はじまりの朝
2日前に遡る。青森県弘前市——帝都から500km以上離れたこの地方都市で、事件は起こった。帝国中央情報局の報告書によると、この事件の中心人物と目される、桂澤恵一は、県立弘前北高校に通う何の変哲もないただの高校二年生だった。身長は165cm程度、小太りな体型には少し窮屈な学ランに無精髭、と言ったおよそみすぼらしい出立――それ以外には、何の特徴もない普通の男子高校生である。
その日の朝も、いつもと変わらない様子で幕を開けた。
「ぐふぅ、ガチでヤバいっす!! また遅刻でござる」
恵一は、プッ プッ プッ、とリズミカルに放屁しながら必死で走った。昨日食べた1ポンドステーキとフライドチキンが腹の中で発酵し、臭気を纏ったガスが、腸管を通じて排出される。
「すみません! 遅れました!」
恵一が息を切らせて教室へ駆け込むと、すでに一時限目の授業は始まっていた。ドアが開いた瞬間、室内の空気が微かに揺れ、全員の視線が一斉に彼に向けられる。
「なんだ、桂澤。また遅刻か?」
教師は呆れたような口調で言ったが、その声には厳しさよりも諦めが滲んでいた。
恵一は小さく「すみません……」と呟くが、その声は教室に届く前に消えてしまう。恥ずかしさと焦りが交錯し、彼は目を白黒させたまま立ち尽くす。
「いいから、さっさと席に着け」
短い指示に従い、恵一はうつむきながら自席へ向かった。その途中、背後から女子生徒たちの小声が聞こえる。
「臭い……」
「キモくない?」
かすかな笑い声とともに投げかけられる言葉の棘。彼の胸に静かに突き刺さる。何も言い返せず、彼はただ縮こまるように歩を進めた。
彼が窓際の席に腰を下ろした時、曇天の空が視界に広がった。灰色の雲が低く垂れ込め、先ほどまで降っていた雨が地面をじっとりと濡らしている。桜の花弁は泥に混ざり合い、絨毯のように広がるどころか、小汚く散らばっているだけだった。その景色は、彼の気分そのものだった。
「畜生、俺がブサメンのキモヲタなばかりに……」
恵一は窓の外を眺めながら、心の中で呟いた。彼の顔には、いつもの自嘲的な苦笑いが浮かんでいた。
確かに、自分は美男ではない。鏡を見るたび、ため息が漏れる。丸みを帯びた顔、ぼさぼさの髪、小さな目……どれをとっても、自己嫌悪を増すばかりだ。それだけならまだしも、勉強も運動も苦手。教室にいること自体が、彼にとっては罰のように感じられた。
窓の外の桜の木が、風に揺れている。枝先にはわずかに残った花がしがみつくように揺れ、その下では花弁が泥に沈んでいる。風が吹くたびに、枯れた草と湿った土の香りが鼻先をかすめた。その自然のわずかな息吹すら、彼にとっては冷たく感じられた。
「俺って、なんでこんななんだ……」
春先の憂鬱に完全に沈み込もうとしていたその時、不意に強烈な便意が、彼の下腹部を貫いた。
「うっ……は、腹が……」
冷や汗が額を伝い、背中にじんわりと滲む。彼の内なる沈黙は突如として破られ、恵一は机に突っ伏しそうになる。曇天の空も、散り散りになった桜の花弁も、すべてが遠ざかり、今はただ、腹の痛みだけが彼の現実だった。
下半身全体を締め付けるような苦しさに、恵一は脂汗を滲ませた。鈍い痛みがじわじわと広がり、ついには全身を支配するかのようだった。苦しみはただの生理現象を超え、まるで彼の尊厳そのものを試すかのような厳しい挑戦となっていた。To be, or not to be……『恥をかきたくない』と言う超自我と『楽になりたい』と言う自然欲求がせめぎあう。すがるような面持ちで、恵一は時計を目を向けた。休憩時間まで、後30分。着席してから、まだ3分しかたっていない。体感ではその10倍以上の時間が経っていた。
恵一は恨めしそうに眉間に深い皺を刻み、のんびりと流れる時間を呪った。目の前の時計の秒針がひどく遅く見える。その一方で、腹部の痛みは確実に強まり、じわじわと全身を支配していく感覚があった。
「なぜ、こんな時ばかり……」
自嘲混じりの呟きが心の中をよぎる。ふと脳裏に浮かんだのは、学友たちの冷笑する顔だった。耳にこびりついたような嘲笑の声、漂う嫌悪感――それは恵一にとって最悪の悪夢だった。
『臭い!』
『また桂澤がやらかしたぞ!』
それは想像に過ぎない。しかし、あまりにも生々しく、現実と錯覚するほどの鮮烈さを持っていた。彼が便所に立てば、何が起こるか――立ち上がった瞬間、すべての視線が自分に集中し、冷たい言葉が降り注ぐ。そんな未来が頭を離れなかった。
「分かってる……分かってるんだ……」
