帝都決戦
「あなたをここで倒します……」
静かに、しかし確固たる決意を込めた宣言が、闇に沈む空間の温度を僅かに下げた。
秋菜の全身に宿る魔導が、怒りとともに膨れ上がる。浄化の魔導が激しい風となって周囲を震わせ、戦場を覆う浄火のごとく渦を巻く。だが、その熱気を真正面から受けるはずのイザベラは、微笑を崩すことなく、まるでこの状況を愉しむかのような表情を浮かべていた。
「まあ、怖い。そんな顔をして……まるで、私を睨み殺せるとでも思っているのかしら?」
その声音には、恐れの欠片もない。むしろ、秋菜の怒りを煽るような余裕すら滲んでいた。
秋菜は言葉を返さず、足元に魔導を集中させる。
「我が心身に宿る穢れを祓い清めたまえ、八百万の神々よ。邪なるものを遠ざけ、光と清浄なる力を授け給え!!」
祝詞を唱えながら、彼女の周囲に展開された魔導陣が瞬く間に輝きを増し、光の奔流が空間を満たしていく。次の瞬間、浄化の魔導が奔り、直線的にイザベラへと向かって放たれた。
しかし——
「遅いわ」
イザベラの姿がふっと掻き消える。
次に現れたのは、秋菜の背後だった。
「そんな単純な攻撃で、私に当てられるとでも?」
秋菜は即座に振り返り、別の魔導陣を展開。放たれるべき光の矢が、イザベラを追尾するように軌道を変え、狙いを定める。
「甘いわね」
イザベラの姿が再び掻き消え、次に現れた時にはさらに数メートル離れた位置へと移動していた。
秋菜の魔導攻撃は追尾性能を持つが、イザベラはまるで次の着弾点を予知しているかのように、寸前で空間移動を繰り返し、どの攻撃も掠ることすら許さなかった。
「くっ……!!」
苛立ちを隠せぬまま、秋菜は再び新たな魔導陣を展開する。
「少し、力が抜けてきたんじゃない?」
イザベラの指が宙をなぞった瞬間、秋菜の身体にぞくりとした悪寒が走る。
——神経系干渉。
目に見えぬ魔導の波が空間を伝い、秋菜の神経をかすめる。
「しまっ……!」
反射的に身を引き、浄化の魔導で干渉を打ち消すが、すでにイザベラの姿はそこにはなかった。
「——輿水氏ぃ!!」
恵一の叫びと同時に、黄金の魔導障壁が秋菜を包み込む。
「……ぐふぅっ!? いや、今の……ナシよりのナシ案件では??」
次の瞬間、目には見えない攻撃が軍神の盾に阻まれる。
秋菜が警戒を強める中、イザベラは相変わらず余裕の笑みを浮かべながら、指先をゆっくりと動かしていた。
「ちょっとだけ、あなたの神経に干渉してみようと思ったのだけれど……あの男が邪魔をするのね」
恵一の軍神の盾がなければ、秋菜の意識は曖昧になり、身体の自由を奪われていたはずだった。
「輿水さん、まずは落ち着いて下さい。無理に攻めても、敵の思う壺です」
オラクル・コアから、京介の静かな声が響く。
『怒りの気持ちを沈めて、冷静になって自身の特性を活かした戦い方を心がけて下さい』
しかし、秋菜の怒りは容易く収まらなかった。
「祓え給い、清め給え!!」
苛立ちとともに、再び魔導を展開し、イザベラを追い詰めようとする。
けれど——
「——そう、そうやって突っ込んできなさい」
イザベラの微笑は、まるで獲物が自ら罠に飛び込んでくるのを待つ狩人のような確信に満ちていた。
秋菜の攻撃が届くよりも速く、イザベラは空間を操り、再び瞬間移動を繰り返す。
「単純すぎるのよ」
秋菜の魔導が炸裂したが、それは虚しく空を切るだけだった。
