ある夏の日曜日
夏の陽射しがアスファルトを焼き、熱気が足元から立ち昇る。セミの声が遠くで鳴き、通りを行き交う人々はそれぞれの休日を楽しんでいるようだった。しかし、そんな風景とは裏腹に、恵一の心臓は鼓動を速め、手汗は止まる気配を見せない。
彼は、震える指先でシャツの裾を軽く握りながら、目的の店へと足を進めていた。
街の小さなカフェ——そのオシャレな店構えが、彼の緊張を一層高める。
黒い鉄枠のガラス扉、センス良く飾られた緑のツタ。外観だけでも場違いな気がして、思わず足が止まる。入り口の前に立ち尽くし、息を深く吸い込む。
「大丈夫……今日の俺ならイケる……はず……」
心の中で必死に自分を鼓舞しながら、恵一は深く息を吸い込んだ。胸の奥まで冷たい空気を満たし、じわりと滲む手汗をズボンで拭う。それでも鼓動の高鳴りは止まらない。
震える指先で扉の取っ手を掴む。
そして、意を決してドアを押し開けた。
——その瞬間、ゆるやかな光のベールが視界を覆う。
カフェの奥、窓から差し込む柔らかな陽光の中に、秋菜の姿があった。
涼しげな白いワンピースをまとい、カウンター越しの光を浴びながら微笑んでいる。
白い生地が光を透かし、淡く輪郭を縁取る。指先がそっとグラスを撫でるたびに、氷が揺れてカランと澄んだ音を立てた。
いつもは制服姿の彼女。しかし、今日の彼女は違った。清楚な白が、彼女の穏やかな雰囲気をより引き立て、窓から差し込む光が、淡くそのシルエットを縁取る。髪はいつもより柔らかく揺れ、細い指がメニューを弄んでいる。
それは、見慣れたはずの彼女のはずなのに、まるで別人のように思えた。
「お、お待たせしました! あっ、いや、してない!! えっと、俺が……その、早く来すぎただけで……す、すみません!!」
謎の謝罪を口走る。自分でも何を言っているのかわからない。ただ、彼女の前に立っているという現実に耐えきれず、とりあえず謝罪しておくことにした。
「ふふ、そんなに緊張しなくてもいいのに」
秋菜が微笑む。
その瞬間、恵一の顔は一気に真っ赤に染まり、声が裏返る。
「べ、別に緊張とかしてないし!? いつも通りだし!? これが俺の標準装備だし!?!?」
誤魔化そうとするほど、言葉が空回りする。
手元のグラスを無意味にいじり、氷がカランと音を立てる。
秋菜は、そんな恵一の様子をじっと見つめた後、少し驚いたように呟く。
「桂澤君って、なんか……いつもと全然違うね」
「そ、そうかな!? いやいや、これがいつもの俺だから! うん、むしろ普通に接してくれて全然いいし! 俺だって普通に……その、女の子と遊んだりとかするし……二次元限定だけど」
——言った瞬間、恵一は絶望した。
(言っちゃダメなやつだ!!)
自分の失言を理解した瞬間、心の中で崩れ落ちる。
話題を変えなければ、いや、この場から消えたい——!
