体育祭 - 第三日目(2)
「正面から攻撃しなければいいって……どういうこと?」
久美は眉をひそめ、わずかに唇を尖らせた。
戦場に漂う焦げた魔導の匂いが、未だ沈黙を守る空気に重く滲む。星岡は口角をわずかに持ち上げた。その表情は、すでに答えを知っている者の余裕を含んでいる。
「そのままの意味だ。お前にもわかるように説明すると、軍神の盾には指向性がある」
戦場の中央。黄金の障壁の内側で、桂澤恵一は僅かな息を整えていた。先ほどまでの猛攻を一手に防ぎながらも、彼の瞳には焦燥が滲んでいた。
「指向性……?」
久美の声が、微かな疑念を含んで響く。
「そうだ」
星岡の視線は、揺るぎない確信を伴って恵一の背後に向けられた。
「軍神の盾は確かに強固な防壁だ。だが、すべての方向に均等な強度を誇るわけではない。術者が手をかざす方向の防御性能はほぼ絶対的だが、反対方向……つまり視界の外では、最大出力の半分程度に落ちる」
久美は即座に理解し、眉をひそめる。
「つまり、正面は無敵でも、背後は完全ではないってこと?」
「その通りだ」
星岡の言葉を受けて、速見が腕を組みながら頷いた。
「確かに、今までの攻撃はすべて正面からだったな」
彼の言葉が落ちるよりも早く、星岡は静かに視線を巡らせる。
「連射性の高い俺が前方から牽制する。その間に、お前らが背後に回り込んで総攻撃を仕掛ける」
その言葉に、菅原が唇の端を歪めた。
「お前のアイデアなのに、手柄は俺らに譲ってもいいのか?」
「いいさ。そうも言ってる場合じゃないしな」
「星岡、あんたたまにはいいこと言うじゃない」
久美が皮肉めいた口調で言い放つ。
「今回はあんたの手柄ってことにしてあげる」
星岡はそれを聞き流しながら、再び戦場へと視線を戻した。
そして、A組の戦術が切り替わる。
星岡の指先に微かな震えが生じると、それに呼応するように魔導波の流れが変調し、空間の感性領域に青白い燐光が滲み出した。大気は先ほどまでとは異なるリズムで脈動し、無機質な戦場の空間に、新たな意志の輪郭を形作っていく。
実況席から、天羽の声が響く。
「A組、ついに攻撃のパターンを変えてきました! ここまでは正面からの火力戦に終始していましたが……これは、軍神の盾の弱点を突く動きか!?」
彼の眼前には、依然として揺るぎない障壁がそびえ立っていた。黄金の光は脈打ち、そこに触れた魔導波は例外なく呑まれ、拡散し、無へと還っていく。今までと同じように、鉄壁の防御を示しているかに見えた。しかし、星岡はその光景を疑いもなく受け入れるほど鈍くはなかった。
それはただの物理的な障壁ではない。敵の攻撃を防ぐための単なる防御ではなく、戦場のあらゆる因果を拒絶し、攻撃という行為そのものを否定する概念の顕現であった。ならば、破壊するために必要なのは、単なる力ではなく、その概念ごと崩壊させる手段に他ならない。
彼は呼吸を整え、淡々と詠唱を開始する。
「一斉射撃!」
放たれた弾丸は、瞬く間に数十に枝分かれし、圧倒的な密度で標的へと降り注いだ。光が軌跡を描きながら空間を裂き、魔導波の収束によって発生した電磁波の余波が、戦場全体を包み込む。
恵一は、その動きを正確に捉えていた。
空間が振動し、軍神の盾が静かに脈打つ。光の波紋が拡がり、射出された弾丸は次々とその範囲に呑み込まれ、まるで初めから存在しなかったかのように消滅していく。雷撃の閃光が障壁の表面を覆い尽くしても、その輝きの奥深くへは一切到達することなく、ただ無為に霧散するのみであった。
「E組の防御の要、桂澤選手! ここでも軍神の盾が鉄壁の防御を見せる!」
天羽の実況が、観客席の熱狂を煽る。
だが、その確信が生じた瞬間、恵一の感性力が微細な異常を捉えた。
視界の片隅で、戦場の光が僅かに揺らぐ。わずかに影が沈み込むような違和感。それが示すものは、一つしかない。
菅原と久美――二人はすでにアイギスの防御範囲の外縁に到達していた。
