隔絶された戦場
❖ ノーラ ❖
帝都の夜は、冷たい月光に照らされながら静寂に包まれていた。
帝都エリア17(旧大田区)。格式ある貴族街、鳳凰区。そこに建つ屋敷は、夜の闇に溶け込みながらも、その威厳を失うことはなかった。重厚な鉄門の奥に広がる庭園は、精巧に刈り込まれた植栽と、静かに水を湛える噴水が配置され、まるで夜の宮廷のような優雅さを誇っている。
バルコニーの縁にそっと手を置き、ノーラは遠くに広がる帝都の灯りを見つめていた。整然と並ぶ街路樹が黒々と影を落とし、その間を行き交う馬車の車輪が、石畳に柔らかく音を刻んでいる。遠くに聳える帝国軍の要塞が、漆黒の影となって夜空を切り裂き、薄闇の帳がすべてを覆い尽くそうとしていた。
脳裏に浮かぶのは、昼間の光景。
秋菜や仲間たちと過ごした穏やかな時間。格式ある錦栄通りでの買い物、紫雲楼での優雅なティータイム。貴族としての義務や政治的駆け引きとは無縁の、束の間の安息。
「……こうして楽しい時間を過ごせるのは、今だけかもしれませんね」
ノーラはそう呟きながら、唇に微笑を浮かべた。まるで、それが取るに足らない考えであるかのように。
だが、その微笑みは、次の瞬間に凍りつくことになる。
夜空を滑るように流れる冷気が、ひときわ鋭さを増した気がした。否——それは錯覚ではない。
——音が消えた。
屋敷の庭を流れる噴水の音が、ふっと掻き消える。夜風が吹き抜けているはずなのに、葉の擦れ合う音が聞こえない。親衛騎士たちの巡回の足音が、何の前触れもなく途絶えていた。
重い沈黙が、屋敷全体を覆う。
ある者は歩哨の途中でふと足を止め、虚空を見つめたまま動かなくなった。ある者は屋敷内の詰所で、何かを話している途中で突如として沈黙した。
誰も倒れてはいない。誰も傷ついてはいない。
しかし、彼らはすでに戦闘不能になっていた。
屋敷全体が、帝都から切り離される。外部とのすべての接続が断たれ、魔導通信は遮断される。監視魔導具は正常作動を示しているにも関わらず、映し出される映像には何の異常も映らない。
夜空に漂う月光だけが、ただ静かに照らしていた。
バルコニーに吹く夜風は、何も変わらず優雅な冷たさをたたえていた。だが、それが彼女に安堵を与えることはなかった。
ふと、空気が僅かに揺れる。
足音が、静かに忍び寄る。
ノーラは、はっとして振り返る。
そこには、音もなく、黒い影が佇んでいた。
夜の闇と一体化したかのような漆黒の戦闘服。流れるような動作で歩を進め、月明かりの下へと足を踏み入れる。
艶やかな黒髪が、静かに揺れる。金色の瞳が、冷たい光を宿していた。
ノーラの喉が、僅かに動いた。
「……誰?」
その言葉が落ちると同時に、ノーラの意識が研ぎ澄まされる。
この場にいるはずのない者が、自分の背後にいる——それだけで、全身の感覚が鋭敏になった。
ノーラは素早く振り返る。
そこにいたのは、一人の女。
黒の戦闘服に身を包み、闇の中に溶け込むように佇む長身の影。金色の瞳が月明かりを受け、獲物を測るかのように鋭く光る。
その女——イザベラ・モンテーロは、唇に微笑を浮かべた。
「ただのFIAのエージェントよ。名乗るほどの者じゃないわ」
冷ややかで、それでいてどこか愉しげな声音。
ノーラは息を呑む。
「あなた……何をしたの?」
問いかける声は静かだったが、その蒼氷の瞳には鋭い光が宿っていた。
イザベラは、わずかに首を傾げる。唇の端が薄く持ち上がり、まるで舞台上の女優が優雅に幕を開けるような仕草を見せた。
「そうね……あなたの屋敷を、帝都から"切り離した"とでも言えばいいかしら」
イザベラは楽しげに微笑む。
「もうここは、帝都じゃないのよ」
ノーラは思わず眉をひそめる。空には月が輝き、屋敷の庭はさっきと変わらぬ静寂に包まれている。しかし——確かに何かが違っていた。
「……どういうこと?」
イザベラはゆっくりと足を踏み出し、バルコニーの縁に指を滑らせる。まるで、そこに"見えない境界"があるかのように。