「そ、それよりさ! 今日の服、すごく似合ってるよ!」
慌てて口を開く。
「いや、すごくとか言うとキモいかな? でも、ホントに似合ってると思う! その……まるで『地味カノ』の琴羽先輩みたいな……!」
——またやらかした。
秋菜が一瞬、目を瞬かせる。
「『地味カノ』の……琴羽先輩?」
戸惑いながらも、恵一の言葉を受け止め、頬をわずかに赤らめる。
「な、何のことか分からないけど、褒めてるのかな……恥ずかしいよ……」
「そ、そうだよね! こっちが恥ずかしいよね! いやいや、俺が悪いんだ! なんかホントにごめん!」
恵一が頭を下げるたびに、その後ろ姿が余計に滑稽に映る。
秋菜は、そんな恵一を見て、思わず小さく笑った。
「そ、そっか……えっと、じゃあ座ろうか?」
彼女もまた、いつもと違う雰囲気に戸惑っているのか、ぎこちなく椅子を勧める。
二人が席につくと、テーブルの上に広がるのは気まずい沈黙だった。
店内には心地よいジャズが流れ、カウンターではバリスタが静かにコーヒーを淹れている。大きな窓から差し込む午後の日差しが、白いテーブルクロスに柔らかな影を落とし、グラスの縁を淡く輝かせていた。けれど、そんな穏やかな空間とは裏腹に、恵一の鼓動は速まり、手元のメニューがやけに遠く感じられた。
何か話さなくては。
しかし、考えれば考えるほど言葉はまとまらず、喉が渇くばかりだった。
「えっと、あの、こういうカフェとか、普段来るの?」
ようやく絞り出した言葉が、緊張で少し上ずる。
秋菜は瞬きを一つして、グラスの縁を指先でなぞった。
「いや、そんなことないよ。その……今日は特別だから……」
彼女の頬がかすかに赤く染まり、視線が少し泳ぐ。
「特別……」
恵一もその言葉に反応してしまい、目をそらす。何か返さなきゃと思うが、緊張で頭が真っ白だ。
「そ、そうだ! メニュー、決めようか!」
唐突に秋菜がメニューを手に取る。その仕草には、どこか気まずさを誤魔化そうとする意図が見えた。
「そうだね! 何にする?」
慌てて恵一もメニューに目を落とすが、文字が頭に入ってこない。
「うーん、私は……あ、これ。夏限定の抹茶タルトにしようかな!」
秋菜がメニューの一角を指さし、少し嬉しそうに微笑む。
「じゃ、じゃあ俺も同じのにしようかな!」
咄嗟にそう答えた瞬間、秋菜がくすっと笑った。
「真似っこじゃん」
「えっ、いや、その、なんか……おいしそうだったからさ!」
焦ったように言い訳を重ねる恵一の様子を見て、秋菜は小さく笑った。その声音はどこか楽しげで、けれどひどく優しい響きを持っていた。
窓から差し込む午後の日差しが、彼女の白いワンピースの襞を淡く照らす。細い指先がグラスの縁をなぞり、冷たい水滴が肌に滲む。
「なんか……変な感じだね。普段、学校で話してるときと全然違う」
秋菜の声は、どこか戸惑いを含んでいた。けれど、その言葉の奥には、微かな熱が宿っているようにも思えた。
「う、うん、そうだね。なんか……デートって、こういうものなんだなって」
思わず口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。
デート——その単語の響きが、妙に生々しく感じられる。秋菜が驚いたように目を見開いた。頬がみるみるうちに朱に染まり、視線がわずかに揺れる。
「デートって……言わないでよ。恥ずかしいじゃん」
視線が揺れる。指先がグラスをきゅっと握る。
「ご、ごめん!」
恵一もまた、慌てて目をそらした。
ふたりの間に流れる沈黙。
けれど、それは決して気まずいものではなかった。
風がカーテンを揺らし、陽射しがゆっくりと傾いていく。
互いの視線が交わる——ふっと、同時に笑いがこぼれた。
空気がわずかに弛緩し、恵一の頬にこもっていた熱も、ゆるやかに溶けていくようだった。
やがて、注文した抹茶タルトが運ばれてきた。淡い緑のクリームが光を柔らかく反射し、その上には金箔が控えめに散りばめられている。香ばしい香りがテーブルに満ち、二人の間に漂う微妙な緊張感をかすかに和らげた。
