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官能と陰謀の狭間で

 ❖ イザベラ ❖


帝都の摩天楼は、漆黒の空に無数の星を模した灯を散りばめ、静かに瞬いていた。下界には、煌々と輝くネオンの洪水が広がり、高層道路を駆ける自動車のヘッドライトが、白金色の軌跡を描きながら交錯していく。

スイートルームの大窓に映るその光景は、まるで帝国そのもののようだった。華やかで、冷たく、支配されることを当然とする秩序の都市。

だが、その中心で、何も知らぬまま転がされている男がいた。


──南雲正義。


帝国保安局作戦指導局次長。その肩書きは立派だが、今の彼はただの間抜けな豚に過ぎない。

シーツの中に横たわる南雲は、熟れた果実が地面に落ちて弛緩したような顔で、満ち足りた寝息を立てていた。浅黒く脂ぎった肌は寝汗にしっとりと濡れ、鼻孔は無防備に開ききっている。唇が半開きになり、口元には未練がましく涎の跡が光っていた。おそらく、夢の中でも彼は悦に浸っているのだろう。


──成功した。これで完全にオレのものだ、と。


「……はぁ。もっと上等な相手はいないのかしら?」

シーツを無造作にまとったまま、イザベラ・モンテーロはベッドヘッドに凭れ、冷めた笑みを浮かべた。彼女の裸身は、なまじの芸術品よりも鮮烈な美を宿しているが、その瞳に宿るのは冷たい鋼の光。

彼女は足を組み替え、南雲の額にそっと指を這わせた。感性力(ジンリヒカイト)が滑らかに魔導波を紡ぎ、彼の知覚とイザベラのそれが同期する。


──《視界共有術式》。


意識を奪われた男の眼を通して、帝国の機密が流れ込んでくる。軍事機密、諜報網、作戦計画、暗殺リスト──。全てが、イザベラの瞳に映し出された。


「本当に、笑っちゃうわね」

ベッドヘッドに凭れたまま、イザベラは微かに肩をすくめ、テーブルの上の小さな箱から一本のシガリロを取り出した。細く繊細な葉巻。キューバ産の最高級品。彼女が指先で転がしながら咥えると、デュポンのライターがピン、と張り詰めた音を立てた。


火が灯る。紫煙がゆっくりと立ち上り、スイートルームの甘やかな闇に溶け込んでいく。


──これこそが、FIAのエースとして名を馳せる彼女の流儀だった。


帝国の誇る公安機構の幹部が、女ひとつ手に入れたと浮かれている間に、すべてを失う。彼らは「何も喋らず、何も渡さず、決して売国もしない」まま、情報を抜き取られ続けていることにすら気づかない。

イザベラは南雲の記憶から慎重に欲しい情報だけを掠め取ると、指を額から離し、ベッドを抜け出した。

裸足の足裏が、厚いカーペットに沈む。


ゆったりとした仕草で、ドレッサーに置かれた小さなガラス瓶を手に取った。


「ウード・サテン・ムード」。

アジアの神秘を纏う沈香が溶け込み、甘美でありながらどこか冷酷な余韻を残す香り。一滴、手首に落とし、ゆっくりと馴染ませる。


ローズの華やかさとバニラの柔らかい甘さが、ウードの濃厚な余韻に溶け、スイートルームの空気を塗り替えていく。シガリロのスモーキーな苦味と絡み合い、濃密で官能的な夜の気配を生み出した。