「外界遮断結界」
イザベラの指がわずかに動く。それだけで、空気が微かに歪むのをノーラは感じた。
「対象区域を完全に異空間へと隔離し、外部とのあらゆる干渉を遮断する魔導。魔導通信は遮断され、監視魔導具も正常作動を示しているのに、映し出される映像には何の異常もない。外から見れば、何も変わっていないように"見える"けれど、実際には、ここはもう帝都の一部ではない」
ノーラは言葉を失った。
イザベラは、薄く笑う。
「例えば……夜の湖に浮かぶ小舟を思い浮かべてみて。波がない静寂な水面にぽつんと浮かぶ、切り離された一点。どんなに近く見えても、それは周囲と繋がっていない。あなたの屋敷も同じ。もう、どこへも届かないし、誰もここには来られない」
ノーラの喉がかすかに動いた。
言葉の意味を理解するのに、一瞬の間が必要だった。だが、そのわずかな時間すら、じわりと胸を締めつける冷たい現実へと変わっていく。
イザベラは軽く肩をすくめると、どこか気楽な調子で言った。
「つまり、簡単に言えば……今のあなたは、世界から"零れ落ちた"のよ、お姫様」
夜は沈黙を保ったまま、二人を見下ろしている。遠くで微かに風が枝葉を揺らす音がしたが、それすらも異様なほど遠く感じられた。
「すぐに解放してください!」
ノーラの声が、凍りついた空気を裂いた。
その蒼氷の瞳には怒りと警戒が宿り、月明かりが彼女の金色の髪を淡く照らす。
しかし、イザベラ・モンテーロは、その視線すらも愉しむように、片眉をわずかに上げる。夜風が彼女の戦闘服の端を揺らし、薄い笑みが浮かぶ。
「ま、せっかくの機会だし……ちょっとお手合わせしてあげるわ」
その言葉が終わるよりも速く、ノーラは跳躍した。
「雷鎖閃!」
瞬時に展開された雷の鎖が、鋭い閃光を放ちながら宙を奔る。
雷鳴のごとき轟音が夜気を震わせ、鎖は背後の影へと襲いかかった。
しかし——
「はい、残念」
乾いた声とともに、ノーラの雷鎖は空を切った。
影が一瞬にして"消えた"。
(なに……!?)
ノーラの脳裏に警鐘が鳴る。
気配は消えていない。
むしろ、さらに近くに——
「ッ——!」
背後に、鋭い魔導の波動。
ノーラが振り向いた瞬間、風が裂けるような感覚とともに、何かが喉元を撫でるように走り抜ける。
(これは……"無の干渉"!?)
即座に距離を取ろうとするが、次の瞬間——
足元の空間が、わずかに歪む。
ノーラは瞬時に重心を傾け、後方へと跳ぶ。その動きに呼応するかのように、石畳が雷光を帯び、火花が弾ける。
着地と同時に、蒼白い雷光がその手に集束した。
「雷霆剣!」
雷鳴のような響きとともに、ノーラの手に現れた刃。稲妻を宿したその剣は、まるで天を貫く雷そのもののように煌めく。
しかし——
「速いわね。でも……まだ甘い」
イザベラは、楽しげに微笑む。
ノーラは即座に次の手を繰り出した。
「雷鎖閃!」
雷の鎖が瞬時に奔り、イザベラの足元を絡め取らんとする。
だが——
イザベラは一歩も動かず、それを見下ろした。
「……なるほど。なかなかやるじゃない」
その言葉とともに、雷の鎖が触れる刹那——
空気が捻れる。
雷鎖が確かに捕えたはずの足元には、何の抵抗もなかった。
影が消え、そして——
"別の場所"にいた。
ノーラの目が、鋭く細められる。
(また……瞬時に位置を?)
しかし、攻撃の手は止めない。
「雷閃突!」
雷を纏った突きが、一直線にイザベラへと伸びる。
今度こそ——
確実に、捉えた。
そう確信した瞬間——イザベラは、上体をわずかに逸らした。
刹那の間合い。
雷の軌跡が、彼女の頬をかすめる。
しかし、それだけだった。
ノーラの一撃は、紙一重で外れた。
夜の静寂に、雷の余韻がかすかに震える。
イザベラは、微笑んだまま、静かにノーラを見つめていた。
「悪くない。でも——」
ノーラは、歯を食いしばる。
(避けた……?違う、"予見"した!?)