「これ、すごくおいしそうだね!」
秋菜がフォークを手にしながら、嬉しそうにタルトを眺める。彼女の声はほんの少し弾んでいて、その無邪気な響きが恵一の硬くなった肩を僅かに緩ませた。
「あっ、そ、そうだ! せ、先に食べてみてよ!! ど、どう!? どんな感じ!?!?」
恵一が促すと、秋菜は少し恥ずかしそうに視線を落とし、そっとタルトを一口含んだ。
「うん、おいしい! これ、当たりだね!」
フォークを口元に添えたまま、秋菜が笑う。抹茶のほろ苦さとクリームの甘さが絶妙に溶け合う。
その表情を見て、恵一は思わず胸を撫で下ろしながら、自分のフォークを口へと運んだ。
しかし、タルトの甘さが舌の上で広がる間もなく、彼の心には別の疑問がよぎる。
「で、でもさぁ、なんで俺なんかと?」
カフェのテーブル越しに秋菜を見つめながら、半ば自嘲気味に尋ねた。指先でグラスの縁をなぞり、どこか落ち着かない仕草がにじむ。
秋菜は一瞬、何かを考えるように視線を落とし、フォークを指の間でくるくると回した。
「桂澤君って……強いし」
迷いながらも紡がれた言葉は、静かなカフェの中でははっきりと恵一の耳に届いた。その響きが妙に現実味を持って感じられ、恵一は思わずタルトを口に運ぶ途中で固まる。ゆっくりとフォークを皿に戻し、戸惑いの色を浮かべたまま秋菜を見る。
「つ、強いって、俺のこと? いやいや、それはちょっと……」
照れと戸惑いの入り混じった半笑いが、自然と口元に浮かぶ。彼は視線を秋菜からそらし、テーブルの模様をじっと見つめる。
「守るのだけは得意だし……それだけ」
呟くように言ったその言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。
秋菜はフォークをそっと皿の上に置き、僅かに伏し目がちに、小さな声で続けた。
「でも、それがすごいと思うよ。みんなの前で堂々とできるのって、普通じゃないもん」
その声には、迷いもためらいもなかった。
抹茶の香りがふわりと鼻をかすめる。外では風がカーテンを揺らし、午後の日差しが柔らかく傾き始めていた。
「堂々と……?」
恵一は顔を上げ、驚いたような表情で秋菜を見た。
その目は、自分とは無縁の言葉を聞かされたかのように困惑している。
「俺、堂々なんてしてないけどな。むしろ、いつもビビってるし、ガクブルだし……」
自嘲気味に笑いながら頭を掻く。その仕草には、どこか居心地の悪さを誤魔化そうとする意図が見え隠れしていた。
「そんなことないよ」
秋菜がふっと微笑む。
窓から差し込む陽射しが、彼女の白いワンピースの襞を柔らかく照らし、その笑顔を淡く縁取る。
まるで春の陽だまりのような微笑みだった。
恵一は、一瞬その光景に息を呑む。
視線を合わせるのが恥ずかしくなり、慌てて目をそらした。
胸の奥で、心臓が不規則に跳ねる。
「……あ、ありがと……でも、そ、そんな風に言われると、逆にプレッシャーというか、えっと、な、なんか……ごめん……?」
恵一は照れ隠しのように笑いながら、髪をかき上げる。
視線を落としたまま、口をついて出た言葉を、自分でもうまく制御できていなかった。
「でも、まぁ、守れるって言ってくれるなら、それだけで俺は……」
言いかけた瞬間、秋菜が首を少し傾けた。
「それだけで、何?」
テーブル越しに、わずかに前へと身を寄せる。
彼女の動作が、ごく自然に距離を縮める。
「な、なんでもない!」
恵一は慌てて手を振る。
その拍子に、フォークが皿にコツンと当たる音が響いた。
顔は真っ赤に染まり、声が裏返る。
何かをごまかそうとするかのように、フォークを手に取るが、指先が微かに震えていた。
秋菜は、その様子を見てクスクスと笑った。
「桂澤君って、本当に面白いね」
その無邪気な笑い声が、妙にくすぐったく感じる。
恵一の顔はさらに赤くなり、耳の先まで熱を帯びていく。
視線を秋菜に戻せないまま、タルトをつつき続ける。