「あなたの攻撃、全部見えているわ」
余裕すら漂わせながら、イザベラは再び距離を取る。
秋菜の魔導は速く、精度も高い。しかし、イザベラの空間移動はそれを上回る。単なる回避ではなく、あらかじめ次の展開を予測し、最適な移動先を選んでいるようにすら見えた。
怒りに燃えた秋菜の魔導は、しかし、すでにイザベラの術中に落ちていた。
彼女は単なる回避ではなく、秋菜の攻撃が放たれる刹那に瞬間移動を繰り返し、その軌道を逆手に取って完璧なカウンターを合わせていた。
放たれた浄化の光が空を切った瞬間、イザベラがその軌道上に現れる。
「っ——ぐっ!!」
神経系干渉で一瞬の隙を作り、その間に構築された魔導弾が秋菜の脇腹に炸裂した。
浄化の魔導を纏っていたはずの防御結界が衝撃を受け、大きく揺らぐ。
轟音とともに、秋菜の身体が弾き飛ばされた。背中が宙を舞い、視界が揺れる。
「輿水氏ぃ!!」
恵一の叫びと同時に、黄金の魔導障壁、軍神の盾が展開される。絶対的な防御がイザベラの魔導の衝撃を完全に相殺し、秋菜の身体を柔らかく受け止めた。まるで衝撃そのものが存在しなかったかのように、彼女は無傷のまま地面へと降り立つ。
だが、その安堵も束の間、目の前で薄く笑みを浮かべるイザベラの姿が、秋菜の焦りをさらに募らせる。
「そんな単調な攻撃しかできないのかしら?」
悪意と嘲弄が滲む声音。
「いくら全力で突っ込んできたって、当たらなければ意味がないのよ?」
イザベラの言葉に対し、秋菜は奥歯を噛みしめることしかできなかった。今のままでは何もできない。ただ感情のままに攻撃を仕掛けても、イザベラは瞬間移動と神経系干渉を駆使し、そのすべてを軽々と捌き切っていた。どれほど力を込めたところで、動きはすべて読まれ、放たれた一撃はただの空振りに終わる。
「そんなに焦らないで? もっと、私を楽しませてちょうだい」
挑発するような声が響き渡ると同時に、空間がわずかに歪んだ。
その瞬間、秋菜の視界の隅に黄金の光が映り込む。
夜の闇に沈む戦場にあって、ただ一つ、揺るがぬ光の壁。己の存在そのものを捧げ、仲間を守るために築かれた、限界なき誓いの象徴。
戦場の中心に立つ恵一の周囲を起点に、軍神の盾が展開され、降り注ぐ魔導弾のすべてを弾き返していた。絶え間なく広がる光の波紋が、幾重にも重なりながら戦場の空気を静かに振動させ、穢れなき防御の陣を形成している。火花のように砕ける魔導の奔流。しかし、その内側に立つ恵一の姿は微動だにせず、ただその場に存在し続ける。
どれほど強大な術式が襲いかかろうとも、彼は一歩も動かず、その防壁は揺らぐことすらなかった。暴風雨に晒されることなく、ただ地に根を張る大樹のごとく、戦場の中心にそびえ立つその姿には、戦いの流れすらも支配するような、揺るぎない存在感があった。
「輿水氏! 俺が防ぐから、今のうちに体勢を——!!」
その声には、迷いも、動揺もなかった。ただ確信だけがそこにあり、まるでそれが当然の事実であるかのように響いていた。恵一にとって、軍神の盾は単なる防御の手段ではない。それは仲間を守るために彼がそこにいる理由そのものであり、彼の存在そのものを象徴するものであった。
