覚醒の時
恵一が暮らす青森県弘前市に、避難指示が発令されたのは、それから5分後のことだった。太陽は厚い雲に覆われ、その光は地面に届く前にかき消されている。街全体が静まり返り、冷たい風が雨で濡れた道路を吹き抜けていた。その静寂を破るように、防災無線が突如として響き渡った。
「東北地方全域に『避難指示』が発令されました。9時50分、太平洋上空より巨大隕石が接近しております。現在時刻よりおよそ10分後、青森県、岩手県、秋田県、山形県、宮城県に壊滅的被害が予測されます。対象地域にお住まいの方は速やかに圏外へ避難してください。圏外への避難が難しい方は、地下または頑丈な建物へ退避してください」
機械的で冷徹なその声が、街全体に響き渡った瞬間、抑えられていた緊張が弾けたように、周囲は一気に混乱に包まれた。家々の窓から人々の叫び声が漏れ、道路には車がクラクションを鳴らしながら殺到していく。逃げ場を求めて駆け出す人々の足音が、無秩序に重なり合って響く。
学校の教室内も例外ではなかった。窓から見える校庭では桜の枝が強い風に揺れ、濡れた花びらが地面に叩きつけられていた。その静かな光景とは裏腹に、教室内は地獄絵図のような混乱に飲み込まれていた。
「み、みんな、地面に伏せて、頭を守れ!」教師の声は、震えとともにかすれていた。その指示はまともに伝わることなく、教室内は悲鳴と叫び声で満たされていた。
「壊滅的被害って、どういうことだよ!?」
「圏外に逃げろって、10分でどうしろってんだよ!」
混乱の中で何人かの生徒が情報端末を取り出し、ニュースを検索しようとした。しかし、無慈悲な事実が彼らを待ち受けていた。
「ダメだ……ニュースサイトが全部遮断されてる!」
「SNSもブロックされてる……!」
その一言が教室内の緊張感を最高潮に押し上げた。情報統制――それは政府が被害の最小化を最優先とし、救助活動よりも事後処理を優先する段階に入ったことを意味していた。
恵一は呆然と立ち尽くし、次第に足の力が抜け、椅子に崩れるように座り込んだ。視界がぼやけ、耳には周囲の喧騒が遠く感じられる。冷たい汗が背中を伝い、心臓が耳元で大きく脈打つ音だけが現実感をかろうじて保たせていた。
「これ……もうダメなんじゃないのか……」
誰かの呟きが、教室内の静まりかけた空気を切り裂いた。その言葉に教室全体が凍りつくようだった。
恵一の体はついに限界を迎えた。全身を襲う恐怖が引き金となり、彼の体は意識を超えて失禁した。鼻腔を突き上げる様なアンモニア臭があたりに充満する。恵一はぐっしょりと濡れた己のズボンを見つめ、「はひゃあ」と頓狂な声を上げると、そのまま崩れるように床へ倒れ込んだ。全身が制御を失い、下半身がガクン、ガクンと痙攣を繰り返す。その姿は、まるで生命の根幹が狂気に侵されていくかのようだった。
必死にどうにか自分の体を制御しようと試みるが、無駄だった。汚れた手足をばたつかせ、教室の床で無様にのたうち回る恵一。その口から漏れ出たのは、人間の言葉ともつかない奇声だった。
「ヘケケっ!ヘケケっ!」
助けを求めるその声は、教室の中に空しく響いた。しかし、学友たちはそれを聞いても、反応する余裕などなかった。誰もが自分自身の生存だけで精一杯だった。
恵一に視線を向けた者も、ギョッとした表情を浮かべるだけで、そのまま爪を噛む仕草に戻ったり、情報端末の更新ボタンを連打し続けたりする。教室全体が、恐怖と絶望の非日常に飲み込まれていた。
ついに、恵一は仰向けになったまま動かなくなった。抗うことを完全に諦め、ただ天井を見つめていた。
「私たち、みんな死ぬのかな……」
放心状態の女子生徒が、無感情につぶやいた。その声は、教室内の静寂を突き破ることもなく、ただ虚空に溶けていった。
窓の外には低く垂れ込める灰色の雲が広がっている。その雲の向こうにどのような光景があるのか――誰も知る由もなかったが、それが黙示録という言葉にふさわしいものであることは誰もが理解していた。
教室はしんと静まり返った。その静寂は、生存本能すら麻痺させるような冷たい恐怖で満たされていた。
恵一は、身体を覆う汚れを気にすることもなく、じわりと溢れる涙に身を委ねた。やがて、彼のまぶたがゆっくりと閉じられる。
恵一の意識の奥底で、幼少期の記憶が走馬灯の様に駆け巡る。それらは忘れたいはずの過去、しかし決して拭い去ることのできない傷跡だった。
「やあい、恵一ぃ。おめぇまた学校でうんこさ漏らしたべぇ」
「わあい、堪忍してくれよぉ」
「うんこ虫!うんこ虫!」
「助けてくれやぁい!!」
「うんこ虫!うんこ虫!」
