事件の裏側2
大原が京介への面会を許されたのは、桝岡邸を訪れてからおよそ1時間後のことだった。
案内されたのは、応接間として利用される『天頂の間』。その扉が静かに開かれると、大原は目を見張った。目の前に広がるのは、圧倒的な豪華さと歴史が息づく空間だった。
高い天井には、見事な木彫りの天蓋が広がり、その複雑な模様には黄金と朱の細工が織り込まれていた。天井の中央には天球儀が吊るされ、星座が描かれたガラス製の球体がゆっくりと回転している。その動きはまるで、この部屋が時を超えた別世界の中心であるかのような幻想を与えていた。
部屋の中心に置かれたソファセットは深い赤のベルベットで覆われ、その背もたれには見事な刺繍が施されている。横には重厚なサイドテーブルが置かれ、そこにはカラフルな花々がアレンジされた花瓶が静かに存在感を示していた。
そのソファに京介が腰掛けていた。彼は片肘を優雅にソファの肘掛けに預け、脚を自然に組んでいる。その姿には風格が漂い、まるで部屋全体の重心が彼の存在を中心に据えられているかのようだった。彼のわずかな仕草さえも、この場を完全に掌握していることを示していた。
「私からお呼び立てしたにも関わらず、お待たせして申し訳御座いませんでした。さあ、お掛けください」
京介は、ゆっくりとした口調で礼儀正しく詫びると、手で向かいのソファを示した。その声には余裕と威厳が感じられ、大原はその一言だけで彼が桝岡家の後継者であることを強く意識させられた。
大原が席に着くと、京介はわずかに微笑みを浮かべながら続けた。
「コーヒーを召し上がりますか? あいにく、手元にあるのはパライソ・エスコンディード・エステートのゲイシャのみですが、それで宜しければ、バリスタに用意させましょう」
その言葉に、大原は一瞬驚きを隠せずに目を見開きながらも、短く頷いた。
「では、頂戴いたします」
その瞬間、大原はふと視線を落とした。艶やかなマホガニーのテーブルに置かれた精巧な時計のガラスが、燭台の柔らかな光を受けてほのかに揺れている。周囲には高級なアロマキャンドルから漂う薔薇とシダーウッドの香りが広がり、その香りが空間を上品に満たしていた。大原はその静謐な空気感に、どこか言葉にできない圧倒される感覚を抱いた。
ほどなくして、白い手袋をしたバリスタが、音も立てずにカートを押して入ってきた。その動きには隙がなく、熟練した手つきが感じられた。テーブルの上にそっと置かれたのは、リモージュのアンティークカップ。カップには手描きの金箔装飾が施され、その美しさはまるで芸術品のようだった。注がれた琥珀色のスペシャリティーコーヒーは、ジャスミンと熟れたストーンフルーツ、そしてほのかなチョコレートの香りが交じり合い、芳香が室内にゆっくりと立ち込めていく。
バリスタが一礼して退出すると、京介はカップを軽く持ち上げた。その指先からカップを持ち上げる動きには洗練された優雅さが漂い、一口含むと、わずかに目を細めて満足げに微笑んだ。
「いかがでしょう、大原先生? この豆は、パナマの山奥で年にごく少量しか収穫されないもので、通常の市場にはほとんど流通しない特別なものです。その希少性だけでなく、風味そのものもまた特別です」
京介の声には、確信と余裕が滲んでおり、その態度には自分の選択に揺るぎない自信が感じられた。大原は軽く頷きながらカップを持ち上げ、慎重に口元へ運んだ。
一口含んだ瞬間、大原の舌の上に広がったのは、複雑で上品な味わいだった。香りの奥深さと甘みのバランスが絶妙で、まるで一つの物語が口内で展開されているかのような感覚に包まれた。
「これは……驚くべき味わいですね」
大原の言葉が静寂を破り、その声には本心からの感嘆が滲んでいた。彼の瞳には、一瞬の戸惑いと感動が交錯していたが、それはこの場の品格にすぐに吸収されるようだった。
その反応を受け、京介はわずかに微笑みを深める。その表情には揺るぎない自信が宿りながらも、どこか控えめな品格を漂わせている。
「気に入っていただけて何よりです。大原先生、この豆は選び抜かれたもので、ただのコーヒーではありません。繊細な調和を持ちながらも、どこか芯の強さを感じさせる……それが私たちがこの時間を共にするにふさわしいものかと思いまして」
その言葉には、さりげないが確かな配慮が込められており、大原は軽く頷いた。京介の言葉が彼の心を自然と引き込むようだった。
続いて、京介はカップを持ち上げ、一口含んでから静かにテーブルへと戻した。その一連の動作には、洗練された優雅さと、あらゆる場面を掌握する者としての落ち着きが滲んでいた。燭台の灯りがカップの縁で淡く揺らめき、二人の間に漂う空気は一層の重厚感を帯びていく。