幾度となく繰り返される攻撃の嵐。それはもはや無意味なものとなりつつあった。どれほど苛烈な術式が降り注ごうとも、黄金の障壁には一切の傷もつかず、砕け散る魔導の光が宙に消えるだけ。そこにあるのは、ただの誇張ではない。圧倒的な事実として、誰にも覆すことのできない"無敵"という現実が、戦場の空気に刻み込まれていた。
「ちょっ、また来んの!? これ無理ゲーじゃね?」
イザベラの容赦なき攻撃が矢継ぎ早に放たれる。空間を切り裂く魔導が閃き、爆発の衝撃が立て続けに放たれ、それでも軍神の盾は揺らぐことなく、ただ淡々とそれを受け止め続ける。
恵一は動かなかった。
怯むことも、疲れを見せることもなく、ただ戦場の中心に立ち続け、迫りくる魔導の奔流を静かに受け止めていた。イザベラが放つ術式がいかに強大であろうと、軍神の盾はそのすべてを拒絶し、砕かれた魔導の粒子が無数の光の残滓となって宙へと消えていく。
秋菜の視線の先で、黄金の障壁が幾重にも波紋を描きながら広がり、戦場を覆う魔導の衝撃を寸分違わず弾き返していた。その光の中心には、恵一の姿があった。
彼はまるで、大地に根を張る巨木のようだった。どれほど苛烈な嵐に晒されようとも、その幹は決して折れることなく、暴風の中でただ揺るぎなくそびえ立ち続ける。
秋菜は、その光景をただ見つめることしかできなかった。
どれほど無謀に飛び込もうとも、焦って攻撃を繰り出そうとも、そのすべてを恵一は軍神の盾で受け止め、言葉もなく支え続けていた。
秋菜の瞳に映るのは、戦士の姿ではなかった。
——それは、絶対の盾だった。
激情に駆られ、冷静さを失い、ただがむしゃらに突き進んでいた秋菜を、恵一は一度も責めることなく、その背中で全てを受け止めていた。まるで、どれほど強風に晒されようとも揺らがない、静かにそこに在り続ける存在のように。
この光を、無駄にしてはならない。
秋菜は深く息を吸い込み、乱れていた魔導の流れを整える。高鳴る鼓動を鎮め、戦場の喧騒の中で意識を澄ませた。怒りを手放した瞬間、視界が変わる。
イザベラの瞳がわずかに細められる。目の前の敵が、先ほどまでとは違う存在へと変貌したことを察し、その表情には微かな興味が滲んでいた。
「へぇ……ようやく気づいたのかしら?」
彼女は愉悦に満ちた口調で呟くと、僅かに唇の端を歪めた。その余裕がどこまで本物なのか、秋菜には知る由もない。だが、もはやそれを気にする必要はなかった。
イザベラの周囲の空間が揺らぐ。瞬間移動の予兆。
「でも——」
イザベラの姿が掻き消えた。
だが、その刹那、秋菜はすでに術式を展開していた。
「——そこよ!」
秋菜の声とともに、清浄なる魔導が奔る。
淡い光を帯びた浄化の魔導が、一直線に虚空を裂き、空間の歪みに向かって飛翔する。その軌道は迎え撃つのではなく、まるでそこに現れることを知っていたかのように、あらかじめ放たれた一撃が待ち構えるように収束していった。
空間がねじれる。
瞬間移動の終着点——魔導の波動がわずかに揺らいだその瞬間、イザベラの姿が顕現する。だが、それとほぼ同時に、秋菜の魔導が炸裂した。
「ッ……!」
閃光が爆ぜ、清浄なる波動がイザベラの防御を打ち砕く。彼女の身を包んでいた魔導障壁が脆くも崩れ去り、光の奔流が肌を焼くように刻まれる。衝撃の余波が戦場全体に広がり、周囲の空気すら揺らぐ中、イザベラの足がわずかにふらついた。
しかし、秋菜はそこで手を緩めることはなかった。
(もう、見えている……!)
