8. 吸血
あの屋上での出来事から、早1週間。
葉瑠から、連絡が一切無いためお詫びは必要ないのだと判断し、1週間経った今では、特に気にも留めていなかった。
しかし、ある日の放課後、一通のメッセージで彼女の携帯端末を震わせた。
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「どんな様子だ。」
冷たい響きと圧力を持った男の高めの声。
「特に何かをするでもなく、普通に生活をしているようです。接触を図りますか?」
目の前にいる少女は、姿の見えない主に向かって跪きながら、報告と提案をする。
「いや、まだだ。もう少し様子を見る。」
少女は、ピクリと小さく片眉を上げた。
「………承知しました。」
少女は、逸る気持ちを押さえつけながら、感情が表に出ぬよう承知の意を示し、部屋から出ていった。
「…………夜桜瑠璃……か………あの人はまた邪魔を…………」
先程の圧力は微塵も無く、暗く静かな部屋に誰の耳にも入らぬまま、言葉がポツリと落ちた。
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「もう一度言って」
「だから、俺にもう一度吸血してください。」
校舎の端に一年に数回と誰にも気を留められることの無い空き教室から、珍しく声が聞こえた。
「貴方、自分が何を言っているか理解してない。」
鈴のような美しい声に少し、動揺を感じさせるのは葉瑠自身の気の所為だろうか。
瑠璃は、表情が変わらない美しい顔とは裏腹に激しく混乱していた。この人は、何を言っているのか。吸血をしろ?吸血では、人の体力を奪い、生気をも吸い取る。特に霊力の多く持つ者は、一日一回分霊力でさえ、大量に奪う。
霊力を多く持つ者は、普段術を行使していなくても、休まなければ減っていくものだ。要は、体力だけでなく、霊力をも無意識に使って生命活動をしているということ。そこから分かるように霊力が減れば減るほど、体力が減った時のように疲れが来る。特に霊力は、体力と同じ様で別物。常に血液と共に循環する目に見えない物質。
例えば、標高の低い場所で暮らしている人間が標高の高い場所へ行くと、酸素が足りなくなって高山病を発症するように、急に減れば体が慣れていないために、普段のように行動出来ない。また、普通の人間が無酸素状態になれば命に関わるのと同じように、霊力の高い人間の霊力が無くなれば、最悪死に至る。
吸血行為をされるというのはそれだけの危険を伴う。
しかし━━
「理解してます。霊力も奪うんでしょう?それくらい、前にも吸われたんですから減ったことくらい気づいてましたよ。俺ね、正直生きてるの面倒臭いんですよ。この通り、霊力もそう多くないし、親も無関心。周りは、俺の顔しか見ない。でも、何も面白いこともないまま死ぬのも嫌だったんです。でも……」
口の片端をつり上げ、妖艶とも言えるニヤリとした笑みで続ける。
「先輩のような特殊な存在。誰もが見た事も実感した事もない吸血鬼という種族に血を吸われる。こんなに面白そうなことをして貰わない訳がないでしょう。それで、死ぬなら本望ですよ。」
よく見れば、目には死んだように感情がなく、光も見られない。
狂ってる。この人は、あまりにも狂っている。全てを拗らせている。余りに常識を逸脱し、それを理解した上で普通の人のように振る舞い、そして、瑠璃という吸血鬼の存在を前にその姿を現した。
「…無理。いくらお詫びでも、出来ない。」
「言うと思いました。なので少し、脅迫させていただきます」
瑠璃の拒否の言葉に予想通りというように一点の曇りも無い満面の笑みを浮かべて毒を吐く。
「先輩が吸血鬼である事を噂に流します。」
瑠璃は、固まった。
瑠璃自身、吸血鬼であることがバレるのは構わない。しかし、それだけではいられない理由があった。
まずは、浅葱にその噂の所為で迷惑をかけること。たかが噂でも吸血鬼という存在に興味を唆られる者も少なくは無いだろう。今までの周りの人達のことを考える限り瑠璃には話し掛けず、話し掛けやすい浅葱に聞いてくるだろう。そんな事にはなって欲しくない。
また、最近瑠璃の周りを何者かが監視している。吸血鬼という噂が流れれば、面倒な事になるのは間違いないだろう。それによって、"ある人"と浅葱に危害が及ぶ事に瑠璃は何より恐怖している。
葉瑠は、固まり、口を開く気配のない瑠璃を見て賭けに勝ったことを理解した。
葉瑠は、吸血鬼である事が知れ渡ることを、瑠璃の誰も寄せ付けない性格から、疎うだろうと考え、十分脅しになるだろうということに賭けたのだ。
「………わかった。どうなっても知らない」
瑠璃は絞り出すように呟いた。
「ええ、構いません ………早速お願いします」
葉瑠は、早くもう一度体験したいというように、瑠璃の返事も聞かずにゆっくりと第三ボタンまでを上から外していく。
瑠璃は、今からなのかと思ったが、丁度血が足りなくなっていた頃だ。晒された首筋を見て、吸い寄せられるように口元を持っていく。その過程で一気に髪が白銀色に。瞳が深紅に染まった。
そっと牙と柔らかな冷たい唇が葉瑠の首筋に触れる。
葉瑠の体が瑠璃が気の所為だと感じるほど小さく、だが、確実にピクリと震えた。
プツン……コクン…コクッ…………
「………っ…」
一気に牙が葉瑠の白い肌を突き破り、血が吸われる。
葉瑠は、屋上で吸われた時のことを鮮明に思い出し、同じだとかんじた。
ふわふわとする頭。
痛みも霊力の大幅な減少も血液の減少も確実に感じるのに、恐怖や危険察知能力の全てが消えているかのように何も感じず、むしろ心地良さを感じ、全ての血も霊力も吸い取られていい。そう感じてしまう。
長いような短い時間が瑠璃が牙を抜くことにより唐突に終わる。
「ごめんなさい、飲み過ぎた。」
瑠璃はすぐに飲み過ぎたことを謝った。
思ったよりも甘く苦く、飽きの来ない不思議な、しかしとても美味なこの血の味を永遠と堪能したいと本能のまま全てを飲み干す所であった。
「………っ…血って…はっ……毎日飲むんです……か?…………はぁっ………」
葉瑠は、体の自由が聞かず、息も絶え絶えに瑠璃に尋ねた。
「そう。でも今日は大量に飲んだから、三日は持つ。」
いつの間にやら黒髪黒目に戻っていた瑠璃は口元の血を拭いながら答えた。
思ったよりも体力が早く回復した葉瑠は、じゃあ三日後に……とだけ言い、帰って行った。
瑠璃は、正体の分からない監視者が既に帰ったことを確認してから、自宅に帰った。
既に日が沈んでいた。
「…………美味しすぎた」
その呟きは、闇夜に紛れて消えた。