けれど、その不器用な仕草はどこか愛嬌があった。
ぎこちないまま始まったデート。
しかし、二人の距離は、確かに少しずつ縮まっていく。
夏の午後、カフェの片隅で過ごす初々しい時間は、周囲には秘密の、特別なものになりつつあった。
二人が席を立ち、カフェの扉を開けると、外の世界は眩い光に包まれていた。青く澄み渡った空の下、ビルの壁面が太陽を反射し、まるで白銀の刃のように煌めいている。アスファルトには木々の影が揺れ、時折吹く風が熱を和らげながら、どこか遠くで蝉の声が響いていた。
秋菜は先を歩きながら、時折振り返り、恵一の歩調に合わせる。彼女のワンピースの裾が風に揺れ、その白が光を受けてふんわりと浮かび上がる。恵一は、そんな彼女の横顔を見つめながら、そっと心の中に焼き付けた。
定番のデートコースを巡る中で、二人の距離は少しずつ縮まっていく。ゲームセンターでは、UFOキャッチャーに何度も挑戦した。あと少しのところで景品を逃し、秋菜は悔しそうに唇を尖らせる。
「えっ!? も、もう一回!? や、やってみる!? え、やるの!? いや、やるの!?」
そう提案すると、彼女は小さく首を振った。
「ううん、大丈夫!」
気丈に笑うが、その視線はまだ景品に向けられている。
ショッピングモールの雑貨屋では、ガラスケースの中に、小さな星形のペンダントが並んでいた。秋菜が立ち止まり、指先でそっとガラスをなぞる。
「ほら、見てこれ」
彼女が無邪気に言う。
「か、可愛いな……えっと、こういうの、好きなの……?」
「うん。でも、買うのはちょっと恥ずかしいかな……」
そう言いながら、秋菜は小さく微笑み、視線を落とした。
恵一は何も言わず、その店の名前をそっと記憶する。
やがて、歩き疲れた二人は広場のベンチに腰掛けた。噴水の水が陽を受けてきらきらと輝き、通りを行き交う人々のざわめきが、心地よいBGMのように響く。秋菜はスカートの裾を軽く直し、隣に座る恵一をちらりと見た。
「楽しかったね」
彼女の声は、どこか遠くの記憶を呼び覚ますような響きを持っていた。
「うん……なんか、夢みたいだな」
言葉にすることで、この時間が現実のものとして確かめられる気がした。
風がふわりと二人の間を通り抜ける。
噴水の水が陽光を受けて煌めき、広場の空気に涼やかな湿気を含ませている。青く澄み切った空の下、通りを行き交う人々のざわめきが波のように寄せては返し、その雑踏の中で、二人はゆるやかな沈黙を楽しんでいた。
しかし、その静寂は、突然の声によって破られる。
「申し訳ございません。来日したばかりで道に迷ってしまいまして……恐れ入りますが、帝都スカイタワーへの行き方を教えていただけますでしょうか?」
流れるような日本語だった。
その声音は、まるで清冽な泉のように澄んでいる。音のない波紋が空気に広がるかのように、広場に満ちる喧騒が遠のき、一瞬だけ時間が止まったような錯覚を覚えた。
恵一と秋菜が顔を上げる。
そして、視界に飛び込んできたのは、長い金髪の女性。
陽光を受け、淡く輝く黄金色の髪が肩にかかり、わずかな風にそよぐたびに、光の粒が散るように見えた。澄んだ碧眼が、冷たくも優雅な光を湛え、透き通るような白い肌が夏の陽射しを受けて柔らかに発光している。
彫刻のように整った顔立ち。長身でありながら、しなやかな体躯を持ち、シンプルなワンピースが彼女の気品を際立たせていた。その姿は、都会の喧騒の中にありながら、一切の雑音を拒絶し、まるで異国の幻想がそこに降り立ったかのようだった。
「えっ……あっ……」
そのあまりの美しさに、恵一は思わず声を詰まらせる。
「す、スカイタワーですか!? えっと、それは……」
完全にテンパっていた。
頭の中では地図が回転しているのに、口が全く動かない。
微笑をたたえたまま、彼女は恵一をじっと見つめていた。