イザベラの姿が再び掻き消える。瞬間移動。その動作は今までと変わらず洗練され、空間の歪みを利用した高速移動は、これまで戦局を支配してきた彼女の最大の武器だった。だが、秋菜は動揺することなく、それを迎え撃つ準備ができていた。
秋菜の魔導が再び光を描く。焦点を合わせるのは、動いた先。
水面に映る月を掴もうとしても捉えることはできない。しかし、それが揺らぐ瞬間を捉えることができれば——話は違ってくる。瞬間移動が完全に自由なものではないと気づいた今、イザベラの次の位置を予測し、先んじて魔導を展開することができる。
流れるような動作で術式を発動させる。澄み渡る清光が戦場を貫き、浄化の奔流が走る。
「……神々よ、我が導きを照らし給え」
静かな祈りの言葉が発せられると同時に、魔導の軌跡が瞬間移動の終着点を正確に捉え、空間が揺らぐのとほぼ同時に、イザベラの姿が現れる。その瞬間、秋菜の魔導が鋭く叩き込まれた。
「ッ……くっ!」
イザベラの身体が後方へと跳ね、崩れるように地を蹴る。先ほど破られた防護膜の上からさらに浄化の波動が重なり、傷口から微かな魔導の光が滲んでいた。
これまでの余裕に満ちた態度が崩れ、彼女の表情から笑みが消えた。
秋菜は静かに呼吸を整え、再び魔導を収束させる。戦場を支配していたのは、これまで間違いなくイザベラだった。しかし、今は違う。秋菜の意識は研ぎ澄まされ、無駄な動きはなくなり、一つひとつの術式が理に適っている。この戦いは、もはや感情に流されて魔導を振るうだけのものではない。
「……なるほどね」
イザベラは荒い息をつきながら、それでもなお口元に薄く笑みを浮かべる。
「私の間を見切ったわけね?」
その言葉に、秋菜は何も答えなかった。ただ、僅かに構えを整え、次の攻撃の機を窺う。
イザベラの瞳に宿るのは、怒りではなかった。
むしろ——興奮。
「いいわ。なら、私も本気を見せてあげる」
その瞬間、空間を満たしていた魔導の流れが、一気に変質する。
空気がわずかに震え、目に見えぬ力が侵食するように広がっていく。淡い紫の光が揺らめきながら空間を包み込み、それはまるで目に見えぬ蜘蛛の糸が張り巡らされるかのように、秋菜の体へと絡みついていった。
「……えっ?」
秋菜の視界がにじむ。まるで現実そのものが揺らぐような錯覚。足元が安定せず、指先の感覚が薄れていく。違和感は瞬く間に全身へと広がり、彼女は愕然とした。
——足が……手が……勝手に動いている。
「な……に、これ……」
震える声が漏れる。
「貴女の神経は、もう私の支配下よ」
イザベラの声は冷たく、どこか愉悦に満ちていた。
秋菜は全力で抵抗しようとする。魔導を練り上げようとするが、思うように力が入らない。それどころか、自分の意思とは無関係に体が動き始める。
秋菜の体は、まるで見えざる糸に操られるように動き続けていた。抵抗しようとする意思とは裏腹に、指先は滑らかに魔導を練り上げ、光が掌に収束していく。冷たく脈打つ魔導の流れが、彼女の意識を嘲笑うように揺らめいていた。
「やめて……! 私の体なのに……!」
必死の叫びも虚しく、足は止まらず、腕は意思を無視して恵一へと向かう。身体の内側から絡みつく不快な魔導の束縛が、彼女の神経を巧妙に支配し、筋肉の僅かな動きさえ許さない。どれだけ力を込めても、まるで透明な鎖が巻きついているかのように動きを封じられ、むしろ逆らおうとすればするほど、魔導の収束は加速していく。
「輿水氏——!?」