イザベラの掌が、ゆるりと掲げられる。
「神経遮断術式——」
その動作は、まるで夜の闇を手繰り寄せる魔女の所作にも似ていた。やわらかく漂う月光が、彼女の指先をかすかに照らし、闇に溶け込むように揺らめく。
そして——空間が波打つ。
透明な水面に小石を落としたように、夜の帳がひずみ、ゆっくりと広がる。
「はい——おしまい」
その言葉が響いた瞬間、雷霆の奔流は、一瞬にして鉛色の霧に絡め取られたかのように、その躍動を失い、まるで時間の淀みに引き込まれるように鈍重に変質していった。
それまで身体を巡っていた魔導の流れが急激に滞り、ノーラは自らの力が自分のものではなくなっていく錯覚を覚える。
「っ……!?」
その一瞬の動揺を、イザベラは見逃さなかった。
彼女の影は、まるで月光の下に流れ込む影法師のように歪み、静かに揺れながら、一瞬のうちにノーラの背後へと入り込んだ。
そして——
冷たい指が、首筋を掴んだ。
「素質は素晴らしいんだけど……」
囁きは、甘く絡みつく絹糸のように、意識の奥深くまで染み込んでいくが、その響きは氷刃のように鋭く、決して温もりを帯びることはなかった。
「まだまだ心も体も、お子様ね」
まるで慈しむかのような、しかし嘲るような声が、ノーラの耳元で柔らかく響く。
ノーラは全力で抵抗しようとする。しかし、すでに手遅れだった。
意識ははっきりしているのに、体が応じない。
雷の奔流は、見えざる鎖に絡め取られたかのように滞り、まるで呼吸のように自然に流れていたはずの魔力が、今は遠い異国の霧の中へと消え去ったかのように、まったく掴めない。
「これは……魔導抑制……!?」
震える声に、イザベラは満足げに微笑む。
「さすが皇女様ね、察しがいい。でも、もう遅いわ」
ノーラの視界が、じわりと滲む。
力が、抜けていく。
(私は……ここで……)
意識が沈む直前、最後に聞こえたのは、氷のように冷えた声だった。
「おやすみなさい、お姫さま」
夜風が吹き抜け、藤の花が音もなく揺れる。淡い月光の下、花弁が静かに舞い落ち、その光景はまるで遠い夢の記憶のように儚く、そして絶対的な現実として、ノーラの意識を闇の中へと引きずり込んでいった。
❖ 恵一 & 浅井 & 美寛 & 舞陽 & 秋菜 & 久美 ❖
夜の帝都を歩く六人の影。
錦栄通りでの優雅な買い物、紫雲楼での静かなティータイム。その余韻を胸に、彼らは軽やかな足取りで帰路についていた。
「いやー、あの店、思った以上によかったよな」
浅井が両手を後ろに組み、満足げに息をついた。
夜の帝都は、静謐な光の海だった。舗道に敷き詰められた白磁の石畳が、街灯の柔らかな輝きを受けて淡く光り、並木の影が長く路面に伸びる。遠くに連なる超高層ビル群のネオンが、夜空に虹彩のような残光を散らしていた。どこか遠くで、夜行バスの低いエンジン音が微かに響き、静寂の中に都会の鼓動を刻んでいる。
「まあね」
美寛が微笑みながら頷くと、久美が小さく肩をすくめる。
「でも、恵一だけは終始場違いな顔してたけど?」
彼女の視線が、恵一へと向けられる。
「まったくね。ティーカップ持つ手、震えてたわよ」
久美の口元がわずかに上がる。
「お前、どんだけ緊張してたんだよ」
浅井が笑い混じりに言うと、恵一はうなだれるようにため息をついた。
「……いや、だって、あのカップ、薄すぎるだろ。こんな高級そうなの割ったら、俺の人生終わるんじゃないかって思ってさ……」
苦々しく呟く彼の横顔に、街灯の明かりが淡く影を落とす。
夜風がそっと吹き抜け、並木の枝を揺らす。どこか遠くで、小さな電子広告が静かに点滅し、舗道には柔らかな光の反射がゆらめく。
このまま、何事もなく、ただ歩いていられる気がした。夜の涼しさと、ほんのり残る紅茶の香りが、心地よく喉を潤していく。仲間たちの笑い声が、どこか懐かしいもののように感じられた。
しかし、その穏やかな空気の中に、舞陽だけは微かに違和感を覚えていた。
ふと、舞陽は歩みを緩めた。
「……止まって」
その一言が、夜の空気をわずかに揺るがせた。
