リリィからの依頼
夜の街は、まるで深い眠りに沈んだ巨獣のように静まり返っていた。冷たい風が肌を刺し、細長い影がビルの谷間を這い回る。恵一は足早に歩きながら、心の中に芽生えた恐怖を抑え込もうとしていた。しかし、その恐怖の裏側には、奇妙な高揚感がじわりと広がっていた。
指定された集合場所――街の外れにある倉庫街に近づくにつれ、心臓の鼓動が耳元で不規則に響き、冷たい汗が背中を伝って落ちていく。
やがて、倉庫の前にたどり着く。暗闇の中、黒いセダンが一台ポツンと停まり、その周囲には四人の男たちが立っていた。彼らの姿は闇と溶け合い、現実感を欠いた幻影のように見えた。恵一の足は自然と止まり、全身が凍りついたかのように動けなくなった。
「ここが……集合場所なのか……?」
立ち止まったまま、恵一は自問自答を繰り返した。その問いに絡みつく恐怖は、彼の意志を引き裂くかのようだった。しかし、その恐怖の奥底には、不可解な運命感が芽生えつつあった。まるで、この瞬間があらかじめ用意されていたもののように思えてならなかった。
「おい、新入りか?」
低く冷たい声が闇を切り裂くように響いた。一人の男が覆面越しに鋭い視線を向けてくる。その目には情けの欠片もなく、ただ冷酷な判断と命令だけが宿っているようだった。
「えっと……はい、リリィさんからオススメされて……」
恵一の声は震え、唇が乾いていた。その震えは、寒さのせいではなく、この異様な状況に直面している自分自身への戸惑いから来るものだった。
「よし、今日からお前は桃レンジャーだ」
「桃レンジャー?」
突拍子もない言葉に、恵一は思わず顔をしかめた。しかし、その戸惑いに構う様子もなく、男は冷たく指を指した。
「あそこにいる三人は赤レンジャー、青レンジャー、黄レンジャーだ。全員、お前と同じだと思えばいい」
その言葉に対し、恵一は思わず問いかけずにはいられなかった。
「えっと、配送のお仕事だと聞いて馳せ参じて参りました……」
恵一の声はか細く震えていた。言葉を発するたびに、場違いな自分が浮き彫りになるような気がしてならなかった。それでも、目の前の男たちの冷たい威圧感に耐えきれず、問いかけずにはいられなかった。
覆面男は恵一の言葉に微かに眉を動かしたが、その表情には嘲笑の気配が漂っていた。
「そうだ、配送だ。この車を所定の場所まで運転して届ける。それだけだ」
簡潔な指示に恵一は一瞬ほっとしかけたが、男の次の言葉がすぐにその安心感を打ち砕いた。
「ただし、中身を開けるな。それがルールだ。余計なことは考えるな」
覆面男は冷たく笑い、トランクを軽く叩いた。その音は妙に重々しく、冷えた空気に溶け込むように響いた。恵一の胸には言葉にできない疑念が湧き上がったが、覆面男の鋭い目がそれを押し込めた。
「な、何が入ってるんすか……?」
恵一は小さな声で問い返した。その声には自分でも分かるほどの不安が滲んでいた。
覆面男はゆっくりと恵一に視線を向け、その目でじっと睨みつけた。
「中身を見たら、すぐに分かるさ。ただし、その時には、お前が無事でいられるとは思うな」
その冷酷な一言が静寂を切り裂き、周囲に不気味な重さを漂わせた。恵一は背筋が凍りつくのを感じ、口をつぐむしかなかった。
「さあ、行け」
覆面男の冷ややかな一言が、行動を促す引き金となった。
「赤レンジャーがハンドルを握る。青と黄は助手だ。桃レンジャーは後部座席に座っていればいい。それが今日の役割だ」
覆面男の冷徹な指示に、赤レンジャーが無言で運転席に乗り込み、青レンジャーと黄レンジャーもそれぞれの席に淡々と座り込む。促されるままに、恵一も後部座席へと滑り込み、重々しいドアが閉まる音が冷たく響き渡った。
――
