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放課後の会話

体育祭の熱狂が過ぎ去り、季節はゆるやかに夏へと移り変わっていた。

教室には、穏やかな午後の陽光が降り注いでいる。窓際に掛けられたシルクのカーテンが、そよぐ風に優雅に揺れ、床には揺らめく影のレースが編まれていた。磨き上げられた白磁のタイルには、木漏れ日のような光が静かに反射し、室内の柔らかな輝きを演出する。

遠くから響くのは、蝉の声と、人工湖の水面を滑る噴水のしぶきの音。生け垣のラベンダーが夏の陽を浴び、微かな芳香が開け放たれた窓辺を満たしていた。吹き込む風には、夏草の青々しい香りと、手入れの行き届いた庭園から漂う水の涼やかさが交じり合い、灼熱の午後にほんのひとときの涼をもたらしている。

教室の片隅には、緻密な金箔装飾が施された魔導書が静かに積まれていた。革張りの表紙は光を受けて深みのある艶を帯び、羊皮紙の頁には繊細な魔法陣の刻印がほのかに輝きを宿している。そっと挟まれた栞の端が、翡翠色の淡い光を反射しながら微かに揺れた。風が通るたびに、古書の頁が控えめにめくれ、優美な時間の流れを告げるようにカサリと心地よい音を立てる。

休み時間の喧騒の中、A組の生徒たちはそれぞれに談笑し、魔導理論を語り合い、次の授業の準備を進めていた。制服の襟元を少し緩める者もいれば、扇子を仰ぎながら文献を広げる者もいる。静かで、しかし洗練された賑わいが、特権階級の学び舎らしい空気を作り出していた。


そんな中、教室の片隅で、秋菜と久美が机を寄せ合い、ささやくように話していた。


「ねえ、聞いた?」

秋菜が声を弾ませ、久美の方へ身を寄せる。

「我が国の盟友、テウトニア第四帝国のエレオノーレ・ルイーゼ・フォン・テウトニア皇女殿下が、交換留学生として学園にいらっしゃるそうよ」


陽光の下で、秋菜の瞳がきらりと輝く。夏の強い光が、彼女の長い髪を細かな金糸のように染めていた。しかし、その興奮をよそに、久美は腕を組み、つまらなそうにそっぽを向いた。

「……ふぅん。だから何よ」


「ちょっと、それだけ? あのテウトニアの皇女よ? しかも、美しさに加えて、学問と芸術にも秀でた才色兼備の象徴みたいな人なんだって」

秋菜は、どこか夢見るように窓の外を見つめる。夏の陽射しが白い校舎に反射し、遠くの噴水の水面がキラキラと煌めいていた。皇女の来訪に対する期待が、その表情にはっきりと表れていた。


しかし、久美は鼻を鳴らし、机の上で指をトントンと鳴らす。

「はぁ? だから何? どうせ政治がらみの特別待遇でしょ。みんなが騒ぐのもわかるけど、私には関係ないし、興味もないわ」


「本当は気になってるくせに~」

秋菜がくすりと笑いながらからかうと、久美の肩がピクリと揺れる。

「なっ……! そ、そんなわけないでしょ!」


彼女は慌てて顔を背けた。その瞬間――


ガラリ、と教室の扉が静かに開いた。


昼下がりの柔らかな光の中に、場違いなほど所在なさげな男の影が映る。


桂澤恵一。


窮屈そうに制服を着た彼は、扉の縁を掴み、目を泳がせながら、そわそわとA組の教室を覗き込んでいた。

A組の生徒たちは、一瞬だけ視線を向けたが、すぐに興味を失い、それぞれの談笑や読書へと戻る。


久美が眉をひそめた。

「……ちょっと、あんたA組になんの用?」


彼女の冷ややかな視線が恵一に突き刺さる。


秋菜も驚いたように目を瞬かせながら、しかし、微笑みを浮かべた。

「あら、今や学園でも噂の時の人。桂澤くん、珍しいわね。A組に顔を出すなんて」


恵一は、ぎこちなく喉を鳴らし、戸惑いがちに口を開いた。

「あ、あの……ちょっと京介氏に用があって……」


無意識のうちに手を擦り合わせる。彼の仕草には、自己防衛の名残があった。かつて、幾度となく繰り返された「場違いな空間に足を踏み入れてしまった」ことへの反射的な対処法――しかし、久美はその動きを見逃さなかった。僅かに鼻を鳴らし、じろりと睨む。


