釣り
潮風が鼻腔をくすぐる。肌を照らす太陽がギラギラと光を放っている。座っている折り畳み式の椅子の布にまで、汗が染みこんでいきそうだ。
「今日も暑いな」
首元にかけた厚手のタオルで顔を拭う男の姿が陽炎と一緒に見える。防波堤には、男の姿しか見えない。男が着いた時には、船が何隻か視野に入っていたが、時間が経つにつれ、
船は一隻もいない状態となった。
長い釣り糸を目の前に広がる海に垂らすこと、約四時間。一向に当たりが来る気配がない。ただ、真夏の太陽に照らされて、流れる汗の量が増えるだけであった。
「よう!調子はどうだ?」
項垂れる男の後ろから、快活の良い声が聞こえる。後ろを振り返ると、肌が真っ黒に焼け、口元から覗く白い歯が引き立つ男の表情が目の前にあった。友人の吉富明宏である。
高本次郎の唯一の釣り友達だ。大学から知り合い、今はお互いに四十を超える。長い付き合いだ。次郎にとっては、妻よりも、心を許して話せる友人であった。
「今日は全然だよ。そっちはどうだった?」
「俺のほうはいい場所見つけて、そこで十匹は釣れた。大物ばかりだ。夢中になりすぎて、お前に早く教えるの忘れるほどだったよ」
「そんなにいい場所があるのか!連れていってくれよ。友達だからさ」
「誰にも言わないなら、教えてもいいが、
本当に言わないか?」
「言わないとも!俺を誰だと思ってるんだよ」
「分かった。分かった。それじゃあ……」
明宏が白い歯を見せながら、笑顔でその場所を次郎に伝えた。場所は、この防波堤から約二キロ程離れた場所にある、森林に囲まれた湖であり、そこはほとんど人がおらず、魚が大量にいるとの情報であった。
後日、次郎は早速、明宏から教えられた湖へと歩を進めていた。心無しか足取りが軽くなる。大学の頃から、釣りは大好きであった。
父親が昔から釣りを趣味にしており、自分自身も影響を受け、釣りを始めた。初めは、道具の種類やリリースの方法、餌の付け方等、多岐に渡る用語や方法を覚えることに苦労した。今では、新しい知識を脳内に染み込ませることは全く苦では無く、むしろもっと知りたい欲求が高まっている。
しかし、なかなか腕は上がらず、いつも明宏に技術面や知識面でも負けていた。大学からの友人ではあるが、一度は勝ちたい気持ちもある。一向に上がらない自分の腕に、もう釣りは諦めようかと考えもした。
だが、明宏にその都度相談し、ルアーや釣り糸を一緒に改め、挑んだりするうちに、その気持ちは徐々に薄れていった。
「今日こそは、たくさん釣るぞ」
一人鼻息を荒くして、湖へと歩いて行く。森林に囲まれており、天気は晴れであったが、薄暗さのほうが勝る。足元に散らばる無数の葉っぱは、長靴で踏む度に、ぐじゅぐじゅと湿り気を帯びた音を発した。
人一人がやっと通れる程の道を歩き続ける。二十分程歩き続け、背負い続けたリュックが肩に食い込み、痛みを投げかける瞬間、視界が開けた。顔を伝う汗が顎から滴り落ちる。
薄暗い森林を抜けた先に、大きな湖が目の前に広がった。汗でびしょびしょになった体ごと飛び込んでしまいたいぐらい、透き通るように綺麗な湖。
湖の周りを一周するのに何時間かかるのかと思える程の広さ。何より、透き通った湖にいくつもの魚影が映り、次郎の心は踊った。
早速、椅子や釣り竿、餌のセットを行う。いつも順調に行えていた工程が、先ほどから歓喜に打ち震え、手先まで強張っていた為、時間がかかってしまった。
セットを終えると、湖に釣り糸を遠くへリリースする。糸を巻き上げると、すぐに当たりがあった。すぐにリールを巻く。ザパンと水飛沫をあげ、大きな魚を釣り上げることが出来た。
「おお!こんな大きさ初めてだぞ!もっと釣ろう」
興奮を隠しきれず、釣った魚をすぐに手元に置いたクーラーボックスに入れ、またもリリースする。またすぐに当たりが来る。釣り上げる。その繰り返しであった。
到着した時に次郎の頭の真上当たりを照らしていた太陽は、今はオレンジの光を帯びて、沈もうとしている。
かなりの時間を過ごしたと内心で思ったが、釣りをする手はなかなか止められない。釣っても釣っても、どんどん魚が喰らい付くのだ。見たことも無い魚も中にはいる。家に帰って、どんな種類かじっくり調べようとも考えた。
様々な思案を重ねていると、巻き上げていた釣り糸が何かにつっかかったかのように、糸を張ったまま固まる。
(ねがかりしたか?まぁ外せるだろう)
竿を左右に揺らしたり、上下に動かしたりするが位置は変わらず、つっかかったままだ。
「おいおい。冗談じゃないぞ」
力任せにリールを巻く。やっとねがかりが解消されたのか、重みを感じながらも、巻き上げることが出来た。手元に手繰り寄せようとする。黒い糸状の物が何本も糸に巻き付いている。
「何だこれは?海藻でも無さそうだが」
絡みついた黒い糸を眺めつつ、糸を巻き上げる。糸の先に引っ掛かっていた物に気付き、眼を見張った。
真っ白な髑髏が引き上げられたからだ。リールを掴んでいた手が震える。友人の言葉を思い出す。全てを悟る瞬間、後頭部に衝撃が走った。
「がっ!」
突然の凄まじい痛みに耐えられず、頭を両手で押さえながら後ろを振り向く。見慣れた焼けた肌。口元から覗く白い歯が見えた。笑顔で右手に掲げたバットを次郎の頭に再度振り下ろす。血が頭から吹き出し、透き通った湖の中に流れていった。
自分はこれからどうなるのかと、ふと考えをよぎらせながら、意識は深い闇へと吸い込まれていった。
数週間後、防波堤に二つの影。白い歯を覗かせながら、釣りをしている男へと、軽い口調で話しかけている男の姿。話しかけられた男も、話相手が出来て安心しているのか、表情を緩ませる。
充分に打ち解け合えたところで、焼けた肌から映える白い歯を覗かせながら、軽い口調で男に告げる。
「ここら辺でいい場所があってさ。すぐに沢山釣れたし、誰にも言わないなら、教えれるけど、どうかな。気になる?」
「ああ!是非、教えてくれないか」
「分かった。分かった。それじゃあ……」