クエスト受注
それから2週間。恵一のスマホには、課金の履歴がずらりと並んでいた。最初は「少しだけ」という軽い気持ちだった。だが、ゲームが更新されるたびに新しいキャラクターや期間限定イベントが追加され、気づけば彼の課金は際限なく膨れ上がっていた。
URキャラはすでにかなり手に入れていた。しかし、次々と現れる新キャラや限定イベントの「宝石」を前にして、彼の心は決して安らぐことがなかった。それを手に入れなければならない――それが、eスポーツ部の一員としての使命だと、恵一は信じていた。手に入れた財宝がいかに輝かしいものであろうと、それを超える新たな輝きが次々と登場する世界では、歩みを止めることは敗北に等しかった。
彼の臣民口座はまるで尽きることのない泉のように思えた。しかし、その泉は、いつの間にか濁り始め、少しずつ涸れていった。泉の底が見えるほどに枯渇していく感覚が、恵一に焦燥感を与える。「まだ汲み上げられるはずだ」と信じながらも、彼は次第にその枯れた泉を無理やり掘り続けている自分に気づき始めていた。
「俺たちは、任務を完遂するためにいる……」
恵一は自分にそう言い聞かせながら、ガチャのボタンをタップした。そのたびに臣民口座の残高が赤字を深め、「取引完了」という冷たい文字が画面に浮かび上がる。その文字はまるで、次の財宝を探し続けるための契約書のように彼を縛りつけていた。
期待を胸に引いたガチャの結果は、時折URキャラを引き当てる。しかし、手に入れた瞬間の高揚感は、次の新キャラの発表とともに消え去る。それでも彼は画面を見つめ、次なる「財宝」を追い求める自分を止められなかった。
「次の任務がある限り、俺たちの冒険は終わらないんだ……」
そう自分に言い聞かせながらも、催促の通知が鳴るたびに現実がちらつく。
「支払い期限を過ぎています」
――その冷たい文言が、胸の奥で小さな痛みを残した。それでも、課金を止めるという選択肢はなかった。それは「使命」を放棄することであり、eスポーツ部の存在意義を否定する行為に思えた。
そんなある夜、スマホのバッテリーが尽き、画面がふっと暗転した。恵一は目を見開き、動かしかけた指が宙で止まる。これまで終わりの見えなかった課金の螺旋が、一時的にせよ途切れたのだ。
「……え?」
呆然とスマホを見つめ、しばらく動けずにいたが、胸の中に焦りが湧き上がる。
「充電……しないと……」と自分に言い聞かせるように呟き、部屋の隅に転がった充電ケーブルを掴んだ。その手は汗でじっとりと湿り、微かに震えていた。充電をして再びガチャを引かなければ、「使命」を果たせない――そんな焦燥感が頭を支配していた。
だが、充電を待つ数分間、その短い沈黙が、恵一に嫌でも現実を突きつけた。散らかった部屋、画面に届かぬ通知、膨れ上がる赤字――それらが、すべて自分の手で作り出したものだということを悟らざるを得なかった。
「でも、任務をやりきらずして、何が残る……?」
その呟きには、使命感と空虚感が絡み合っていた。eスポーツ部の一員として、「輝き」を求め続けることが彼の存在理由であり、やめることはその意味を失うことに等しかった。
やがて、スマホの画面が再び光を取り戻し、通知音が鳴り響いた。
「未払い金額が増加しています」
その文字が目に飛び込むたび、胸の奥で何かが軋む音が聞こえるようだった。それでも恵一の指はまたスマホへと伸びていく。それはもはや意識的な行動ではなく、彼の中に刻み込まれた「ハントする者」としての本能のようなものだった。
財宝を追い続けることが使命であり、逃れられない宿命――その思いに突き動かされながら、恵一は再び課金の渦へと手を伸ばした。虚無と希望がない交ぜになった中で、彼のハントは終わることなく続いていく。
指先が震える。それでも、再びボタンに触れようとする自分を止められない。「これが最後だ」と、何度も繰り返したはずの言葉が、頭の中で空虚に響くだけだった。虚無感と希望がない交ぜになった中で、彼は再びガチャを引こうと、無意識に手を動かし始めていた。
そんなある日、彼に、矢部と江藤が近づいてきた。二人の足音が部室の床に響き、その音がまるで彼の耳元で嘲笑するかのようだった。彼らの顔には、不気味な笑みが浮かんでいた。その笑みは、親しげでありながらどこか冷たく、底の知れない悪意を秘めている。
「桂澤、お前、資金が尽きたんだろう?」
その言葉は軽く投げかけられたが、その中には奇妙な断定が込められていた。
「……いやいや、困ってるとかのレベルじゃないっすよ。これもう詰みですわ。全部が、もうゲームオーバーって感じなんだけど……」
恵一の声は途切れ途切れで、まるで自分の絶望を確認するように呟く。彼の視線は床に落ち、そこには何もない虚無が広がっていた。
「終わり? バカなことを言うなよ」
江藤がニヤリと笑う。その声は冷たく、どこか楽しげでもあった。
「俺たちにはまだ『依頼』があるじゃないか。お前も知ってるだろ?」