「ま、いいわ。それより、せっかくA組に来たんだし、ちょっと話していきなさいよ」

久美が腕を組み、口を尖らせながら恵一を呼び止めた。


「え、えぇ!? ちょっとって……な、なにを?」

不意を突かれた恵一は、思わず後ずさる。


「なにをって、あんたのことよ」


——逃げ場のない密室のような会話だった。


窓の外では、青空がどこまでも広がっている。白い雲がゆっくりと流れ、蝉の声が遠くで響く。夏の空気はどこか眩しく、そして容赦がなかった。


静寂を破ったのは、意外なほどに優しい声だった。


「ねえ、桂澤くんって、普段はどんなもの食べてるの?」

秋菜が小さな声で尋ねる。彼女の声音には、心なしかはにかんだような緊張が滲んでいた。


窓の外では、夏の陽射しが白く降り注いでいる。校庭の芝は太陽に焼かれ、乾いた土の香りが微かに教室まで届く。遠くの噴水が眩しく煌めき、水しぶきが風に乗ってきらきらと舞っていた。カーテンの隙間から入り込んだ風が、熱を含んだ空気を僅かに揺るがす。


「す、好きな食べ物!? え、えっと……」

恵一は息を詰まらせた。脳内の検索エンジンはフル稼働しながら、最適解を求めて彷徨っていた。しかし、カロリーと油脂と化学調味料の中で育まれた彼の食生活が、この場にふさわしい答えを生み出せるはずもなかった。

「ラ、ラーメンとか……?」


秋菜のまなざしが、わずかに優しく緩む。

「へぇ、ラーメンね」


その言葉は、冷たい刃ではなく、暖かい布のように降りかかった。しかし、その柔らかさが余計に恵一の不安を煽る。


「こってり系? あっさり系?」


窓の外では、青空がどこまでも広がり、陽光が白く輝いていた。庭園に植えられた槐の木が、濃い緑の葉をわずかに揺らしながら、枝の間に儚い木陰を作っている。湿った空気が肌に張り付き、僅かに額に汗が滲む。


「え、えっと……どっちも……?」

それは、優柔不断なのか、全方位への配慮なのか。それとも、恵一自身の存在の曖昧さの表れだったのかもしれない。


「ふーん、優柔不断ね」

久美が冷ややかに呟く。彼女の手元では、開いた魔導書の端が夏の風にふわりと揺れていた。


「じゃあ、好きな女の子のタイプは?」


刹那——恵一の思考は完全に停止した。


蝉の鳴き声が遠ざかる。窓の外の陽光が、白く霞んで見える。世界がぐにゃりと歪み、意識の奥深くに何かが沈み込んでいく。


「ぶふっ!? す、す、すきな、た、た、た、タイプ!? え、えぇ!? そ、それは……えっと……」


「あんた、何そんなに動揺してんのよ」

久美の冷淡な声が、まるで法廷の裁判官の宣告のように響いた。


「そっか……じゃあ、これから考えてみたら?」

秋菜の声は、どこか優しげだった。だが、恵一にとってそれは絶望的な追い討ちだった。彼の顔は、茹で上がったタコのように真っ赤になっている。


「もしかして、桂澤くんって……女の子に慣れてないの?」

秋菜がふっと身を乗り出し、恵一の顔を覗き込む。


——その瞬間、彼の意識は崩壊した。


思考が吹き飛ぶ。


——あの時の光景。


——頬を焼くような羞恥の熱。


心臓の鼓動が、あのときの濡れた空間に残る余韻と共鳴する。鼓動のひとつひとつが、肌を這う水滴の軌跡を思い起こさせ、感覚が鋭敏に研ぎ澄まされていく。


——蒸気。


浴室を満たしていた、あの白い靄。


湿った空気が肌の表面にまとわりつき、微細な水滴が薄膜のように体を包んでいた。


——濡れた肌。


滴る水滴が、まるで見えない指のようにゆっくりと這い降りる。滑らかな曲線に沿って流れ、頬を撫で、鎖骨をかすめ、胸元へと消えていく——その感触が、冷たさと熱の狭間にある曖昧なものだった。


——視線。


あの時、確かに交錯した。

逃げるように逸らしたはずの眼差しは、いまなお脳裏にこびりついて離れない。

喉が、無意識のうちに震えた。息を飲むという動作が、これほど露骨に意識されることがあるだろうか。湿った空気が肺の奥まで染み込み、皮膚にはなお残る湿度がじっとりと纏わりつく。指先に蘇る感触、耳にこびりついた滴る水音——それらは、ただの夢幻ではなく、確かに触れた現実の記憶だった。