恵一の驚愕の声が響いた瞬間、秋菜の手から解き放たれた紫電が一直線に奔る。しかし、それが彼に届くことはなかった。
黄金の光が瞬く間に展開され、不可侵の領域が彼を包み込む。
軍神の盾
絶対防御の障壁が、鋭い閃光を完璧に弾き返す。空間が震え、衝撃波が瓦礫を舞い上げたが、恵一の立つ場所は揺るぎもしなかった。しかし、秋菜の身体は止まらない。次の瞬間にはすでに新たな魔導が組み上げられ、光がまたしても収束していく。
「違う……違うのに……!!」
込み上げる絶望に、秋菜の頬を涙が伝う。
彼を傷つけるつもりはない。それなのに、魔導は冷徹な計算のもとで組み上げられ、次々と攻撃が繰り出されていく。自分の中の何かが、あざ笑うように暴走し、意志を踏みにじっていく感覚。止めたいのに、止められない。
「輿水氏! どうしたんですか!? 俺、狙われてますよ!?!?」
焦りを滲ませた恵一の声が聞こえる。しかし、秋菜は答えたくても答えられない。喉を震わせ、言葉にしようとするたびに、魔導の束縛が彼女の意識を圧迫し、ただ攻撃の動作だけを強制してくる。
恵一は、必死にアイギスを展開し続ける。絶対の防御がある限り、秋菜の攻撃が彼に届くことはない。だが、それは本質的な解決ではなかった。
「……やめろぉぉぉ!! 輿水氏、それは詰みムーブ!!!」
掠れた声が、戦場の静寂の中に落ちる。
軍神の盾の光の向こう、そこにいる秋菜は——苦しげに涙を流しながら、それでも攻撃を繰り出していた。
「やめたいのに……止められないの……!」
懇願するような言葉。しかし、その声が届く前に、彼女の指先は次の術式を構築し、恵一へと向けて光を集めていく。
「お願い……! 私を止めて……!!」
涙を流しながら、秋菜の魔導は新たな光を生み出していく。
恵一は、拳を握りしめた。
軍神の盾の防御は完璧だ。いくら攻撃が続こうとも、決して破られることはない。
——だが、それでいいのか?
秋菜が望んでいるのは止めてほしいということ。それなのに、自分はただ防ぐことしかできていない。
軍神の盾はあくまで盾でしかない。だが、彼女を救うには、それだけでは足りない。
「……俺に……輿水氏を……止めろって……?」
どうすればいい?
アイギスは攻撃を受け止めるだけ。だが、それでは彼女の苦しみは終わらない。
「……どうすんのコレ……ガチで詰んでね???」
恵一の声が震える。
その刹那、秋菜の魔導がさらに収束した。
先ほどまでとは違う、決定打を狙う魔導。
光が集まり、冷たい輝きを帯びながら、一点に向かって研ぎ澄まされていく。
軍神の盾の向こう側。
そこに立つ秋菜の瞳には、深い絶望の色が映っていた。
秋菜の瞳から、赤い雫がこぼれた。
それは魔導の過負荷による神経の損傷——内側から蝕まれた身体が限界を迎えた証だった。滲み出た血が涙と混ざり合い、彼女の頬を伝いながら、静かに地面へと落ちる。床に染み込む紅の滴は、まるでこの戦場に刻まれた彼女の苦痛の痕跡のようだった。
彼女の指先がわずかに震えた。意志の力で動かそうとしているのか、それとも神経を侵食する魔導に抗おうとしたのか——どちらにせよ、その抵抗はあまりにか細く、すぐに力を失い、虚しく空を切る。
やがて、膝が崩れた。まるで操り糸を断ち切られた人形のように、秋菜の身体がゆっくりと傾ぎ、支えを失ったまま倒れ込む。
「輿水氏!!」
恵一の叫びが、戦場に響く。
軍神の盾が消失し、彼はためらうことなくその場へと駆け寄った。だが、その腕に受け止めた秋菜の身体は、驚くほど軽かった。普段の彼女からは想像もできないほど頼りなく、その重さのなさが、むしろ彼女が失った力の大きさを物語っていた。
