パパおかえりー
16
「マ、マ、お、ちっこ」
まーくんが神妙な顔で、夜中に私を起こした。最近、やっとというか、夜のオムツも外れそうだ。さ・し・す・せ・そ、が言えないのがなんとも可愛い。
私は眠かったけれど、ニコニコ顔でトイレに同行した。そろそろ、夜はトレパンにしてもよさそう。嬉しいような、淋しいような。
うちの男どもには、小も座ってやらせている。いろいろ跳ねないように。
トイレは長い廊下の突き当りにあり、扉を開いたまま座らせた。まーくんが用をたしている間、私は壁にもたれて待っていた。
トイレの電気は明るく、廊下を消していたのでやけに眩しく感じた。まーくんの、ジョロンジョロンというおしっこの音が暗い廊下に響き、その音に気づくのが遅れた。
二世帯住宅の子世帯は二階なので、トイレの真正面から続く廊下奥には、階下へ続く階段がある。
みしっみしっみしっ、と登ってくる足音。
「あれ、パパまだ帰ってなかったんだ。おかえりー」
普通に階段下に声をかけた。うちの夫は都内に通勤していて「同居じゃなきゃ結婚は許さん」「だったら二世帯にしないと無理」という嫁姑バトルの結果、田舎の方に――比較的土地が安い――家を建てることになり、通勤に二時間近くかかる。帰りは基本的に遅く――私のせいではない――終電だと午前一時を過ぎてしまったりする。
みしっ……。
階段の折り返しの辺りで、パパは登るのをやめた。
「?」
なんだ?
そこで私は気づいた。鍵を開ける音と、ドアを開ける音がしなかった。下の階から上の階への音は、吹き抜けの階段を通ってすごく大きく響くのだ。本当なら。
「義母さん?」
親世帯へ続く一階のドアは、鍵がかかってないので出入りは自由だ。でも、こんな遅くに義母が上がってくることは無い。
みしっみしっみしっ
再び足音。誠太が寝ぼけて歩いてる? 前に階段をトイレと間違っておしっこするという前科持ちである。あの時は階段がナイアガラだった。
「誠太?」
まーくんが便座から台を使って降りた。はっとして、ボタンを押し、水を流す。
みしっみしっみしっ
まーくんが、真っ暗な廊下に向かって手を振っている。ブワッと産毛が逆立った。何で怖がりの誠太が階段の電気つけないで上ってくるの? なによりも――。
「階段はとっくに終わっているのに!」
廊下を近づいてくる足音。でも姿が……何も見えない。音だけ。
「ニン、ニン」
まーくんが笑う。私はそんなまーくんを抱きしめた。
「あっちに……行って」
私は暗闇に向かって囁いていた。
突然、まーくんの体がぐいっと引っ張られた。まーくんが驚いて「い、た、い」と呟く。ずずっとまーくんの体が階段に向かって引きずられる。
うそ、やだ。すごい力だ。
私はまーくんの手を掴んだまま、トイレのすぐ横にあるキッチンへの引き戸を開けた。すぐ裏手はカウンター調理台になっていて、そこに目的のものがあった。
腕を伸ばして、なんとかそれを手に取る。手がすべり、まーくんと繋いでいた手が離れた! まーくんの体が廊下を滑っていく。やっとまーくんも恐怖を感じたようで、引きずられながら泣き出した。
「こんガキャぁあ、ぶざけんなぁあああああっ」
スライディングするように駆け寄り、まーくんを全身で捕まえ直した。思いきり、手で持ったそれを廊下――というか、もう引っ張られて階段が目の前――に向かって投げた。
ガランガランガランッと、白いものをまき散らしながら、容器が階段を落ちていく。
ふっ、と引っ張る力が消えた。
廊下の電気がついた。別の部屋からパジャマ姿のパパが出てきてスイッチを押したのだ。
「なんのさわぎ?」
パパ、帰ってたんだ。私とまーくんは抱き合って泣いていた。