Enit0lliug
古来、人間と神は区別されていなかった。プロメテウスの策略で人間が火を得てから、神は人間と自分らを区別せざるを得なかった。神によって地上へと下された人間は、幾度となく神と見えようとし、幾度となく過ちを犯してきた。
最初は塔だった。同じ言葉、同じ気持ちだった人類は、塔が崩れたことで通じ合える心を失った。
次に人間が試したのは祈りだった。神から人間に会いにくるのを待ち続けた。その間、通じ合える心を失った人間たちは幾度となく争った。自分の信じるものこそ、神であると。
やがてこの時がやってきた。空は落ち、陸は海に飲まれ、海は陸に飲まれ、世界は滅んだ。それでも人間は、希望を捨てなかった。
彼らは愚かで、再び過ちを繰り返そうとしている。しかし、そのことには既に誰もが気がついていた。しかしもう決断の時はとうに過ぎ、彼らにはその道しか残されていなかった。
彼らはひたすらに、自分たちが救済されると信じ、今日も登り続ける。希望のない崖を。
◇
「アル! もう少しで二千メートルだ、もう少し粘れ!」
「もう無理......」
目の前には白い崖。影は灰色か黒、モノクロの崖。俺たちはその崖を二人でひたすらに登っていた。目的地はこの崖の上。目的地を確認しようと上を見上げると、黒い星空が見えた。現在の時刻は昼の十二時、夜ではない。
過去には青い空なんてものが存在したらしい。いつか見てみたいものだ。
俺がそんな妄想に入っていると、手を滑らせて崖から手を離してしまった。
体が浮遊し、落下している感覚に襲われる。しかし俺の体は一メートルも落ちることなく、命綱を上にいたケンに引っ張られて宙に浮いていた。そんな俺を見かねたケンが俺に提案する。
「少し休憩するか!」
ケンがアンカーボルトを岩肌に打ち込み、ポータレッジを吊るした。俺のいる位置に四角い布が張られる。俺はそれの設営を手伝いながら、やっと休憩できると安心した。これが俺たちの休憩場所。地上で見つけた、人類の遺産だ。これにはよく助けられている。地上と同じ向きで吊るされる四角形の布。壁はない。これを考えた人を俺は神のように崇めている。
先行はケン、後続は俺。地上でそう割り振られた。地上にいる”最後の人類”たちは、二人一組のペアが組まれる。そして、毎日登るペアを変えながら、より高いところを目指すのだ。
あるものは人類復興のため、あるものは神と出会うため、そして俺たちは頂上に何があるのかを確かめるため。
設営を終えたポータレッジの上に登る。四角い布は、この崖にあてられて灰色に変わっていた。色、という概念は地上へと落ちてしまったのだ。
俺が下を見下ろしていると、ケンがいつもの質問をしてきた。
「なあ、アル。ここの頂上って何があるんだと思う?」
「またそれか。この先には”楽園”がある」
「お前こそ、またそれかよ。俺はな、この先は”宇宙”だと思うんだ!」
ケンは突拍子もない話を語り出す癖がある。もう見えている宇宙が、この先にもあるはずがない。きっと宇宙の先に、楽園があるのだ。
ケンがそう言った瞬間、ケンの腹が鳴り、俺は巨大なカバンからおにぎりを取り出した。いつものなんかもっさりとした食感。下に行けばスープが飲めるが、ここと変わらず主食はパサパサしたパン、もしくはもっさりとしたおにぎりの二択なのであまり新鮮な感じはない。俺はおにぎりを頬張りながら、ケンに言う。
「宇宙は見飽きた......俺は青い空が見たいんだ」
「えー? お前は宇宙、体験してねえだろ? 何事も体験せずに語るのはよくねえって、だろ」
「......無重力については本で読んだ。物理法則を無視する物質があるらしいな。お前はなんでも常識を破ろうとするからな......お前が宇宙に憧れる理由、分かってきちまったよ」
「へへっ。お前も宇宙の良さ分かってきたのか?」