声、笑い、そして冷たい視線。これらが恵一の記憶の中で幾重にも重なり、意識を侵食する。彼の人生は、嘲笑と侮辱に彩られていた。小さな失敗がいつしかクラス全員の「娯楽」と化し、周囲に与える笑いが増すたびに、自分の尊厳が削り取られていくのを感じた。
特に決定的だったのは、教師までもが笑いを堪えきれず、教室中の笑い声に拍車をかける場面だった。恵一はその度に自分の「存在意義」を否定された気持ちになり、何もできずに身を縮めるしかなかった。そうして心の奥深くに「自分は誰かの嘲笑のために存在する」という思いを刻み込んでいったのだ。
もはや、どのような仕打ちも彼にとっては日常だった。人々がルールや思いやりといった「契約」を守るのは、互いの脅威を避けるためだ。だが、恵一は脅威と見なされることすらない絶対的弱者だった。そんな彼には、誰もその契約を適用しない。むしろ彼の存在は、契約外の「例外」として軽視され、冷笑の対象として消費されていた。
それは冷酷な現実だった。力の差が露わになる社会では、弱者には同情すら与えられない。覆し得ない不平等の中で、彼にとって「安らぎ」や「救い」という言葉はただの幻想に過ぎなかった。
「いっそ、みんな滅んでしまえばいい……」
暗い考えが一瞬よぎる。しかし、その瞬間、恵一ははっとして思い直す。彼の中にある本当の気持ちは、そんな破壊的な感情ではなかった。
確かに、学友たちへの恨みがないとは言えない。毎日のように降りかかる侮辱や冷笑に、辟易していないと断言することもできない。しかし、それ以上に彼の心を支配しているものがあった。それは、何よりも純粋で崇高な願い――。
――子供たちの未来を守らなければならない。
彼の意識にはっきりと浮かんだのは、何気ない幸せの光景だった。ビスケットや砂糖菓子を前に、喜びに弾ける笑顔。冬の寒空の下、公園を走り回り、頬を赤く染める無邪気な姿。それは、恵一が何としてでも守りたいと願う世界の象徴だった。
「俺が、守るんだ……」
その瞬間、彼の中に一筋の覚悟が生まれた。それは周囲の冷笑や嘲りを遥かに超える強さを持つものだった。自分が笑われようと、どんなに汚れようと、守るべきものがある限り彼は前に進む――その決意が恵一の中に確かな形を持った。
――どんな犠牲を払ってでも、守り抜く。
彼の魂は、自らが背負うべき使命に応えるように燃え上がり始めていた。
そして、恵一は決心する――我が国、そして世界の未来を担う子供たちの笑顔が守れるのなら……自ら進んで、学友たちの眼前で尻穴を広げ、脱糞でも何でもしよう!
「隕石よ、止まってくれ!!!」
恵一は無我夢中で叫んだ。切羽詰まった心情が、その一言にすべて込められていた。
その瞬間――。
恵一の頭の中が真白になり、何かが噛み合うような感覚が走った。脳裏には一瞬、稲妻が駆け抜けるような衝撃が走り、視界の全てが黄金色に染まった。
「こ、これは……!?」
彼の体がまばゆい光を放ち始めた。光はやがて彼の周囲に広がり、金色のフィールドとなって形成された。そのフィールドは、波紋のようにゆっくりと広がり、次第に空全体を覆っていった。
「ま、魔導!?」
一人の生徒が震える声で叫ぶ。
魔導――それは人類が扱うことのできる唯一の奇跡。
現実の物自体を認識、、概念を固定化――フィールドはさらに強固になり、巨大な魔導障壁として空を覆い尽くした。それは、まさに金城鉄壁という言葉にふさわしいものだった。
「こ、これは、俺の力なのか……?」
恵一は信じられない思いで自分の手を見る。力強い光が彼の手のひらから放たれ、フィールドのエネルギーが波打つように反応していた。
魔導の力は劣性遺伝とされ、稀にしか発現しない。まして、恵一の家系には魔導師の血筋は一切なかった。それどころか、彼自身、これまでに魔導の片鱗すら見たことがなかった。それが今、疑いようもなく自分の体から発現しているのだ。
「感性力の利得を最大化……悟性力を一定出力で維持……」
まるで自分の意思に忠実に応えるかのように、フィールドは恵一の周囲を守り続け、彼の考えを即座に反映して形を変えていく。その感覚は、まるで新たな体の一部を得たかのようだった。
「綺麗だ……」
恵一はため息をついた。
胸の内から、今まで感じたことのない魂の高ぶりが沸々とこみ上げてくる。未知の力に戸惑いながらも、それを拒むことはなかった。目の前の脅威に立ち向かうべく、彼はしっかりと術式の手綱を握りしめる。その目は空に向けられ、決意の光を帯びていた。
「よっし! 行くぞ!!」
