。
みんなの驚く顔。慌ただしく動き出す姿。
「これは……?」
俺が死んだあとのことか?病院。仰向けに寝かされた俺の顔に白い布が掛けられている。
本当に死んだんだな。
自分で納得したはずだったのに、やっぱり変な感じだ。もっとも、驚きよりも俺の気持ちは穏やかさの方が強かった。横たわる自分の姿を見て、なおそう思える。
バタバタとした足音。突然、母さんと父さんが慌てた様子で病室に入ってきた。
「久しぶりだな」
社会人になってからの俺は、正月も、夏休みも家に戻ることはなかった。もう何年も会っていない。白髪が増えたな、それが二人を見た時の最初の感想だった。
俺は言った。
「母さん、見てくれよ。久しぶりの息子の顔をさ。失敗作の俺は死んだよ」
母さんに俺は見えていない。今も昔も同じだ。
「父さん、あんたの恥ずかしい息子は死んだよ。これで、完璧な家族になったな」
父さんに俺の声は届かない。それは今も昔も変わらない。
でも、よかった。俺が出来る親孝行はこんな形でしかない。
「……!」
母さんが泣き崩れた。父さんがそんな母さんを支える。声を上げ、涙を流す。
これは悲しみ? いや、あとから入ってきた、看護士が見ているからか?
母さんも父さんも、自分の役割を知っている。この瞬間にやるべきことを。
実の息子が死んで、涙の一つも流さないなんて、なんて冷たい親だろう……そんな印象を持たれたくはないだろうしな。
二人から少し遅れて兄さんと姉さんが飛び込んできた。
おいおい、二人とも仕事はどうしたんだよ?
大切な仕事があるはずなのに。
「……!」
姉さんが俺の名前を呼んだ。横たわる俺は応えない。
当たり前だ。もう死んでるんだから。
兄さんが俺の顔を確認する。兄さんは何も言わなかった。
ははっ、と俺は笑う。普段は忙しい家族が、久しぶりに集まれた。俺はそのきっかけを作れた。なんだ俺も役に立ったじゃないか。
俺は満たされていた。こんな感覚、生きている頃は味わったことはなかった。
やがて慌ただしく葬儀が始まる。
親族席に母さんと父さんが黙って座り、兄さんと姉さんがその隣に並ぶ。
葬儀は予想以上に大きなものとなった。
「父さんや兄さんの影響か?」
いや、参列者には俺の会社の人もいる。
上司、同期、後輩、それに元カノ。順番に棺に横になる俺の顔を見にきてくれた。
「惜しい部下を亡くしました」
嫌味が得意な上司が頭を下げる。
「彼はとても優秀な人間でした。真面目で、面倒見がよくて……」
社交辞令だ。だけど、それも悪くない。
出世コースに乗った同期が肩を震わせ、涙をこぼす。
「なんでこんなことに……?」
言葉を詰まらせる。普段はよく口の回るやつなのに、今日は言葉が少ない。
「俺、先輩にもっと色々教えてもらいたかったです」
俺よりもずっと有能な後輩が言った。みんな嘘ばっかりだ。
俺は優秀じゃなかった。ミスも多かった。
後輩に教えたことだって、ごく普通のことに過ぎない。
ごく普通……ごく普通より下回ることを必死の形相でやっていたんだ。お前だって、わかっていただろ?
俺がいなくなっても会社が困ることはない。困るやつもいない。なのに……。
「どうしてみんなそんなに泣くんだ?」
会場が涙で震えている。学生時代の友人、元カノの兄弟、会社を辞め行くときに相談に乗って世話をしたやつ、無茶な納期に対応した取引先相手……。
「ありがとう」
「ありがとうございました」
「今まで、本当にありがとうな」
「お前、頑張りすぎだよ……」
「早すぎる、早すぎるよ……」
「お前がいなくなったら、これから誰を頼ればいいんだ?」
参列者の手によって花が置かれていく。俺の身体が花に埋もれていく。
別れが近づく。この肉体は無くなる。
花で埋められたあと、蓋が閉められ、火がすべてを消してくれる。
身体のほとんどが花で隠され、棺の蓋が閉められるようとした時だった。
突然、兄さんがそれを手で制した。
……?