エンジンが静かに唸りを上げ、黒いセダンは倉庫街を抜けて暗い道へと滑り込んだ。周囲は無機質なコンクリートの壁から徐々に荒涼とした郊外の景色に変わり、街灯のまばらな光が、車の進行に合わせて影を描き出しては消えていった。どこか遠くで犬が吠える声が聞こえ、それが夜の静寂をさらに強調していた。
車内には言葉を交わす者もなく、ただ低いエンジン音が空間を満たしていた。その音は妙に規則的で、恵一の耳にまるで時計の秒針のように響いた。彼は後部座席に身を沈めながら、窓の外の景色に目をやったが、そこに目を引くものは何もなく、ただ暗闇が続くだけだった。
前方では赤レンジャーがハンドルを握りしめ、無言で運転に集中している。その横顔には深い緊張の影が見えた。助手席の青レンジャーは、やや気楽そうに窓の外を眺めていたが、彼もまた何かを考えているようだった。黄レンジャーは無言で窓の外を見つめ、顔には疲れの色が浮かんでいる。
時間が過ぎるごとに、車内の空気はますます重苦しくなった。
ふと、青レンジャーが窓の外から目を離し、ゆっくりと振り返った。口元に浮かぶ笑みは、何かを企んでいるような不穏さを帯びている。染めた茶髪は無造作にセットされ、安価なピアスが耳元で揺れていた。そのファッションは、派手さを狙いつつも時代遅れで雑然としており、ジャージ風の上下にタバコ臭いジャンパーが肩にかけられている姿は、田舎の不良特有のけだるげな雰囲気を際立たせていた。ポケットの中でリズムを刻む指先が、不遜さと挑発を象徴するかのようだった。
「なあ、桃レンジャー」
青レンジャーの声が、車内に漂う張り詰めた沈黙を破った。その調子はどこか楽しげだが、耳に残る不吉な響きを含んでいた。静まり返った空間において、その声は異様なほど鮮明に響き渡り、恵一の胸に鋭く刺さるような感覚をもたらした。
「お前、初めてか? 怖いか?」
青レンジャーは挑発するように言葉を続け、相手の反応を楽しむような目つきを見せた。軽薄な笑みがその表情に広がり、子供じみた残酷さが滲み出ている。その目は薄い眉の下で光り、どこか相手をおちょくるような挑発的な輝きを放っていた。
「こんな仕事、慣れりゃどうってことない」
青レンジャーは自信ありげに笑い、さらに声を低めた。
「俺なんてさ、前にもっとヤバいことやったぜ」
続く話は、高級住宅街での窃盗や債務者への恐喝――その一つ一つが、彼の中で自慢話のように語られる。だが、それらの話にはどこか薄っぺらさがあり、無邪気とも言える軽薄さが漂っていた。車内の空気はますます重く、張り詰めた沈黙に再び覆われる。
恵一はその話を聞きながら、胸の奥にじわじわと不快感が広がるのを感じた。青レンジャーの無神経な態度と軽口は、状況の緊迫感をさらに際立たせていた。
「スリルってやつだよ。普通にバイトして金稼ぐなんて、退屈すぎてやってられねえだろ?」
軽快に語る声に滲むのは、世間知らずな自信と自己顕示欲。だが、その無責任な言葉の裏に隠された不気味な生々しさが、恵一の背筋をひやりとさせた。
「おい、青。少し黙れよ」
黄レンジャーが低くため息をつきながら口を挟んだ。その声は抑揚がなく、疲れきった響きが混じっていた。後部座席の端に座る彼は、窓の外をじっと見つめている。その顔には、まるで年齢以上の重圧と苦労が刻み込まれているようだった。目の下の薄暗い影が、彼の24、5歳という年齢とは不釣り合いな老成を際立たせている。
「俺はな、こんな仕事、好きでやってるわけじゃないんだよ」
彼は視線を外に固定したまま、静かに語り始めた。感情を押し殺したような淡々とした語り口だったが、その裏には諦めと悲しみがひそんでいた。