「輿水氏……返事してくれ……頼むから……!」
震える声で呼びかける。しかし、彼女の瞼は閉じられたまま微動だにせず、肩の力も抜け落ち、細い指先は無機質な静寂に沈んでいた。まるで、全てを使い果たし——意識すら戦場に置き去りにしたかのように。
「ふふ、男のために自らを犠牲にするなんて……まるで悲劇のヒロイン気取りね」
その冷たい声が、恵一の耳に突き刺さる。
顔を上げると、イザベラがゆったりと歩み寄ってきていた。余裕の笑みを浮かべ、まるで芝居の幕が引かれた舞台を楽しむ観客のような眼差しを向けている。
「でも、あなたには少し早かったんじゃないかしら?」
かかとが床を鳴らす音が、不愉快なほど静寂の中に響いた。ゆっくりと秋菜のそばへ近づくと、その肩に触れる。無機質な動作で指を滑らせる様子は、まるで壊れた玩具の状態を確かめるかのようだった。
恵一は、ただ立ち尽くしていた。
拳を握りしめながらも、その手には何の力も宿らない。
軍神の盾があれば、どんな攻撃でも防げるはずだった。敵の刃がどれほど鋭かろうと、その魔導がどれほど強力だろうと、決して貫かせはしない。それが——彼に与えられた唯一の役割だった。
なのに、秋菜は目の前で倒れた。
恵一が守るべきものは、すでに傷つき、力を失い、沈黙している。何が足りなかったのか。何ができたのか。
答えの見えない疑問だけが、胸の奥に沈んでいく。
その瞬間——
「——今!」
鋭く響いた声が、戦場の空気を切り裂いた。恐怖に震えながらも、それでも立ち向かろうとする者の叫び。緊迫した静寂が一瞬、時を止めたかのように空間を支配する。
イザベラの口元に浮かんでいた勝利の微笑が、わずかに揺らいだ。
次の瞬間——
蒼白い閃光が、虚空を裂いた。
魔導の奔流が背後から迸り、雷鳴のごとき轟音とともに炸裂する。光の奔流が戦場の影を払うかのように迸ると同時に、イザベラの身体が揺らいだ。
「なっ……!?」
振り向く間もなく、衝撃波が彼女の全身を襲う。赤いコートの裾が翻り、舞い散る灰塵が彼女の周囲に渦を巻く。その瞳には、これまで一度も宿ることのなかった感情——焦燥が浮かんでいた。
この戦況下で、自分の背後を衝かれるなど——ありえない。
「い、いつの間に……?」
驚愕に染まった声が、かすかに震えた。
彼女の視線の先——そこには、ノーラが立っていた。
両手を震わせながら、それでも確かに魔導を放った少女の姿があった。肩は小刻みに揺れ、足元は不安定ながらも、その眼差しだけは確かに前を向いている。
「で、できた……!」
掠れた声が漏れる。驚きと安堵、そして自らが放った一撃の実感。恐怖に押し潰されそうになりながら、それでも決死の覚悟で撃ち放った魔導。それが、確かに届いたのだ。
そして、その一撃は——戦局を変えた。
「……ありがとう、ノーラさん」
静かに響いたその言葉とともに、秋菜が動いた。
ゆっくりと、しかし確固たる意志を宿し、彼女は立ち上がる。
まるで、長い夜が明け、朝の光が差し込むかのように——その瞳には、もはや迷いも焦燥も残されていなかった。
「なっ……!?」
イザベラの動きが瞬時に硬直する。
即座に魔導を発動しようとする——だが、遅い。
次の瞬間、秋菜の指が彼女の手首を捉えた。確実に、逃さぬように。
「——これで終わりです」
淡く発光する掌から、黄金の波が奔る。それは静かに、しかし確実にイザベラの神経へと絡みついていた支配の魔導を焼き切っていく。