「……すみません、もう少しだけ待っていただけますか? もう少しだけ……」
言葉を詰まらせた兄さんが俺の前で泣いた。
兄さんの涙が、ポロポロとこぼれ、棺桶を濡らした。
あの兄さんが……?俺はその光景をただジッと見ていた。
兄さんの涙が、姉さんに、母さんと父さんに、参列者に伝播していく。
「……」
こんな俺にも、こんなに泣いてくれる人がいたのか……?
一人で起きて、一人で仕事場に向かい、一人家路につく。休みの日も家のことをして、どこにも出かけることもなく過ごす。いつも一人だと思っていたから気が付かなかった。
「俺、死んじまったんだな……」
初めて胸が痛んだ。いや、でも、俺はこれでいいんだ。
「……?」
気がつくと、あれほど満員だった乗客がすっかりいなくなっていた。
人間も、動物も、俺の膝の上にいたはずの猫もいつの間にか姿を消している。
「え、みんなどこに行ったんだ?」
嘘だろ?
どこかに停車したのか? そこでみんな降りて行ったのか?
なんで気が付かないんだよ!
電車特有の揺れに足をとられながら、俺はいなくなったみんなの姿を探した。
暑苦しいパンダや、膝の上のゴロゴロと喉を鳴らす猫がいなくなった身軽さが、より不安を煽り立てた。窓の外は夜を吸い込んだような深い青。
何も見えない。前も後ろも駅は見えない。俺はたまらず別の車両に走り出した。
隣の車両、そのまた隣の車両、さらにその隣! いない! 誰もいない!
そんなバカな! だって今までここはギュウギュウに満員だったじゃないか!
気が付かないうちに駅についていたのか? まさか、そんなはずない!
そんなはずはないんだ……だけど、いくら探しても、ここには誰もいない。
俺は、途方に暮れてシートに座り込んだ。
みんな降りていった? 俺は降り遅れたのか?
「こんなところでも俺は……?」
「どうしました? 気分でも悪いのですか?」
突然声をかけられ驚いて顔を跳ね上げた。
「……!」
思わず息を飲む。深い青色をした濃紺の人影。
影が人のように立ち、俺を覗き込んでいた。
「あ、あなたは?」
俺はやっと声を絞り出す。
「この電車の車掌です」
「車掌?」
「ええ、それにしても大丈夫ですか? ひどく顔色が悪いように見える」
「顔? ……ああ、それはいいんだけど。……さっきまでこの電車は満員だったはずなんだ。突然みんな
いなくなっていて……車掌さん、みんなどこで電車を降りたんですか? 俺、全然気がつかなくて」
「ええ、皆さん、この前の駅で降りて行かれましたよ」
車掌は俺の隣に座る。影が座ると、その重さでシートが沈んだ。
「じゃあ、俺は降り忘れた?」
「いえ、あなたが行く場所は皆さんとは違いますから。これでいいのです」
「みんなと違う?」
「ええ、乗車理由が違いますから。行き場所が違うのです」
「……そうですか……」
「不安、なのですか?」
影の車掌の言葉は優しい。
俺は、小さく首を振って「いえ……自分で決めたことですから。ただ……」
「ただ……?」
ただ……その先の言葉が喉につかえて出てこない。
俺にもわかる。この電車は終着駅に近づいている。帰ることのできない最後の駅に向かっている。俺は言わなきゃならない。
「ただ……」
それが見知らぬ影の車掌であっても。俺の本当の気持ちを。
「俺、もっと生きたかったなって思って……」
俺の頬を涙が伝った。一度溢れたら止まらなかった。でもただ、これだけを……
「俺は、もっと、生きたい……」
意気地なしで弱くて、何も誇れるものはないけど、まだ、生きたい!
「ええ、そうですか」
車内のアナウンスが終点を告げている。
車掌は立ち上がると、俺が握りしめていたロープを手に取ると、まるで切符でも切るかのようにプツリと切った。
「これを忘れないでくださいね」
☆彡
「……!」
俺は目が覚めた。
固くて冷たい床の上。
頑丈そうな梁についた擦れた跡。
ロープの輪に首を通した状態で俺は梁の真下に倒れていた。
「そうか」
俺は逝けなかったのか。
旅立つためのロープは俺を支えることができずに切れたのだ。
よほど懸命にそのロープを握っていたのか、俺はなかなか手を開くことができなかった。
「本当に、意気地のないロープだな……」
終着駅から始まる物語 おわり