黄レンジャーの髪は無造作に切り揃えられ、フード付きのジャケットは着古した感が漂う。襟元が少し開き、どこかだらしない印象を与える一方で、その姿勢には重荷を背負って生きてきた人間の生々しさがあった。少し猫背気味の彼の後ろ姿は、言葉以上に彼の過去を物語っている。
「実家が貧乏でさ。親父は酒浸りで、毎日酔っ払って荒れてた。お袋は……俺が小さい頃に家を出ていった」
ぽつぽつと漏れる言葉が車内の沈黙に溶け込んでいく。重く、現実味を帯びたその声は、車内の空気をさらに圧し、聞く者を否応なく彼の過去に引きずり込む。
黄レンジャーの目は窓の外を彷徨い、夜の街灯にぼんやりと反射する光が彼の頬を淡く照らした。夜道を流れる景色が、彼の記憶を映し出すスクリーンのようだったのかもしれない。その目には、過去の苦しみを振り返る物悲しさと、それをどうにもできなかった現実への諦めが同居していた。
「俺以外、あの家にはまともな人間なんていなかった」
その一言が車内の空気を一層重く沈ませた。黄レンジャーの言葉は、彼の内に秘めた不屈の強さと、それでもなお拭い去ることのできない悲しみを感じさせた。
「それでも、真面目に働こうとはしたさ。工場で日雇いの仕事をして、バイトも掛け持ちして……寝る間も惜しんで必死にやった。でも、どうやっても生活は楽にならなかった」
彼の声には虚しさが混ざり、言葉はどこか重たく引きずられていた。
一瞬の間があった後、黄レンジャーはぼそりと続けた。「結局、こんな仕事しか選べなくなった」
その一言には深い諦めと苦渋が滲んでいた。彼の告白は車内の空気をさらに圧し、誰も言葉を挟むことができなかった。窓の外を流れる景色だけが、ゆっくりと変わり続けていた。
恵一は、隣に座る黄レンジャーの横顔をちらりと見たが、何も言えなかった。彼の口を開く気力は、すでにその重苦しい話によって奪い去られていた。ただその場で黙り込み、胸の奥で鈍い痛みを感じながら、窓の外をぼんやりと見つめることしかできなかった。
「……俺も、最初からこんなことをやるつもりじゃなかった」
赤レンジャーがぽつりと口を開く。その低い声には、どこか自嘲めいた響きが含まれており、車内の静けさに重くのしかかった。ハンドルを握る彼の指先が微かに動くたび、その内心の葛藤を滲ませていた。
ルームミラー越しに見える赤レンジャーの顔は、四人の中で最年長らしい深い彫りの顔立ちが際立っていた。無精髭が口元を覆い、長く伸ばした髪は無造作に後ろで束ねられている。耳元でシンプルなピアスが揺れるたびに、どこか放浪者のような風格を感じさせた。車内の薄暗い光がその顔を照らし、旅の疲れが刻み込まれているようだった。
「俺は普通の家庭で育ったんだ。親父もお袋も厳しかったけど、ちゃんと俺のことを思ってくれてたよ」
彼は遠くを見つめるように、前方の闇に目を据えた。その声には、かすかな懐かしさと、捨て去った過去へのほろ苦い思いが交じっていた。
「地元じゃ、ちょっと名の知れた魔導学校にも通った。それなりに期待もされてたんだよ」
赤レンジャーの指がハンドルをゆっくりと撫でる。その仕草は、何かを押し殺すような無意識の動きだった。
「でもな……世の中には、上には上がいるんだよ」
彼の顔が微かに歪む。その表情は笑みとも苦痛ともつかない曖昧なもので、過去に触れる痛みが見え隠れしていた。肩にかかる髪が影を落とし、その堀の深い顔をさらに沈んだものに見せていた。
「俺なんか、ただの井の中の蛙だった。それに気づいた瞬間、何もかもがバカバカしくなったんだよ」
その一言に込められた虚しさが、車内の空気をさらに重くした。
「それで……気づけばギャンブルに手を出してた」
赤レンジャーの声がわずかに震える。抑えた感情がそこから漏れ出すようだった。