まるで黒い糸が背後から絡みつくように絡まりつき、決して離れることのない気配が、一定の距離を保ちながらまとわりつく。それは決して偶然ではなく、むしろ彼らの動きを先回りするかのような、意図的な動きだった。
「どうした?」
浅井が訝しげに振り向いた。
舞陽は静かに首を振り、周囲を見渡す。
「尾行されてる。複数いる。プロの動き」
美寛と浅井の表情が引き締まる。久美が周囲を確認するが、すぐに眉をひそめた。
「魔導の痕跡がほとんどない……通常の偽装ではないわね。これは、かなり高度なステルス魔導」
秋菜が僅かに目を細め、舞陽の視線が、通りの暗がりを鋭く探る。
この静かすぎる夜。
誰もが、すでに戦闘が避けられないことを理解していた。
「恵一、軍神の盾を展開して!!!」
舞陽の声は、夜の静寂を裂くように鋭く響いた。
恵一は一瞬戸惑いながらも、彼女の真剣な眼差しを見て即座に頷く。そして、両手を広げるように構えた瞬間、黄金の魔導障壁が展開され、空間を満たす魔導の圧が一気に高まる。
突然、夜の静寂が歪む。まるで見えない波が押し寄せたかのように、周囲の空気が不自然に揺らぎ——
次の瞬間、空間が裂けた。
闇の奥から、精妙な魔導の軌跡が幾筋も奔る。殺気を帯びた魔導刃が虚空を裂き、圧縮された魔力の塊が、寸分違わぬ正確さで迫る。
しかし、そのすべてを、黄金の障壁が完全に弾き返した。
軍神の盾。
魔導の閃光が炸裂し、衝撃の余波が空間を歪ませる。白磁の石畳が、雷光のような閃光を浴び、一瞬だけ夜の静寂を切り裂いた。
「……情報通りの鉄壁だな」
舗道の影がわずかに揺れ、そこから男の輪郭が浮かび上がる。鋭い眼光を黄金の障壁に向け、ウェストン・ヘイズが静かに前へと歩み出た。その背後には、黒衣に身を包んだFIAのエージェントたちがすでに陣形を取っていた。
「包囲しろ」
低く短い指示。
次の瞬間、エージェントたちは一斉に散開し、四方に魔導の気配が膨れ上がる。
「囲まれる……!?」
浅井が思わず声を上げる。FIAのエージェントたちは、一瞬の迷いもなく魔導を編み上げた。それは、狙撃と近接を自在に組み合わせた精緻な連携——純粋な殺意が形を成したものだった。
だが、舞陽はすでに次の手を読んでいた。
「恵一、アイギスを維持してみんなをカバーして。秋菜、久美、美寛、浅井はアイギスに隠れながら、安全なタイミングで攻撃して!」
この戦場には、一点だけ絶対に崩されることのない領域が存在する。
軍神の盾。
黄金の障壁が、帝都の闇の中で静かに脈動していた。どれほど強力な術式も、この防壁を貫くことはできない。
ならば——
守るだけではなく、防壁を基点に攻める。アイギスの内側から閃光のように攻撃を仕掛け、反撃の余地を与えぬまま再び防壁の影へと身を潜める。
一瞬だけ戦場に姿を晒し、敵を削り、再び無傷の領域へと退避する。
それは、圧倒的な防御を利用した、一方的な戦闘。
防御と攻撃を完璧に使い分ける戦術——ヒットアンドラン。
闇の中、敵の術式が疾走し、鋭い刃のごとく夜気を切り裂いた。しかし、そのすべては黄金の障壁に弾かれ、光の残滓となって霧散する。
黄金の障壁が揺るがぬ限り、戦場は支配されていた。
FIAのエージェントたちは、息を合わせるように術式を展開する。音すら持たぬ魔導刃が空を裂き、圧縮された魔力が歪んだ波動となって標的へと降り注ぐ。
しかし、黄金の障壁が、すべてを遮断した。
「っ……ぐふぅ……!」
恵一の肩がわずかに沈む。衝撃の余波が空間を震わせ、アイギスが静かに脈動する。
しかし、その両脚は揺るがず、大地を捉えていた。
エージェントたちは、一瞬の躊躇を見せた。
「今!」
舞陽の声音は鋭く、静寂を切り裂く刃のごとく戦場を支配した。
刹那、浅井と美寛が疾駆する。浅井が瓦礫を蹴り上げると、火花のような魔導閃光が闇を貫いた。
「爪環剣!!!」
白い閃光が弾ける。瞬間、敵陣の視界が焼かれ、影が一斉に揺らめいた。
「っ……!」
エージェントたちの動きが、一瞬、鈍る。
美寛の影が、音もなく忍び寄る。その掌が魔導を纏い、鋭く閃いた。手刀の一閃が空間を切り裂き、敵陣の秩序に小さな亀裂を穿つ。