窓の外に広がる夜景を一瞥する。

「……退屈な男たち」


彼女はシーツを払い、バスローブを羽織った。

その動きは、流れる水のように滑らかで、冷たい鋼の刃のように無駄がない。

イザベラ・モンテーロ――FIAが誇る「ブラック・ヴィーナス」。


彼女が微笑めば、どんな男も彼女の毒に侵される。

彼女が囁けば、どんな国家機密も、その唇の奥に消えていく。

彼女が、帝都に潜んでいることすら知らぬままに。


イザベラはネオンに照らされた夜景を眺めながら、ゆっくりと口角を上げた。

煙草の先に残る赤い火が、まるで獲物を見つけた捕食者の瞳のように微かに揺れる。


「さて……次の標的は……」


彼女は静かに端末を開く。

薄暗い画面の中、ひとつの写真が映し出された。


──帝都・白金魔導学園の制服に身を包んだ、一人の少女。


凛とした佇まい、知性を宿した瞳。

まるで、今までの標的とは違う何かを予感させる存在感。

イザベラは指先で画面をなぞる。


「へぇ……可愛い顔してるじゃない」

微笑の奥に、狡猾な計算と冷たい興味が滲んでいた。



 ❖ ウェストン ❖


帝都エリア1(旧新宿区)――。


繁華街の華やかな光が届かぬ裏通り。夜闇に沈むような一角に、それはあった。

表向きは廃業した倉庫。だが、扉の向こうでは、国家すらも凌駕する取引が交わされている。無造作に開かれた鉄の扉をくぐると、重く淀んだ空気が肌にまとわりついた。

葉巻とアルコールの濃厚な香り。その奥に、微かに漂う鉄と血の匂い。鈍い蛍光灯が天井にぶら下がり、長年の煙草の煙に黄ばみ、くすんでいる。

この空間が何年もの間、暴力と裏取引の巣窟であったことは、語らずとも知れた。

鉄製のテーブルの向こう、どっしりと構えた巨体の男が葉巻を燻らせ、静かに笑う。


──「常川会」。


帝都裏社会の闇を牛耳る古参組織。そして、その長が、目の前で葉巻を燻らせていた。


鬼塚(おにづか)源一郎(げんいちろう)


背中に刻まれた龍の刺青、分厚い胸板を覆う特注のスーツ。指にはめた金のリングが、黄ばんだ蛍光灯の下で鈍く光る。腕には幾つもの傷跡が刻まれ、長年の修羅場をくぐり抜けた証となっている。

鬼塚は、鉄製のテーブルに肘をつきながら、ウェストンを見据えた。まるで、目の前の獲物がどんな味か品定めするような眼光。


対するウェストンは、どこまでも無造作だった。

カウボーイハットに革のジャケット、ブーツの先にうっすらと泥。それが、西部の荒野を渡り歩いてきた男の証。

ネクタイは締めない。スーツも着ない。だが、戦場を知る男の目だけは、どこまでも冷静だった。

ウェストンは帽子のつばを指で傾け、椅子に腰掛ける。無造作に葉巻の煙を払いながら、簡潔に切り出した。


「あんたのシマで、連邦が動きたがってる。俺はその仲介をしてやるだけだ」

ウェストンの声は低く、揺らぎがない。


カウボーイハットの影が彼の表情を半分覆い、蛍光灯の下で片目だけが鋭く光った。鉄と油の臭いが混じる薄暗い部屋の中で、言葉はまるで鋼鉄の弾丸のように響いた。

鬼塚は無言で葉巻を咥え、煙を細く吹き出した。わずかに目を細め、ウェストンを観察する。


「帝都の裏社会は、これから先もっと厳しくなる。だが、連邦と繋がっていれば――」

「結構だ」

鬼塚は葉巻を指で弾き、灰皿に落とした。手慣れた仕草。そこに迷いはない。

「確かに、時代は変わる……だがな、俺たちがアメ公の下請けになる時代は来ねぇ」


鉄製のテーブルの表面には、幾多の銃弾の傷跡が刻まれていた。ここで交わされた取引の数、裏切りの数、死んでいった男たちの数――すべてが、この場に染みついていた。


ウェストンは短く鼻で笑う。

「あんたら、帝国の公安がどれだけヤクザを締め上げてるか、わかってるか?」


鬼塚は葉巻をゆっくりと咥え直し、灰を落とす。まるで、どうでもいい話を聞かされているような仕草だった。

「知ってるさ。だが、それでも俺たちは帝国のルールで生きていく。アメ公の都合に合わせる義理はねぇ」


煙がゆっくりと天井へと昇り、蛍光灯の光がその隙間に滲む。鬼塚の指が、葉巻を転がすように軽く弾いた。


「なあ、知ってるか?」

彼の口元が、わずかに歪んだ。

「少し前まで、この辺りにはロス・エクィスって組織があった。噂じゃ、お前らアメ公が後ろ盾になってたらしいな」


ウェストンは黙って聞いていた。


「だが、一夜にして首領は消息を絶ち、組織は壊滅した。俺の勘が言ってる――もしあいつらが、お前らと繋がってなけりゃ、ここまで呆気なく潰されることはなかったはずだ」

葉巻の火が僅かに揺れ、煙が滞空する。鬼塚は、ウェストンの目をじっと覗き込むように言った。


「連邦がくれる資金や武器がどれだけ魅力的でもな、最後に血を流すのは俺たちだ。ロス・エクィスの時みてぇにな。派手に暴れさせといて、都合が悪くなりゃトカゲの尻尾切り――違うか?」