「依頼?」恵一は顔を上げた。
「そうさ」矢部が小さな声で言う。
「つまり、バイトで資金を調達するんだ。お前にぴったりの求人サイトを紹介してやるよ」
矢部がスマホを取り出し、薄闇の中でその画面が不気味な光を放つ。送られてきたリンクを開いた恵一の目に映ったのは、一見普通のアルバイト情報サイトだった。しかし、その中身はどこか異質で、危険な甘美さが漂っていた。短期の仕事、高額な報酬、そして曖昧すぎる仕事内容――それは、まるで禁断の果実が差し出されたような感覚だった。
「これだよ」
江藤が軽く笑う。
「この中から適当に選べばいい。簡単だろ? 応募してみろよ。すぐに金が手に入るさ」
恵一は半信半疑ながらも、画面に表示された「簡単な配送業務」の仕事に目を留めた。その言葉は簡素すぎて、逆に不安を掻き立てたが、同時にその報酬額の高さに目を奪われた。
「これ、本当に……?」
恵一が呟くと、矢部が笑顔で背中を叩いた。
「大丈夫だって。これはクエストなんだ。お前にしかできない冒険だよ」
やがて、恵一の指はスマホの応募ボタンをタップした。送信が完了すると、画面が一瞬だけ暗くなり、静かに光を取り戻した。その光は、まるで彼の未来がその瞬間に何か不可解なものへと変わったことを告げるかのようだった。
数時間後、スマホに通知が来た。「リリィ」という名のユーザーからのメッセージだ。その内容は、別のチャットアプリ「テレグラフ」のインストールを指示するものだった。恵一は戸惑いながらも、指示通りにテレグラフをインストールし、リリィとの会話を始めた。
リリィ:「こんにちは、応募ありがとうございます。簡単な配送業務ですが、正確さと慎重さが求められます。報酬は仕事ごとに異なりますが、1回で数万円程度をお支払いします」
スマホの画面から届くメッセージに、恵一は眉をひそめた。数万円――その額は驚くほど魅力的だった。だが、それと同時に得体の知れない違和感が胸を掠める。画面越しのやり取りはどこか非現実的で、現実味を感じさせなかった。
部屋の中は薄暗く、カーテンの隙間から漏れる街灯の光がスマホの画面を淡く照らしているだけだった。散らかった机の上には、未払いの通知が表示された書類が乱雑に積まれている。その景色が恵一の心に重くのしかかる。
恵一:「そんなに高いんですか? 具体的にはどんな配送をするんですか?」
少しの間を置いて返ってきたメッセージに、彼は再び目を細めた。
リリィ:「詳細については案件ごとにお伝えします。ただ、どの仕事も簡単でシンプルです。まずはトライアルをしてみませんか? 今、急ぎの案件が一件あります」
画面の文字は冷たい光を放ち、恵一の目に不自然に鮮明に映った。「トライアル」という言葉が耳に残り、その響きに妙な緊張感を覚える。
恵一:「えっと……それってどんな内容ですか?」
返事を待つ間、恵一は椅子にもたれ、天井を見上げた。薄暗い部屋の空気が、まるで彼の胸の中の不安を反映しているかのように重苦しい。「簡単な配送業務」という説明のあまりの抽象さが、頭の中でぐるぐると疑念をかき立てた。
リリィ:「特定の場所に荷物を届けるだけです。本当に簡単ですよ。そして何より、あなたの住むエリアの近くでちょうどその案件があります。最初の仕事としては申し分ない条件だと思います」
メッセージの文面は親切で穏やかだったが、その「簡単すぎる」内容が逆に警鐘を鳴らしていた。恵一は唾を飲み込み、スマホを持つ手がわずかに震えるのを感じた。
窓の外では車の音が遠くで鳴り響き、街の夜の喧騒が微かに耳に届く。彼にとってその音は、外の世界とのかろうじての繋がりを感じさせるものだった。だが、スマホの画面越しに広がるやり取りは、どこかその現実から切り離された、異質な次元のものに思えた。
「具体的な場所はどこなんだろう……?」
恵一は小声で呟いたが、心の中では迷いが膨らんでいた。それでも、目の前の「報酬」という甘い言葉が、彼の指を動かさせる。
「興味あり」ボタンを押した瞬間、画面がわずかに光り、応募完了の通知が表示された。その一瞬、胸に不安が駆け巡ると同時に、奇妙な安堵感が押し寄せてきた。
「これで何とかなるかもしれない」という希望と、「これで本当に大丈夫なのか?」という恐怖が、胸の中でせめぎ合っている。
リリィ:「ありがとうございます。では、詳細をお送りしますね。よろしくお願いします」
すぐに送られてきたメッセージには、指定された時間と場所、そして連絡先が簡潔に記されていた。その文章はあまりにも冷たく簡素で、現実味を削ぎ落としていた。恵一はスマホを見つめながら、深く息をついた。部屋の静けさが耳を刺し、画面の光だけが彼を照らしている。
「これがeスポーツ部の依頼か……」
呟いた言葉には、自分を納得させるための意図が込められていた。だが、その光の向こう側に何が待っているのか――恵一はまだ、その先に潜む深い闇に気づいていなかった。