「そういう訳じゃない......」
そんなたわいない話をしながら、俺たちは下の世界を見つめる。下には空が見えた。昔は空は上にあったらしいが、空は”人類滅亡”の時に落ちていってしまった。そして、人類が踏みつける大地の一部と化したのだ。
”人類滅亡”。そうは言っても、人類が全て滅んだわけではない。七十億人とかいたらしい人類は、数百人までに衰退した。その後、何人もの人間がこの崖に登り続けた。このモノクロの崖に。地上で唯一、色がなく先の見えない場所。俺たちはそんな場所に淡い希望を抱いて、崖を登っている。
「......それに、何もないかもしれないだろ」
「いや、そう考えるのはやめよう、って話だったろ。どっちにせよ地上には俺たちが住めるような場所は殆ど残ってねえんだしよ」
ケンの言葉で少し表情が暗くなる。俺もケンも、人類が滅びる様を見てきた。ある日唐突に巨大な地震が起きて、ビルは崩れ、空は落ち、山が消え、丘も消え、地上波平らになり、海から怪物が顔を出し、陸から化け物が姿を現し、海が陸地を飲み込み、陸地が海を飲み込み、世界は自然が混じり合う混沌の世界となった。
そして地上の環境は変わり、食物連鎖の頂点どころか、それを構成する動物すら変わった。ある種は絶滅したし、人間のようにひっそりと生きている種族もいる。何故か植物だけは生態系が変わらなかったのは、幸運と言わざるおえない。
俺たちが暗い顔をしていると、俺が胸にしまったトランシーバーがピピピと鳴り出した。
俺はそれに応答する。
「はい、こちらAK隊」
『AK、こちらはC2。何メートルまで登ったか報告せよ』
AK隊とは地上での俺らのペアの名前だ。アルとケンでAK。トランシーバーの向こうから聞こえてくるのはC2隊、現在地上の最高司令官だ。司令からの命令を聞き、俺は司令へと通信を返す。
「C2、こちらはAK。現在二千メートルまで登った」
『AK、こちらはC2。二千メートル以降、”ペトラ”の出現に注意されたし。活躍に期待している』
ペトラ。この先の岩肌の裂け目から出てくる迷惑な生き物だ。業務的な声を聞き、トランシーバーを切る。昼飯も食いおえたので、俺たちはまた登る。俺ももう回復し、十分に登れそうだがあえて登らない。十分な休息を取り、俺たちは再びクライミングを始めた。
ポータレッジを片付け、ケンが先に登る。そして俺がロープを繰り出しながら、ハーケンを足場に進んでいく。あえてハーケンは回収しない。理由は二つあるが、主な理由は、また明日も登る者がいるからだ。今やっていることも、昨日設置された不安定なハーケンを打ち直したりして登っているだけであり、実際にハーケンを設置するのはごく稀だ。
しばらく登っていくと、上の方でケンが懐から銃を取り出した。どうやらペトラが出現したらしい。俺もケンと同じ武器を取り出し、戦闘態勢をとった。
「ペトラ、どのタイプだ」
「中型で、人型! 気をつけろ、落ちてったぞ!」
咄嗟に後ろを振り向き、銃の引き金を引く。後ろで俺を襲おうとした灰色の塊、人型ペトラは撃ち抜かれた瞬間石像となって落下して行った。
ペトラ。人類を滅ぼした怪物。別名”岩怪人”。岩の裂け目から出てくるときはまるで幽霊かのように岩をすり抜けて出てくるのに、この銃で撃ち抜くと途端に石像になって死ぬ。今も研究しようとはしているのだが、この崖を登り切ることが先だ。
ペトラを始末すると次のペトラ。一匹見たら三十匹はいると思うべき存在だ。ハーケンが設置されている場所からは何故か出てこない。これがハーケンを回収しない二つ目の理由だ。
もう三千メートルは越えただろうか。次々に現れるペトラを始末していき、登り続けていると夜になってしまった。
空の様子は変わらないが、代わりに崖の色が教えてくれる。黒くなったときは夜、白いときは朝だ。夜になると睡眠をとらなくてはいけないので、帰還することになっている。ケンが現在の標高を確認すると、俺に降りるよう合図してきた。俺はそれに従って降りて行った。