「さて、大原先生、実は折り入ってお願いしたいことがあります」
京介の声が低く響くと、大原の背筋がわずかに伸びる。その言葉には、場の雰囲気を静かに変える力があり、彼の心には一抹の緊張が走った。目の前に座る京介が直接「お願い」と言うこと自体が稀であり、それだけにその言葉が持つ意味の重さを痛感していた。
ここで、我が国の国政について簡潔に触れておこう。帝国議会は、貴族院と衆議院からなる二院制を採用している。その構造は、公明正大な臣民投票を基盤としているが、貴族院においては特有の身分制が存在する。被選資格を得るためには、企業、名家、あるいは軍部からの推薦が必要であり、これにより特定の有力者たちが間接的に議会に影響を及ぼす仕組みが整えられている。
これは、名目上自由主義的民主主義を謳う我が国において、矛盾を孕みながらも、現実的に力を保持するためのシステムだ。貴族院議員である大原もまた、この構造の一部を担う存在であり、その背後には帝国大審院という強大な後ろ盾が控えていた。大原自身も、推薦者たちの意向を汲み取ることがしばしば求められる立場にある。しかし、それは珍しいことではなく、むしろ日常的な取引に近いものだった。
だが、今回の京介からの依頼は、その彼にとっても予期せぬ内容だった。桝岡家のように圧倒的な影響力を持つごく一部の有力者は、国政への直接介入が可能であり、そのため特定の議員を支持する必要がないとされているからだ。
「東北の例の事件についてはご存知ですね?」
京介は短い間を置いて切り出した。その瞳には冷静さと共に、一種の決意が宿っているように見えた。
「はい、例の隕石の件でしょうか? 国防軍により無力化されたという……」
大原も、東北を震撼させたこの事件について噂程度には耳にしていた。中央情報局の報告によれば、3日前、未確認の巨大隕石が突如として東北を襲ったという。
「落下していれば、大災害は免れ得なかった――そう聞いております」
その言葉を発した大原の声には、わずかな疑念が混じっていた。何かが釈然としない。通常、国防軍の行動に関する情報は緻密に統制されているが、この件に関しては異例の早さで「無力化」の情報が広まった。そして、その背後に何かしらの意図があるのではないかという噂もまた同時に広まっていた。
京介はそんな大原の表情をじっと見つめていた。部屋に漂うコーヒーの香りとは対照的に、空気には重い緊張感が満ちていた。
「いえ、それは真実とは異なります」
京介は、大原の言葉をきっぱりと否定した。その声には揺るぎない確信が宿っており、大原は思わず戸惑いの色を浮かべた。
「実は、例の件には、青森県の普通高校に通うとある少年が深く関わっています。隕石の無力化に、軍部は一切咬んでいません。こう申し上げれば、お分かりになるでしょうか?」
京介の意味深長な言葉に、大原の眉が僅かに動く。視線を合わせることもできず、彼は半分空になったコーヒーカップを指でカツン、カツンと弾いた。その音が、静寂に包まれた応接間に小さく響く。
京介は、じっと大原の反応を見つめた後、ゆっくりと一枚の写真を取り出した。写真に写っているのは、どこにでもいそうな冴えない風貌の男子高校生だった。眼鏡をかけ、少し猫背気味で、どこか自信のなさそうな表情をしている。
「さて、ここからは内密にお願いしたいのですが、この少年に関して、軍部が何か良からぬことを画策している模様です」
大原は写真に視線を落としたまま、口を開いた。
「少年? つまり、この少年を軍部から守れば宜しいのでしょうか?」
京介は、にっこりと微笑みながら軽く頷いた。その微笑みには余裕が滲んでおり、大原は一層腑に落ちない思いを抱いた。
「お許しいただけるのであれば、お聞かせください。例の件に深く関わっていたとは言え、高々少年程度になぜそこまで大掛かりに?」
写真を指先でなぞるように眺めながら、大原は疑問を口にした。その声には抑えきれない困惑が滲んでいた。当然ながら、この少年が何者であり、事件にどう関わっているのか、大原には全く想像がつかない。
京介は、一瞬沈黙した後、冷静な声で答えた。
「彼は面白い……」
その一言に、大原は息を飲んだ。京介にとって「面白い」とは、彼が送り得る最大の賛辞である。そして、その言葉が出たとき、それが軽い意味でないことを誰もが知っていた。
大原の頬を冷や汗が伝い、指先が僅かに震える。京介が「面白い」と評する人物には、何かしら常人には理解できない特別な力が宿っている――それは大原にも直感的に理解できた。
「彼の力は強大です。強大であるが故に儚い……今、彼に必要なのは正しい導き手なのです」