秋菜の浄化魔導が、敵の魔導干渉を削ぎ、久美の詠唱が相手の動きを鈍らせる。戦場は、じわじわと彼女たちの制圧領域へと変わっていった。
エージェントたちの連携が、ほころび始める。
ウェストンは眉間の皺を深め、拳を固く握った。
「チッ……やっぱり軍神の盾が厄介すぎるな」
彼の視線の先――桂澤恵一は、微動だにせずそこに立っていた。
敗因は、誤算だった。
未知の才能を持っているとはいえ、「たかが高校生」と侮っていた。しかし――この魔導防壁は、あまりにも異常すぎた。
雷撃も、衝撃波も、魔導の刃も、軍神の盾の前に、すべてが空気のように掻き消える。まるで、それらが初めから存在しなかったかのように。
ウェストンの配下、精鋭エージェントたちは、次々とその防壁の前に沈黙を強いられた。戦場は膠着し、時間が敵に味方し始めていた。
「……クソッ、実力を見誤った」
低く呟くと、ウェストンは即座に撤退を決断する。
「影に戻れ」
その一言で、エージェントたちは瞬く間に闇へと溶けた。彼自身もまた、影の帳の中へと消え去る。
戦場は、凍てついた静寂の中で揺れていた。だが――それを許す気配は、ここには存在しなかった。
「逃がすか!」
浅井の叫びが、戦場の空気を切り裂く。だが、その声が響く間に、影はすでに霧散しつつあった。
彼は前へと踏み出す。
しかし、それを制したのは、一つの静かな手の動きだった。
「深追いはダメよ」
舞陽の声は、戦場に漂う冷気を凪がせるかのようだった。彼女の指先がわずかに持ち上がる。それだけで、浅井は動きを止めた。
拳を握りしめ、歯を食いしばる。
「……チッ」
彼の苛立ちが、足元の瓦礫を蹴る音とともに闇へと消える。
――敵は去った。
夜の風がゆるやかに舞い、冷たく湿った重さを孕んでいた。その肌寒さは、まるで嵐の前触れのように、彼らの背筋を僅かに震わせる。
焦げた瓦礫の匂いと、魔導の残滓が滲む戦場の空気。その中で、胸の奥に響くのは、いまだ緊張を孕んだ鼓動の余韻だった。
戦いは終わった――少なくとも、そう思えた。
秋菜は深く息を吐いたが、胸の奥に生じたざわつきは収まることなく広がっていく。気づけば指先が無意識に端末を握りしめていた。やがてその予感は、次第に確信へと形を変えていく。
「ノーラは無事?」
夜の静寂に、その言葉が溶けていった。
突如として襲いかかってきた敵勢力――ウェストン率いるエージェントたちとの戦闘の余韻が、まだ戦場には色濃く残っていた。焦げた瓦礫の匂い、魔導の残滓が滲む夜の空気、緊張に満ちた鼓動の余韻。
秋菜は素早く通信端末を操作し、指先のかすかな震えを感じながら、ノーラへと接続を試みた。
だが――
「……繋がらない?」
秋菜は画面を睨みつけた。通常なら表示されるはずの信号強度も、応答待ちのインジケーターも、そこにはなかった。まるで、最初から存在しない相手に接続しようとしているかのように。
「ちょっと待って……もう一度」
秋菜は再び接続を試みる。指先が無意識に強く画面を押し込み、端末の振動が手のひらに微かな刺激を残す。しかし――結果は変わらない。
「ダメ……ノーラの通信が完全に沈黙してる」
舞陽が端末を覗き込む。淡々としたその目が、画面の異常を冷徹に分析するかのように細められた。わずかに眉間の筋肉が緊張する。
「ノーラに……何かあったの?」
秋菜の呟きが、凍える夜気に吸い込まれる。誰もが、その言葉の持つ意味を理解していた。
「くそっ……!」
浅井の拳が硬く握られた。指の関節が白くなるほどに力がこもり、足元の瓦礫を蹴る音が夜気に微かに響いた。その苛立ちは、目の前に立ち塞がる不可解な沈黙への焦燥と化していた。
美寛も、珍しく冗談を飛ばす余裕を見せず、唇を噛んだ。
「ノーラがこんな簡単にやられるわけないよね……?」
自分に言い聞かせるような声だった。
夜風が流れ込む。ひやりとした感触が皮膚を撫でるが、それはただの寒気とは異なっていた。どこか湿り気を帯び、次第に強まるような――遠くで蠢く見えざる気配が、風のざわめきに混じっていた。
そして、その気配が何をもたらすのか――まだ、誰にも分からなかった。