「あの瞬間だけは、何もかもどうでもよくなる気がしてさ。でも、気づいた時には借金まみれだ。返せるわけがない額になってたよ」
短く笑ったその声は乾いていて、苦味が滲み出ていた。
「今はその返済のために、こうやって仕事をしてる。それだけの話だ」
彼の声が再び静まる。車内の空気は冷たく、肩越しに見える彼の横顔には孤独が深く刻み込まれていた。
誰も言葉を挟めず、ただ車が夜の闇を切り裂く音だけが続いていた。その沈黙の中で、赤レンジャーの告白は、彼の胸の奥に秘められたものの一端を、静かに語っていた。
彼の話が終わると、車内には再び重い沈黙が訪れた。その静寂はただの無言ではなく、それぞれが背負う闇と向き合う時間のようだった。
すると、不意に青レンジャーが乾いた笑い声を上げた。
「お前ら、真面目すぎだろ?そんな暗い話してどうすんだよ」
助手席に体を預け、楽しげに振り返ったその顔には、どこか軽蔑と嘲笑が浮かんでいた。
「俺なんか、明日のことなんて考えたこともねえよ。毎日を楽しむ、それだけだろ?」
黄レンジャーは窓の外を見つめたまま無言だったが、その肩が小さくため息をつくのが見えた。赤レンジャーは短く鼻を鳴らし、「そういう軽さで済む話じゃねえんだよ、青」と静かに言った。その言葉にはわずかな苛立ちが含まれていたが、青レンジャーは気にする様子もなく、ふんっと鼻で笑った。
車内には再び重い沈黙が訪れる。しかし、青レンジャーの笑い声が耳に残り、不気味な余韻を伴って闇の中に溶けていくようだった。黒いセダンは静かに夜道を進み続け、行き先の知れぬ暗闇へと吸い込まれていった。
「ところで、桃レンジャー。お前はどうなんだ?」
不意に赤レンジャーがバックミラー越しに恵一を見ながら問いかけた。その声は穏やかに聞こえたが、その奥にはどこか鋭く探るような響きが含まれていた。
突然の問いに、恵一は息を呑んだ。
「えっ、えっと……」
思いがけない話題にどう答えればいいのか分からず、視線を彷徨わせる。その挙動を見て、青レンジャーがニヤリと笑った。
「なに緊張してんだよ」
彼はからかうような口調で促すと、続けて言った。
「言ってみろよ。どんな過去があるんだ?」
「お、俺は……普通の学生で……」
恵一は吃りながら、恐る恐る言葉を紡いだ。
「ただの配送のバイトって思ってたんだけど……もしかして、コレ、違う案件だったりする……?」
その言葉を聞いた瞬間、青レンジャーは堪えきれないとばかりに声を上げて笑い出した。
「ははは!違うのかって!お前、今さら何言ってんだよ!」
その笑い声は車内に響き渡り、恵一の耳に鋭く突き刺さった。
「おいおい、こいつ、本当に何も分かってねえんじゃねえか?」
青レンジャーは黄レンジャーを肘で突きながら愉快そうに続けた。黄レンジャーはちらりと恵一を見たが、何も言わずにため息をついただけだった。そのため息には、何とも言えない疲労感が滲んでいた。
赤レンジャーは、青レンジャーの軽薄な態度に何の反応も見せず、バックミラー越しに冷静な目で恵一を見据えた。
「お前、本当に普通のバイトだと思ってるのか?」
その静かな問いには、不気味なまでの重みが込められていた。恵一は胸の奥で渦巻く不安を押し殺しながら、小さく頷くしかなかった。しかし、その不安は喉元まで押し寄せ、息苦しさを伴うほどだった。
赤レンジャーは短く息を吐き、低い声で短く言った。
「なら、こう思っておけ。知らない方が、いいこともある」
その一言は冷たい刃のように恵一の胸に突き刺さり、車内には再び沈黙が戻った。しかし、その静けさは単なる無言ではなかった。目に見えない恐怖と緊張が重く漂い、誰もがその空気に縛られているようだった。黒いセダンは夜の闇を切り裂きながら進み続け、乗員たちを見知らぬ運命の扉へと運んでいった。