京介の言葉は、静かながらも重く、大原の胸に響いた。彼は、その言葉の意味を必死に追いかける。
「つまり、軍部はその強大な力を我が物にしようと……?」
大原は、断片的な情報を何とか繋ぎ合わせようと試みた。その声には焦燥感が滲んでいたが、京介は動じることなく続けた。
「その通りです。軍部は彼の力を制御し、自らの利益に利用しようとしている。しかし、彼の力は危険なまでに純粋で、方向を誤れば誰も制御することはできないでしょう」
京介の瞳には、冷静さの中に鋭い光が宿っていた。その視線に大原は息を呑み、彼が何を意図しているのかを理解しようと全神経を集中させた。
京介の実力は折り紙付きだ。世界でも指折りの術式制御力に加え、他者の追随を許さない魔導の知識――戦闘員として、研究者として、彼と肩を並べることができる人間は全世界でも数えるほどしかいない。しかし、魔導界に彗星のごとく現れたこの少年は、そこはかとなく彼の興味をそそった。この強大な才能を生かしきることができるのは、恐らく自分しかいないであろう。高貴なる者の義務を務める時が来た――そう京介は確信していた。
京介は、一瞬で場の空気を変えた。静かに背筋を伸ばし、その表情には決意が宿っていた。彼は深々と頭を下げる。その動作には、偉大なる者の威厳と、相手を敬う誠実さが同居していた。
「帝国大審院を後ろ盾に持つ、貴方を見込んでのお願いです」
その声は、柔らかくも強い響きを持ち、聞く者に自然と従順さを植え付ける力があった。本来なら、桝岡家の圧倒的な権力を以て、直接この事態に介入することも可能であった。しかし、それをしないのが京介だった。権力を振りかざすのではなく、自ら手を差し伸べる姿勢。圧倒的力を持つが故の余裕――まさに王の器である。
対する大原は、言葉を失っていた。普段はどんな場面でも巧みな話術で相手を圧倒する彼が、この場ではただ頷くことしかできない。京介の存在そのものが、彼の矜持を上回っていた。
「承知いたしました。私にできる限りのご協力をさせていただきます」
その返答は自然に漏れたもので、大原自身も、自分が即答したことに驚いている様子だった。しかし、間を置かずに慎重な口調で続ける。
「ただ、不躾ながら申し上げますと、軍部を相手取ることは私自身にも相応のリスクを伴います。幹事長としての立場もあり、もし失敗した際の事後処理について、ご支援を賜りたく存じます」
その言葉には、帝国臣民党幹事長としての責任がにじんでいた。大原は、リスクを負う以上、桝岡家からの具体的な支援がどの程度期待できるのかを見極めようとしていた。しかし、京介の返答は、彼の想像を遥かに上回るものだった。
「わかりました。リスクについては、全て私が責任を持って排除します。それに加え、桝岡家傘下のメディア系列を動員し、世論操作を実施しましょう。次回の貴族院選では、帝国臣民党が単独過半数を獲得できるように取り計らわせていただきます」
その瞬間、大原の目が見開かれた。あまりにも破格の条件に、思わず息を飲む。
「アッ……」
言葉にならない声が漏れる。京介の示した条件は現実の枠を超えていた。大原の膝が震え、やがてその場に崩れ落ちる。
「あ、ありがたき幸せ……!」
彼は床に這いつくばり、京介にひれ伏した。その姿には、かつて政界で恐れられた面影は微塵も残されていなかった。京介の圧倒的な存在感が、彼の全てを塗り替えていた。
京介は、そんな大原を聖者のような眼差しで見下ろす。そして、穏やかな声で諭した。
「大原先生、私たちは対等なビジネスパートナーです。どうか、そのようなことはなさらないでください」
その言葉は、慈悲深い神の宣告のようだった。しかし、それがさらに大原を感極まらせる。
「も、勿体なきお言葉!!!御々足をお舐め致します!!!!」
彼は感涙にむせびながら、京介の靴を執拗に舐め始めた。その姿は、完全に自己を失った男の末路そのものだった。
「ひょうふへはまのおみあひ、おいふぃいれふううう……!」
涎を垂らしながら靴を舐め続ける大原。その様子を見下ろす京介の表情は、変わらず冷静だった。
「私からは以上です」
その一言が響いた瞬間、溝呂木が現れ、大原を静かに抱き起こした。そして、半ば強制的に出口へとエスコートしていく。
「きょうしゅけしゃまのおみあしぃ、もっとぉ!もっとぉ!おかわりしたいのぉお……!」
赤子のように泣き叫びながら去っていく大原の背中を見送り、京介はふっとため息をついた。そして、独り言のように静かに呟く。
「やれやれ、後は情勢を見守るだけですね」
その声には、絶対的な自信と、どこか達観した落ち着きが感じられた。