「っ……!!」
イザベラの表情が、驚愕に染まる。
これまで全てを意のままに操ってきた魔導が、あっけなく崩壊していく。張り巡らせた蜘蛛の巣を、一瞬で断ち切られるかのような喪失感が襲いかかる。
「——おとなしく、投降してください」
秋菜の声は、静かに響いた。
沈黙が、戦場を包み込んだ。
静まり返った空気の中、僅かに立ち上る魔導の余波が、まるで戦いの名残を惜しむかのように揺らめいている。やがて、イザベラの表情が驚愕から苦笑へと変わる。
「……あなた、私を騙してたの?」
その問いに対し、秋菜はわずかに唇の端を持ち上げる。
「最初から、少しずつ削らせてもらっていました」
静かに告げながら、彼女の指先が微かに動く。
「あなたに操られるフリをしながら、神経への干渉を僅かずつ削ぎ落とし、ノーラさんの拘束を解いていたんです」
戦場に漂う微かな魔力の乱れが、今になって静かに消えていく。
イザベラは目を細め、秋菜を見つめる。
——してやられた。
唇の端に浮かぶ微笑が、皮肉気なものへと変わる。
「……ふふ……男のために涙を流す純情少女かと思ったら……なかなかしたたかなのね?」
ゆっくりと肩をすくめながら、イザベラは小さく息をついた。
その仕草には、敗北を悟った者だけが持つ、静かな余裕が滲んでいた。
「……負けたわ」
その言葉が夜の静寂に吸い込まれた瞬間、戦いは幕を下ろした。だが、その実感は遅れて訪れる。粉塵と血の匂いが交じる冷えた空気が、肌を突き刺し、戦場の余熱を微かに留めている。魔導の余韻がまだ空間に漂い、現実との境界を曖昧にしていた。
イザベラの倒れた姿が、その結末を決定づける証左であった。しかし、恵一の体はなおも緊張の名残を宿し、戦いの終焉を受け入れられずにいた。彼の指先はかすかに震え、呼吸は浅く、心臓だけが過剰に脈打つ。彼は視線を自らの手に落とす。戦っていたという証が、そこに刻まれているようだった。
「は、はひ? 終わった……?」
かすれた声が、恵一の唇から零れた。その瞬間、彼の足元が崩れる。限界を迎えた身体は支えを失い、膝をついた。
そして——
堰を切ったように、張り詰めていたものが決壊し、恵一は失禁した。
温かな液体が静かに滲み広がり、戦場に漂う冷えた夜気と交わる。ほどなくして、アンモニアの刺激臭が立ち上り、血と焦げた魔導の残り香に混ざり合う。それは、まるで熱を孕んだ湿った空気の中で、長い歳月をかけて濾過された大地の記憶が、焦げついた鉱物の香りと絡み合いながら、どこか野性味のある余韻を奏でる、朽ちた大地の交響曲のようであった。
「……は、はぁ……」
呼吸が乱れ、肺が空気を貪るように動く。戦いは終わったはずなのに、鼓動はなおも狂乱を続け、脳内に張り詰めた焦燥が収まらない。守ると決めていた。傷つけさせないと誓った。それでも、秋菜は傷つき、ノーラは震え——そして、自分は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「桂澤君……!」
震える声が、彼の意識を呼び戻した。秋菜が駆け寄る。彼女の視線の先には、魔導を放ったまま硬直しているノーラの姿があった。少女の両手は未だ震え、小刻みに肩が揺れている。彼女の目は自身の手を凝視し、そこに残る魔導の痕跡に怯えていた。——これは、自らの意思で放った力。その重さが、彼女の小さな肩を圧し潰そうとしている。
「私……私……!」
掠れた声は嗚咽に変わり、言葉にならない。秋菜が静かに歩み寄り、ためらうことなくノーラの肩を抱きしめた。