魔導波の収束が極端に偏り、障壁の後方に存在する空間の密度が一瞬だけ変化する。それは、軍神の盾の持つ絶対的な防御機構の隙間を示す現象であり、術者の認識を逸脱した領域において、防壁がほんの僅かに揺らぐことを意味していた。
菅原は、口元に僅かな笑みを浮かべる。
「遅い――!」
菅原の拳が振り下ろされた。
「鉄拳!」
圧縮された空気が悲鳴を上げるように軋み、その動きに呼応するように、拳の周囲に収束した魔導波が弾け、亀裂のような軌跡を描きながら空間を震わせる。
――これまでのどの一撃とも違う。
それは単なる物理的な打撃ではなく、「破壊する」という概念そのものが形を成した拳撃だった。恵一の肌が粟立つ。思考よりも速く、彼の身体が本能的に反応する。
「っ!?」
咄嗟に振り向き、軍神の盾を再展開しようとする。しかし、遅かった。黄金の障壁が波打つ。微細な揺らぎが広がり、防御領域にわずかな歪みが生じる。
「な、なんと! E組が誇る桂澤選手の絶対防御に、A組の一撃が干渉した!! これは……ついに突破口になり得るか!?」
天羽の実況が、興奮を帯びた声で観客席を煽る。戦場に漂う魔導波の流れが変化していた。
通常であれば、軍神の盾は術者の感性領域内において絶対的な防御を誇る。しかし、この瞬間、その理論的支配構造が僅かに揺らぎ、統覚コヒーレンスが微細な乱れを生じさせていた。術者の認識の外――それこそが、軍神の盾にとっての唯一の脆弱性であり、菅原の拳は、正確にその一点へと突き込まれた。
その光景を目にしながら、星岡の唇がわずかに歪む。
「ふっ……やはり、読み通りだったな」
彼の目には、確信と優越が滲んでいる。
久美も腕を組み、冷笑を浮かべた。
「まあ、あいつの言う通りだったわね。さすが、一度ボコボコにされただけのことはあるわ」
星岡は薄く笑い、拳を握る。
「さあ、ここからが本番だ」
衝撃の余波が、障壁の内部へと拡がる。恵一の口から、思わず情けない声が漏れた。
「ぐふぅっ……!」
その思考が結論へと至るよりも速く――
「血に染まりし戦場!」
久美の詠唱が戦場に響き渡る。
天羽が、震える声で叫ぶ。
「これは……戦場魔導!? 間宮選手がこの局面で戦場の支配権を塗り替えにきました……!!」
地表を覆う魔導陣が、赤黒い光を帯びながら戦場全体へと拡がり、感性領域そのものを書き換え始めた。
「ちょっ、待て待て待て!? いや、それはないっすよ、間宮氏ぃ……!!」
恵一の言葉は、魔導の奔流にかき消された。
魔導波の流れが急速に変質し、統覚コヒーレンスの軋みが空間の奥深くにまで及ぶ。菅原の拳が、再び振り下ろされる。
次の瞬間――
黄金の障壁が崩壊し、恵一の身体が後方へと押しやられた。
「軍神の盾が……揺らいだ……!」
天羽の実況が、観客席の歓声に飲まれていく。
A組が、軍神の盾の弱点を突いた。
「ううぅ……マジっすかぁ」
恵一は、確実に追い詰められていく――。
そしてついに、黄金の光が揺らいだ。それはほんの僅かな脈動に過ぎなかった。しかし、戦場を覆う魔導波の流れは、その変化を見逃さなかった。光の律動が微細に乱れ、防御領域の均衡がわずかに軋む。空間を支配していた静謐な調和が、不協和音を孕み始める。
「おーっと!これはどうした!? ついに、無敵を誇る桂澤選手の軍神の盾が揺らぎ始めた!!」
天羽の実況が、その一瞬の異変を観客席へと伝えた。戦場の空気が変わる。
そして、次の瞬間――
「ぐあっ……!」
浅井の身体が、弾かれたように宙を舞い、背中から地面へと叩きつけられた。
「っ……浅井氏!?」
恵一の喉奥から掠れた声が漏れる。
だが、浅井は呻きながらも、恵一を睨みつけた。
「大丈夫だ! いいからお前は軍神の盾の維持に集中しろ!」
その間にも、戦場の魔導波は激しく変調し、かつて整然と張り巡らされていた防御領域が、徐々にその形を崩しつつあった。
(いや、待て……これは……!?)