その言葉と同時に、大地を揺るがす激震が走った。轟音が空を切り裂き、隕石が上空30km付近で空中爆発を起こす。大気摩擦により、隕石は原型をとどめることができず、無数の破片となって四方に散った。
「来るぞっ!!」
その瞬間、砕け散った隕石の破片がまるで散弾のように地表を襲う。しかし、それらは恵一が展開したフィールドの外壁に触れた瞬間、炎天下の氷のように溶けて消えた。
「見ろ!! 隕石が、止まっている!!」
誰かの叫び声が教室に響き渡る。フィールドはTNT換算300メガトン以上のエネルギーを完全に中和していた。それは通常の魔導師では到底扱えない規模の事象改ざん力だった。魔導警察の巡査レベルの魔導師であれば、その5パーセントを扱っただけで意識を失うほどだ。
「ぐふぅっっ……」
凄まじいエネルギーの奔流が、恵一の体を襲う。その衝撃で服は跡形もなく吹き飛び、毛むくじゃらの臀部が露わになる。それでも、恵一は両腕を高く掲げ、むき出しの身躯でフィールドを維持し続けた。その姿はまるでギリシャ神話の巨神アトラースのようであり、周囲の者たちの視線を一身に集めていた。
教室の中では、誰もが固唾を飲んで恵一の戦いを見守っていた。自分たちの運命が、たった一人の少年に託されていることを理解していたからだ。
「ひぎぎぎぎぎ……」
恵一は荒い息をつきながら、歯を食いしばった。先ほどの便意など比較にならないほどの圧力が彼を押しつぶそうとしていた。腕はビリビリと痺れ、足は小刻みに震えている。全身が悲鳴を上げ、今にも倒れそうだった。
「俺に、できるのか……?」
心の中に浮かぶのは、自己への疑念だった。便意すら耐えられなかった自分が、これほどの重圧に勝てるのだろうか。しかし、その疑問に答えは必要なかった。もう戦うしか道は残されていなかったのだ。
「負けるわけにはいかない……!!」
声に出さずとも、彼の心は叫び続けていた。黄金色のフィールドはなおも輝きを増し、隕石の破片を次々と飲み込んで消していく。その力強さの裏で、恵一は限界を超えた身体と精神を振り絞り、未曾有の脅威に立ち向かっていた。
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」
恵一は無我夢中で念仏を唱え続けた。先日見た深夜アニメでは、陰陽師が長々とした呪文を唱えていたが、難しすぎて覚えられなかった。それでもいい、でたらめでも構わない。今はただ、自分を奮い立たせるためにできることをすべてやるしかなかった。
「持っている手札は全部ここで切ればいい……!」
自分の中で繰り返すその言葉が、まるで祈りのように響く。これは己の命運を賭けた、否、東北全土の存亡を賭けた大勝負だった。
術式の出力が限界を超え、ついに恵一の尻毛と胸毛がチリチリと焦げだした。
「あちゃちゃちゃちゃちゃ!!!」
裏返った声で叫びながらも、痛みを必死で凌ぐ。全身を襲う灼熱感の中で、彼の意識は一瞬遠のきそうになる。しかし、思い浮かぶのは子どもたちの笑顔――それだけで十分だった。
そうだ、つい先ほどまで彼を嘲笑い、足蹴にした学友たちを救う道理など、彼にはなかった。ましてや、顔を合わせたこともない1000万人の東北臣民に対する義理など一切なかった。仮にここにいる全員を救ったとしても、また嘲笑と蔑みの毎日が戻るだけだろう。だが、そんなことはもうどうでも良かった。彼は、目の前の未来を守るために立ち上がったのだ。
「桂澤君、頑張ってえ!!!」
突然、女子生徒の一人が目に涙を浮かべながら叫んだ。今朝彼を「臭い」「キモい」と嘲笑ったその声が、今は震えながらも真摯に彼を応援している。
「恵一頑張れ!!!」
「行けえ!!桂澤!!!」
「負けるな桂澤!!!」
次々と上がる声援。教室にいた全員の心が一つとなった瞬間だった。
「おおおおおおおお!!!!!」
恵一は渾身の力を込めて雄叫びを上げる。その声は空気を震わせ、周囲の視線を一身に集めた。
「やってみせる!!! やってみせるぞ!!!」
辺り一帯に閃光が迸った。隕石はフィールドの圧倒的な力の前に大気に吸い込まれるようにして、一気に空中分解していった。
曇り空にぽっかりと空いた割れ目からは、透き通るような青空が覗いていた。ほんの数秒前まで恵一たちの命を脅かしていた巨大隕石の姿は、今や影も形もない。
「や、やったのか……?」
荒い息を整えながら、恵一はその場に頽れた。彼の体からはもはや力が抜け、全身が重く感じられた。それでも、彼の胸には微かな達成感と安堵があった。
こうして、後に「東北事変」として世に知られることとなるこの事件は、終結を迎えたのだった。