「大丈夫です、ノーラさん」
その声は、夜の静寂に溶けるように穏やかであり、まるで戦いの余韻を優しく包み込むかのように響いた。
「もう、大丈夫ですから」
秋菜の言葉は、震えるノーラの身体を包み込むように響き、その一言が引き金となって、彼女の肩の震えがさらに強まった。抑え込んでいた感情が堰を切ったように溢れ、頬を伝う涙が静かに流れ落ちる。
戦場に漂う冷えた夜気の中で、嗚咽がかすかに響く。
張り詰めていた心の防壁が崩れ去り、抑えきれなくなった感情が、静寂の中に滲んでいく。
秋菜は何も言葉を添えず、ただそっとノーラの肩を抱きしめた。
戦いの終わりを告げるのは、言葉ではなく、その温もりだった。
恵一はその様子をじっと見つめながら、意識が戦場へと引き戻されるように、ゆっくりと足元へと視線を落とした。夜気に滲み広がる湿り気の感触、微かに立ち昇るアンモニアの香りを含んだ蒸気、汗と血の匂いが入り混じる空気が、まだこの場所に戦いの残滓を焼き付けていることを否応なく思い出させる。
だが、少なくとも、この夜を生き延びた三人は、今ここで確かに互いの無事を感じ取り、寄り添い合っていた。
それだけは確かであり、戦場に残る冷えた夜風の中でも、その事実だけは変わらずにそこに存在していた。
しかし——
その刹那、戦場を包みかけていた安堵の空気が、突如として引き裂かれた。
「感動の最中に悪いけど、ちょっと邪魔させてもらうわ」
静寂を破る声が、皮肉めいた響きを帯びながらも、どこか奇妙な静けさを宿していた。
その声には、もはや勝者の驕りも、敗者の嘲りもなかった。
秋菜が振り返ると、そこには、血に濡れた地面に膝をつきながらも、なおも凛然と微笑むイザベラの姿があった。
「……あなた」
秋菜が息を呑む。
イザベラの瞳には、もはや戦いの執念も怒りもなく、ただ、すべてを受け入れた者の静かな決意だけが宿っていた。
「いいえ、何でもないわ。これは、私の戦いの終わらせ方」
ゆっくりと彼女は上体を起こし、指先を胸元へと添える。
「私みたいな人間を、生かしたまま帝国に引き渡すなんて——甘いわよ」
その言葉には、自嘲でも悲哀でもなく、ただ、運命すら己の意志で決める者の誇りがあった。
秋菜が反応するよりも早く、イザベラの指が淡く光を帯びる。
それは、攻撃の前兆ではなく——
——儀式。
「……ッ!!」
秋菜が動いた。しかし、遅かった。
次の瞬間——
閃光が、世界を白に染め上げた。
爆発の衝撃が空間を震わせ、焼け付く熱波が四方へと広がる。光が戦場の影を塗り潰し、瓦礫と血に塗れた大地を瞬く間に飲み込んでいく。
轟音が空間を裂く。
炸裂する閃光の中で、イザベラの姿が揺らぐ。
音もなく、塵となるように。
しかし、その唇には、最期まで微笑が浮かんでいた。
瞬時に軍神の盾が展開される。
黄金の防壁が秋菜とノーラを包み込み、爆発の激流を寸分違わず受け止める。魔導の余波が衝突するたびに障壁は脈動し、爆風の圧力が空間を歪ませながら散り散りに弾け飛んでいく。
閃光の中にあったはずのイザベラの姿は、すでにない。
彼女が己の意志で選んだ最期だけが、戦場に残されていた。
爆炎が収まり、戦場に漂っていた魔導の揺らぎが徐々に消え去るとともに、夜の静寂がゆっくりと戻り始める。
しかし、そこに立ち尽くす三人の心には、未だ嵐の残滓が渦巻いていた。戦場の空気を静かに漂う燃え残る魔導の余波は、まるで彼女の最後の意志がそこに留まっているかのように、微かに揺れながら消えていった。