◇
「AK部隊、よくぞ帰還してくれた。是非夜飯を食べて、英気を養ってくれ」
地上へ降りると、まずC2の一人に歓迎された。C2の片割れ、クロだ。高身長に黒髪、青い目。優しそうな好青年だ。クロにひたすらに撫でられていると、クロの相棒、チェリーがやってきた。クロより少し身長が低いが、俺からしてみれば十分高身長な女性。チェリーというのは本名ではなく、さくらんぼ色の髪色と目の色からついたあだ名らしい。本名は何度尋ねても教えてくれない。
夜の時間はC2部隊が登る。二人とも二十代後半で全く年を取っていないが、この中では最年長なうえ、実力者のコンビだ。夜に登るのは非常に危険な行為だが、この二人なら大丈夫だろうと崖の方を見る。
俺たちは二人の華麗な登り方に見惚れた後、地上の友人に言われて晩御飯を食べるように言ってきたので、晩御飯に向かう。
◇
「いやー、四千メートルまでくると結構ペトラがヤバいね」
「当たり前でしょ。ここから先、誰も言ったことがない場所。頂上なんだから、ペトラも必死で守ってくるでしょうね」
チェリーが丁寧に答えてくれた。ペトラたちは、おそらく必死で頂上を守っているのだ。四千メートル程度まで登った人間だけが、石化して死んでいる。それ以外は転落死などだ。
そして、俺たちもまた四千メートルを越えた。夜の崖はすっかり黒くなり、事前に設置しておいた白いハーケンを目立たせている。
「そろそろ、頂上が見えてきたな」
先行である俺は、すでに設置されているハーケンを見てこの場所で何があったのかを考える。崖が崩れた様子も見受けられない。
俺がハーケンを見ていると、チェリーがこちらに叫んできた。
「約束忘れてないでしょうね! 頂上へ行くときは一緒によ!」
「はいはい、忘れてませんよ。ほら、待っててやるから」
ハーケンと岩肌に足をつきながらチェリーを待っていると、チェリーは肩で息をしながらこちらへとものすごい速さで登ってきた。彼女はいつも俺と一緒だった。こんな時まで、それに拘っているような困ったやつだ。
チェリーが登り終えると、俺は少し進んでチェリーより先に頂上へと登り、チェリーをまった。後ろを振り返ればきっと、”何か”がある。ペトラの秘密でも、この崖の秘密でも、きっと何かがある。
そう期待して、チェリーと一緒に崖を登り終え、俺たちはついに頂上へと登り終えた。
胸の中が達成感で満たされる。ついに、ここまで登ってきた。俺たちは希望を胸に、高鳴る心臓とともに、後ろを振り返る。そして、そこから見える景色を見た。
そのとき、俺たちは死んだ。
◇
朝、地上のメンバーが集められ、整列していた。崖の色は真っ白。早朝である。こんな時間に起こされることに慣れていないメンバーからのあくびは絶えない。俺もそうだ。
そこへ、見慣れない人物がやってきた。まだ十七歳前後の、若い男だ。男は整列するメンバーの前に立つと、マイク片手に話し出した。
「......初めまして。私はC2隊から変わり最高司令に任命されました、......UP隊のウルです。こちらは相方のピー。どうかよろしく」
「クロ兄は!? 姉御はどこ!?」
メンバーから口々に質問が出る。それにウルはしばらくの沈黙の後、ゆっくりと答えた。
「......前最高司令官、C2部隊ですが、......今朝崖の下で石像となって破壊されていました。死亡したと考えられ、C2隊からUP隊へと最高司令官が移りました。今後ともよろしくお願いします......」
すすり泣きながらマイクを下ろすウルを責める者は誰一人としていなかった。ただただ、俺たちの間には絶望と、沈黙だけが広がっていた。
モノクロの崖は、静かに崖のまま、何を言うこともなく、崖として俺らの前に立っていた。