雷撃が走る。次いで、美寛の肩口を掠めるように魔導弾が通過し、火花が散った。
「っつ……!?」
美寛が身を翻し、地面に転がる。
その刹那、恵一の背筋を冷たいものが走った。戦場の流れが変わっている。今までは、すべての攻撃が統覚コヒーレンスの枠組みから弾かれ、軍神の盾の防御領域内で意味を成さなかった。しかし、今――
「E組、耐えられない! 軍神の盾が崩壊し、A組の攻撃がついに直撃し始めた!!」
天羽の興奮した声が、戦況の急変を観客席へと伝える。
「恵一! 集中力を途切れさせないで!」
美寛の声が鋭く響いた。
恵一は、自らの鼓動が早鐘を打つのを感じた。彼の感性力が、次なる異変を捉える。戦場に響く、鋭い衝撃音。
「っ……!」
舞陽の左肩が、魔導弾の衝撃をまともに受けた。
「くっ……」
その小さな呻き声が、恵一の意識を強く揺さぶる。
「今度は三國選手、被弾!! これは……E組、崩れるか!?」
観客席が沸き立つ。
恵一は、その光景を直視しながら、理解せざるを得なかった。軍神の盾は、決壊し始めている。たとえ障壁そのものが消滅していなくとも、防御の「概念」が揺らいだ瞬間、戦場における力学は逆転する。統覚コヒーレンスが崩れたことで、A組の攻撃が戦場に直接的な干渉を及ぼし始めている。
戦況の支配権が、今まさにA組へと移ろうとしていた。
「もう決まりだな」
速見が、冷静な声で呟く。
E組の仲間たちは次々と撃ち抜かれ、魔導波の奔流の中へと飲み込まれていく。かつて鉄壁を誇った軍神の盾は、今や脆く揺らぎ、A組の猛攻を受け止めきれなくなっていた。戦場の空気は、決定的なものへと変わりつつあった。
敗北――
その二文字が、恵一の脳裏を埋め尽くしていく。
(もうダメだ……いや、まだ……!)
しかし、その刹那――
舞陽の目がわずかに細められた。
彼女の視線は、軍神の盾の防御領域を鋭く見つめていた。黄金の障壁が生じるわずかな魔導波の乱れ、恵一の手の動きに伴う光の収束――その全てが、彼女の中でひとつの仮説を形作りつつあった。
軍神の盾の防御範囲。今まで、それは全方位に均等な防御を展開しているように見えた。しかし、違う。恵一の手の向きが、防御の強度に影響を与えている。魔導の防壁は、術者の意識と密接に結びつく。しかし、軍神の盾の挙動は、それ以上に単純だった。恵一が防御を意識する方向に対して、障壁は強固に展開される。逆に、意識の及ばない方向は、明らかに防御力が低下している。
もし――片手ずつ、別々の方向へ向けたなら?
舞陽の瞳が、僅かに見開かれた。
「……恵一!」
彼女は、痛みを押し殺しながら叫ぶ。
「軍神の盾は、あなたが手をかざす方向を起点に指向性があるみたい! 両手を同じ方向に向けてるから、片側にしか最大防御がかかってないのよ!」
「はっ!? 何言ってんの三國氏、そんな……いや、待てよ……?」
恵一は反射的に否定しかけたが、戦場の光景を改めて見渡した瞬間、舞陽の言葉の意味を理解した。
(……まさか、そういうこと!?)
彼は、両手を目の前に掲げる。
――右手を前に。
軍神の盾の防御が、前方に集約される。
――左手を後ろに。
今度は、左側の障壁が強化され、前方の防御が僅かに弱まる。
(これ……マジでいけるんじゃね!?)
「三國氏、ガチで天才かよ……!!」
恵一の中で、戦況の絶望が、一筋の希望へと変わっていく。
その変化を、遠く離れた観客席から、ひとつの視線が見つめていた。
京介は、静かに背もたれに身を預けると、ゆっくりと腕を組んだ。
「ふむ……」
わずかに顎を傾けながら、淡々とした口調で言葉を紡ぐ。
「彼女は、なかなか鋭い観察眼を持っていますね」
驚きも焦燥もない。ただ、あたかも当然の事象を確認するかのような響きだった。
「ここまで冷静に戦況を見極めることができる人材は、A組にはいません」
その言葉に、隣の溝呂木がわずかに頷く。
「なるほど……」
柔らかな口調の中に、一種の敬意が滲んでいた。
「御曹司様の目に留まるほどの者が、彼らの中にいるとは……これは、今後の学園の勢力図に影響を与えるかもしれませんね」
「……かもしれませんね」
京介は、それ以上は何も言わず、ただ静かに戦場を見つめ続けた。
彼の視線の先では、E組の運命を変えるかもしれない、新たな防御の形が生まれようとしていた。