ウェストンは静かに葉巻を咥え直す。

鬼塚は続ける。

「抗争ってのは、勝ったか負けたかじゃねぇ。誰が何を得て、誰が何を失うか――そこが肝心だ。お前らはいつも、安全圏から火を焚きつけ、鉄砲玉を前に押し出し、好きなだけ戦わせる。燃え上がった戦場の隅で、自分たちは煙一つ被らず、戦利品だけをかっさらう。だが、薪が燃え尽きたら、残るのは灰だけだ。用が済んだ鉄砲玉は、煙の向こうで捨てられる。……ロス・エクィスの最後を見て、俺はそう学んだよ」


ウェストンは短く息を吐いた。

「何を今さら。俺たちを善人とでも思ったか? 戦いに道徳なんてない。武器も金も出してやる。後は、お前たち次第だ――使うか、使われるか」


鬼塚は、僅かに肩をすくめた。

「へぇ……アメ公にしちゃ正直なもんだな。てっきり、お前も綺麗事を並べて誤魔化すタイプかと思ってたぜ」


葉巻の煙がゆっくりと滞空し、部屋の空気が重くなる。

「だがな、俺はお前らのお得意様になるつもりはねぇ。目先の札束に飛びついて、気づいた時には首が締まってた――そんなマヌケな真似はごめんだ」

鬼塚は、葉巻の灰を指先で弾いた。火のついた先端が淡く光り、灰皿の上に落ちる。


ウェストンは短く息を吐き、葉巻を口元へ運んだ。燻る煙がゆっくりと揺れ、蛍光灯の下で薄く滲む。

「なるほどな」

静かな言葉が、部屋の冷えた空気に溶ける。


ウェストンはゆっくりと立ち上がり、ハットのつばを指で軽く押し上げると、無造作に背を向けた。

「だったら、話はここまでだ」


蛍光灯の鈍い光が、二人の影を歪ませる。ウェストンの靴音がコンクリートの床を打ち、響く。


だが、扉へ向かう前に――


カチリ。


乾いた音が、張り詰めた空気を裂いた。


ウェストンの足が止まる。

視線を巡らせると、組員たちが無言のまま取り囲んでいた。拳銃、ナイフ、鉄パイプ。それぞれの武器が、鈍い蛍光灯の光を受けて冷たく光る。


鬼塚は、ゆっくりと椅子に沈み込みながら腕を組んだ。

「悪いな」


低く、静かな声。

「俺の経験が言ってる――お前は、生かしちゃいけねぇ男だ」


葉巻の火が僅かに揺れ、白煙が細く伸びる。

「ここで生かして帰せば、いずれ俺たちの首を獲りに来る。そういう匂いがする」


鬼塚の目が細められた。

「だから、悪いが……ここで死んでもらうぜ」


──「……やれ」


その言葉が落ちた瞬間、組員たちが一斉に武器を構えた。


──ウェストンは、笑った。


まるで、子供の遊びを見ているかのような、薄い笑いだった。


Hell on(ヘル・オン・) Wheels (ホイールズ)!!!!」

ウェストンの指が軽く動いた瞬間、空気が震えた。


銃声の代わりに、赤銅色の魔導の閃光が空間を裂いた。


──一瞬。いや、それすらなかった。


ウェストンの魔導は、まるで暴走する蒸気機関車の衝突のように、無駄なく、容赦なく炸裂した。組員たちの武器が空中で弾け飛び、衝撃に飲まれた男たちは壁に叩きつけられる。


Dead Man’s(デッドマンズ) Hand(・ハンド)!!!!」

ウェストンの指が再び動く。


まるで見えない銃弾のように、魔導弾が組員の喉を貫く。短い悲鳴すら許されず、沈黙が広がった。


──たった数秒。


そこには、鬼塚ただ一人が取り残されていた。

椅子に座ったまま、まるで時間が止まったように動けない。

ウェストンは、静かに組長の前に歩み寄った。

銃口の代わりに、彼の指先がまだ微かに残る魔導の余熱を帯びていた。


「……俺の経験が言ってるぜ」

ポケットから煙草を取り出し、無造作に咥える。


「俺を生かしておいたほうがよかった、ってな」


カチリ。


古びた安物のオイルライターが、静寂の中で小さな音を立てた。


ウェストンは煙をくゆらせ、組長を一瞥すると、ゆっくりとアジトを後にした。

外の空気は、帝都のネオンの熱を帯びていた。


「……仕事が終わったら、バーボンだ」

彼の背後で、静かに夜が沈んでいく。

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