恵一は小さく震える拳を机の下で握りしめた。ただでさえスクールカーストの最底辺にいる自分を、これ以上貶めるわけにはいかない。その恐怖が、彼の足をその場に縛り付けていた。それでも、痛みは待ってくれない。波のように押し寄せる腹部の圧力は増していくばかりだった。冷や汗が額を伝い、制服の襟元を湿らせる。これはまるで自然の摂理との戦いだ――そんな誇張すら現実味を帯びていた。
「負けるな、俺……!」
次々と繰り出されるボディーブローを必死の思いで受け止めながら、恵一は肛門括約筋に全力で力を込めた。全身のエネルギーをそこに集中させ、押し寄せる波状攻撃に耐えようとする。顔をしかめ、呼吸は浅く、心拍数が速まる中で、彼は自分を叱咤し続けた。
「このまま乗り切るっ……!」
声には出さずとも、内心には叫びが渦巻いていた。苦しみの中、恵一は再び時計に目をやる――休憩時間まで、あと10分。つまり、着席してから20分が経過していた。
「……まだ20分なのか……」
唇を噛みしめ、机の縁を握りしめた手に力を込める。その手には冷や汗がじっとりと滲み、不快な感触が広がっていた。腹部の痛みは鋭さを増し、まるで体内に押し込められた膨大なエネルギーが出口を求めて暴れているかのようだった。
「20分も耐えたんだ……あと10分だ……!」
彼はそう自分に言い聞かせたが、その言葉には力がなかった。痛みと恐怖の波に飲み込まれ、理性は徐々に揺らいでいく。
窓の外では、春の曇天の下で遠くの体育の授業が聞こえる。笑い声、ボールが弾む音――それらは穏やかで、無縁の世界の音だった。その穏やかさが、むしろ恵一の苛立ちを煽る。
「みんな、普通にしてるんだよな……」
自分だけがこの苦しみを抱え、誰にも知られずに耐えている。その孤独感が、さらに痛みを際立たせた。
教室内の音は相変わらず遠い。ノートに書き込む音、教科書をめくる音、そして時折の笑い声。それらすべてが恵一を置き去りにし、取り残しているようだった。
「俺だけ……こんな目に……」
悔しさと自嘲が混じり合い、彼の心を支配する。しかし、耐え続けた20分間は、彼の中でわずかな誇りとなっていた。「あと少し」と思えるだけの理由がそこにあった。
「あと10分……あと10分だ……!」
恵一は再び肛門括約筋に力を込め、下腹部の圧力を押し返そうとする。20分を耐え抜いた自分へのわずかな称賛と、残り10分の恐怖が、彼の中で複雑に絡み合っていた。
しかし、その瞬間――。
未だかつてない絶望感が、容赦なく彼を襲った。腹部から湧き上がるあまりに大きな便意は、彼の意識を一瞬遠ざけるほど強烈だった。やっとの思いで山頂に登り詰めたと思ったら、その先には断崖絶壁が待ち構えている――そんな絶望的な感覚が、全身を駆け巡る。
20分にわたり続いた超自我と自然欲求の激闘は、ついに終幕を迎えた。そして勝者は後者だった。恵一は、己の自尊心が敗北感に塗りつぶされるのを感じた。
「せ、先生……」
おずおずと手を挙げる恵一。声はか細く震え、彼の中で湧き上がる恐怖が隠しきれない。
「く、クソしてきていいですか?」
その瞬間、教室は爆発したように笑い声の渦に包まれた。学友たちは、机を叩き、涙を流しながら笑い転げる。教師すら驚愕し、言葉を失ったまま恵一を見つめている。
笑い声に囲まれた瞬間、恵一はハッとした。自分の犯した取り返しのつかない過ちに気づいたのだ。
「なんで……なんで言っちまったんだ……!」
恵一の中で後悔が渦を巻く。教室にいる学友たちは、別に彼を便所まで追いかけるわけではない。つまり、便所とは彼らの観測が及ばない密閉空間であり、そこで何が行われているかを知る術はない。
『小便をしている恵一』と『大便をしている恵一』――この二つの可能性が、便所という箱の中で同時に存在し得る。この状況は、まさに『シュレディンガーの猫』そのものだった。
しかし、恵一は、その可能性の均衡を自らの不用意な一言で崩してしまった。この告白により、観測者たちは『大便をしている恵一』という唯一の現実を確定してしまったのだ。
「畜生……俺が……俺が……!」恥ずかしさと悔しさに、恵一の顔は真っ赤に染まり、目には涙が溢れていた。鼻水をすすり上げながら、肩を震わせる彼に向けられる視線は、もはや哀れみすら含んでいた。
教室の笑い声が次第に薄れていく中、恵一は一人取り残されたように感じた。自然欲求でも自然の摂理でもなく、彼を敗北に追いやったのは、間違いなく己自身の不用意さだった。その事実が、何よりも彼の心を深くえぐった。
恵一は、恥ずかしさと悔しさに、鼻水を垂らしながら、涙を流した。