「いいや……ちょっと、この前の体育祭のことを思い出して……」


声は微かに震えていた。静寂の中に溶け込むその囁きは、彼の動揺を赤裸々に露呈していたが、それを制御する余裕は、いまの彼にはなかった。


その言葉が空気を揺らした瞬間——


秋菜の記憶の奥底に、同じ情景が甦る。

意識の狭間で熱がじわじわと燃え広がり、指先の冷えとは裏腹に、心臓がひとつ鼓動を刻むたび、皮膚の表面にはじんわりとした熱が滲み、頬をゆっくりと染め上げていく。


「……秋菜?」


久美の冷静な声が、その熱を急冷させた。


「な、なに?」

声が裏返る。取り繕った平静はあまりに脆く、薄氷のように今にも崩れ落ちそうだった。


「なんか、顔赤くない?」

その問いかけに、秋菜の思考が一瞬で沸騰する。


「えっ!? そ、そんなことないわよ!」

即座に否定し、反射的に手を振った。しかし、その仕草こそが、否応なく自身の動揺を浮き彫りにしてしまう。


視線を合わせることができない。

目が泳ぐ。

この場の空気がやけに重たく感じる。胸の奥に残る不可解なざわめきが、理性の端をじわじわと削り取っていくようだった。


「……な、なんでもない!」

強引に言葉を吐き出し、会話を断ち切る。それが唯一の防衛手段のように思えた。


だが、それは逆効果だった。

「ふーん……?」

久美の声音には、微かな笑みが滲んでいた。


腕を組み、唇の端をわずかに吊り上げながら、じっくりと秋菜を見つめる。そのまなざしは、核心へと向かう鋭い探針のようだった。


「なるほどね~?」

低く抑えられた声に、秋菜の肩がわずかに揺れる。


「あ、違うからっ!!」

彼女は、ほとんど反射的に声を張り上げた。しかし、その焦燥の色こそが、かえって疑惑を確信へと変えていく。


教室の空気が、じわじわと軋み始める。

秋菜の鼓動がやけに耳に響き、沈黙が張り詰める。久美の視線がじわじわと近づき、逃げ場を塞がれたような錯覚を覚えた——そのときだった。


ふと、教室の外から足音が響く。


軽やかでありながらも揺るぎない、洗練された歩調。まるで、この場の空気を見透かしたかのように、絶妙な間合いで扉が静かに開いた。


京介が、恵一たちの前に現れた。


彼の黒髪は一糸乱れず、制服の襟元すら微動だにしない。陽光が窓から射し込み、その輪郭を淡く縁取る。歩調は一定で、まるで時間そのものが彼の存在に合わせて調律されているかのようだった。


「京介氏ぃ〜!!!」

唐突に、恵一が叫んだ。


先ほどまでの気まずい空気を振り払うように、彼は勢いよく両手を広げ、京介の方へ駆け寄る。その動作には迷いがなく、親しげな笑顔が顔いっぱいに広がっていた。


「桂澤さんですか。こんなところでお会いするなんて珍しいですね」

京介は足を止め、静かに微笑んだ。


その声はまるで澄んだ水が静かに流れるような響きを持ち、言葉の端々には、理性の範疇を超えた知性の輝きが滲んでいた。京介が言葉を紡ぐたびに、まるで空間そのものが彼の発する音を吸収し、それを正しく増幅しようとするかのようだった。


——その瞬間。


「わんっ。わんっ」


不可解な音が響いた。

次の瞬間、久美が突然、床に膝をついた。

彼女の動きには迷いがなかった。それは、まるで主人を迎える忠実な犬が、絶対の服従を示す瞬間と寸分違わぬものだった。両手は揃えられ、背筋はまっすぐ伸び、細やかに震える唇が、まるで自らの行為の正当性を無意識に問うているようでもあった。


——しかし。


「ち、違う!!!」

久美は己の異常を悟った。


彼女は両手を振り乱しながら、勢いよく立ち上がった。赤く染まった頬が、羞恥と混乱を露呈している。その表情は、まるで理性と本能の間で戦う獣のようだった。


「間宮さんもいたのですね」

京介の声が、冷静に響く。


その刹那。


「わふっ……」


——久美は震えた。

いや、違う。

彼女の内側にあった何かが、京介の存在に呼応するかのように、無意識のうちに発声を強制したのだ。それは、もはや彼女の意志とは無関係の領域にまで達していた。


「じゃなくて!!!」

久美は叫び、自らの口を押さえた。


心拍数が跳ね上がる。まるで制御不能な装置のように、彼女の理性は崩壊の兆しを見せていた。

京介は何も言わなかった。ただ、静かに彼女を見つめる。そのまなざしには、裁きも、咎めも、あるいは戸惑いすら存在しなかった。ただ一つ確かなのは、京介の存在が、周囲の全ての摂理を凌駕し、影響を及ぼしているという事実だった。

京介は、まるでこの光景すらも想定内であるかのように、僅かに視線を落とす。


「……良い()ですね」

そのひと言が、重く響いた。


久美は、震える指先で自らの頬をつねった。

「やめなさい……」

しかし、その声には、どこか頼りなさが滲んでいた。


「間宮氏って京介氏と結構仲良いんだなあ」

状況を理解していない恵一が、感心したように呟く。


「ち、違う! うるさいわね!」

久美が顔を真っ赤にして叫んだとき、窓の外では午後の陽がのんびりと傾いていた。


何気ない夏の午後であった。

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