その視線は、ただの興味や好奇心とは異なっていた。碧眼の奥底には、静かに揺らめく知性と、対象を丸ごと包み込むような、ねっとりとした観察の色が混じっている。まるで、獲物の一挙一動を見極める捕食者の目。あるいは、繊細な宝石細工を鑑定する職人の目——しかし、そのどちらとも違う、冷たくも甘やかな、曖昧な情念を孕んでいた。
まつわりつくような視線が、彼の顔を、首筋を、胸の奥までゆっくりと撫でていくようだった。
何も触れられていないのに、肌が熱を帯びる。
「なんと……これほどまでに卓越した感性力をお持ちの方にお会いするのは、私の国でも未だかつてございません」
静かに告げられた言葉が、恵一の鼓動を不規則に跳ねさせた。
「えっ……?」
聞き返す声はかすれ、口の中が急に乾いたように感じる。
「これほどの力をお持ちなのですから、さぞかしお強いお方なのでしょう」
彼女の声は驚くほど滑らかで、まるで肌を撫でる絹のように耳に柔らかく響いた。けれど、その言葉の意味を理解するよりも先に、恵一は彼女の視線に射すくめられていた。
目が合ったまま、逃れられない。
瞬きをするのすら躊躇われるほど、彼女の目は深く、吸い込まれそうなほどに静かだった。その瞳に映る自分の姿が、まるで異質な存在に思える。
動悸が速まる。
まるで、魂の奥深くを覗き込まれているような錯覚。
この女性は、ただの旅行者ではない。直感的にそう思った。
「いやいや、そんな……俺、全然強くなんかないし!」
慌てて手を振るが、言葉は妙に頼りなく響き、自分でも何を言っているのかよくわからなくなってくる。
彼女は依然として微笑んだまま、恵一を見つめていた。
恵一は、息が詰まるような居心地の悪さを感じた。
「…………」
言葉にはならない何かが、すぐ隣から恵一に向かって放たれていた。
横を向くと、そこには秋菜。
彼女の視線が、鋭く、しかし静かに突き刺さるように恵一の横顔を捉えていた。冷えた瞳の奥には、感情の渦が潜んでいる。そこに宿るものは、疑念か、それとも嫉妬か——あるいは、もっと曖昧で、もっと複雑な何か。
「私は……もし肌を重ね合わせるお相手を選ぶのであれば、そのお方は強き殿方であらねばなりません」
金髪の女性は、ごく自然に、まるで天候について語るかのような軽やかさで、それを口にした。
恵一の思考が、途端に凍りつく。
「ぐふぅっ!?」
無意識に発した声が間の抜けた響きを持ち、己の混乱を周囲にさらけ出す。喉が引きつり、言葉を継ごうとするが、舌が思うように動かない。
脳内では警報が鳴り響くが、適切な対処法はどこを探しても見つからない。額にじんわりと汗が滲み、手のひらがじっとりと湿る。
「ちょっと待ってください!!」
その時——鋭い声が、夏の空に高く響いた。
強い日差しの下、恵一の隣に立つ秋菜の肩が小さく震えていた。
「どなたか知りませんが、私たち、デートをしているので、邪魔しないでください!」
声はわずかに掠れていたが、それでも必死に絞り出したような響きがあった。彼女の頬は赤く染まり、視線は相手をまっすぐに捉えながらも、どこか恥ずかしさを滲ませていた。
女性は驚いたように、整った睫毛を瞬かせる。
数秒の沈黙の後、静かに微笑んだ。
そして、ゆるやかに首を垂れる。
「なるほど、お二人は恋人同士でいらっしゃるのですね」
柔らかな声が、静かに空気を鎮めるように広がった。
恵一は、未だ状況を整理しきれずに呆然と立ち尽くしていた。
その横で、秋菜は少しだけ胸を張り、唇をぎゅっと結んだまま、女性をじっと見つめていた。
女性の静かな謝罪が響いた後、短い沈黙が訪れる。
広場に広がる喧騒が、一瞬遠のいたように感じられた。陽光は相変わらず強く照りつけ、白い石畳を灼く。しかし、恵一の周囲の空気は妙にひんやりとしたものに変わっていた。
恵一はまだ呆然と立ち尽くしていたが、秋菜は違った。
「……次は、ないと思ってくださいね」
夏の熱気の中、秋菜の声が鋭く響く。
女性が瞬きをする。
「次?」
その碧眼が秋菜に向けられた。
さっきまでの柔らかな微笑はわずかに影を落とし、その奥には静かな興味——いや、ほんの少しの苛立ちが滲んでいた。
「ええ。もし次に会ったら……また桂澤君のことをエッチな目で見たら……そのときは、絶対に許しません」
秋菜の視線は揺るがなかった。
陽の光を受けて輝く瞳には、迷いも怯えもなく、ただ真っ直ぐな意思が宿っていた。
女性の指先が、一瞬だけピクリと動く。しかし、すぐに表情を整え、目を伏せる。
「そう……随分と強気ですね」
声は穏やかだが、微かな棘が滲んでいる。
しばらくの間、彼女は秋菜を見つめたまま、静かに呼吸を整えていた。
胸の奥でふつふつと湧き上がる感情を、押し殺すように。
女性の唇がわずかに動いた。
「……なるほど」
ゆっくりと手を胸の前に添えると、わずかに頭を下げる。
「私の無作法をお許しください。ご不快にさせてしまったのであれば、お詫び申し上げます」
その声には、どこか先ほどよりも落ち着いた響きがあった。
しかし、その奥には、どこか割り切れない感情が微かに揺らいでいるようにも見えた。
「またお会いすることがございましたら、その折にはどうぞよろしくお願いいたします」
淡く微笑むと、女性は優雅に踵を返した。
一歩、また一歩。
スカートの裾が揺れ、白い石畳の上にその姿がゆっくりと遠ざかっていく。しかし、去っていく背中は、どこか先ほどよりも硬く、歩調は微かに乱れていた。
それでも、振り返ることなく、人混みの中へと消えていった。
残された恵一は、未だに混乱から抜け出せずにいた。
「え、えっと……輿水氏?」
彼が声をかけると、秋菜はプイッとそっぽを向いた。
「もう知らない」
頬を膨らませた彼女の横顔が、夏の陽射しを受けて赤く染まっていた。
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そして翌日——
A組の教室の空気が、いつもとは違っていた。ざわつく声、囁き合う生徒たち。
その中心にいるのは、白金魔導学園の制服に身を包んだ、一人の少女。
「テウトニア第四帝国から交換留学で参りました。エレオノーレ・ルイーゼ・フォン・テウトニアと申します。ノーラと呼んでください」
涼やかで洗練された声が、静かな波紋のように教室を満たす。
その瞬間、秋菜の胸の奥で鼓動が大きく跳ねた。
彼女の視線が、教壇に立つ転入生を捉える。
——昨日、あの広場で出会った女性が、確かにそこにいた。
秋菜の顔から血の気が引いた。
思わず机の端を掴む手が震える。冷や汗が背筋を伝い、制服の内側にじっとりと湿った感覚が広がっていく。ノーラは、ゆったりとした動作で教室を見渡していた。その碧眼が迷いなく動き、秋菜の姿を見つけると、わずかに目を細める。
まるで、何かを確かめるように——
次の瞬間、彼女は微笑んだ。
「知り合いもいるみたいですし、学園生活を楽しみにしています」
教室のざわめきの中、その言葉は淡々とした挨拶のように響く。しかし、秋菜にはそうは聞こえなかった。
喉が引きつり、息をするのも苦しい。
——しまった……!!
ノーラの碧眼が、秋菜を真っ直ぐに捉えていた。その視線には、ただの挨拶以上の意味が込められている。
柔らかな微笑みの奥に潜むのは、穏やかさではなく、まるで秋菜の本質を見極めようとするかのような、冷ややかで探るような光。それは、昨日のやりとりを決して忘れていないことを、秋菜にだけ伝えるためのものだった。
背筋にじわりと冷たい汗が滲む。
——自分は、なんてことをしてしまったのか。
勇気を振り絞り、人生で初めて宣戦布告した相手が、まさか帝国の同盟国の王族だったなんて。軽率な発言の代償がどれほど大きいのか、今さらになって理解する。最悪、外交問題にすら発展しかねない。秋菜は己の軽率な行動を呪い、奥歯を噛みしめた。拳を握りしめる指先が白くなる。しかし、どれほど動揺したところで、時間を巻き戻すことなどできない。
一方、ノーラは秋菜の憂慮もどこ吹く風といった様子で、ゆるやかに微笑んだ。その微笑みは、上品で優雅。それでいて、どこか愉しんでいるようにも見える。秋菜の戸惑いを、焦燥を、困惑を、すべて観察し、味わい尽くすかのように。