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最後の特訓

夜空には雲ひとつなく、満天の星々が冷たい輝きを放ち、庭全体に淡い光が降り注いでいた。庭の中心には美しく手入れされた芝生が広がり、その上には大きな池が穏やかな水面をたたえている。風がほとんどないため、水面には星空が鏡のように映り込んでいた。庭を囲む木々は、闇の中でシルエットを描き、静かに夜の音を吸い込んでいる。


京介と恵一は、庭の中央で向き合っていた。冷たい夜気が二人の間を流れるが、緊張感を孕んだ空気がそれを打ち消している。


「行きますよ、桂澤さん」


京介の声は静かだが、その中には厳しさと励ましの両方が込められていた。

恵一は深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺に入り込み、意識を研ぎ澄ませていく。模擬試合は明日。この稽古が、勝負の行方を決める最後の調整だった。恵一はその重みを痛感しながら、集中しようと努めた。


「はっ!」


彼は全身を使い、魔力を放とうとする。感性力(ジンリヒカイト)悟性力(フェアシュタント)を意識して術式を組み上げるが、流れるような一連の動きにはまだぎこちなさが残っていた。放たれた魔力は確かに力強いが、狙いは定まらず、軌道は散漫だった。

京介は、流れるような動きでそれを回避する。彼の足音ひとつ立てない動きは、夜の静寂と一体化しているようにさえ見えた。


「まだ力が散漫です。狙いを絞り、認識(エルケントニス)から超越(トランツツェンデンツ)までの一連のプロセスを再確認してください」


京介の指摘は的確で冷静だった。その声には非情さはなく、ただ正確な指導の意図が込められている。

恵一はうなずき、再び構えを取った。何度も繰り返す中で、動きは少しずつ滑らかさを増していく。感性力(ジンリヒカイト)悟性力(フェアシュタント)がかみ合い始め、術式の威力がわずかに安定してきたのを感じた。冷たい汗が背中を流れ落ちる感覚を覚えながらも、恵一は自身の成長の兆しに気付いていた。


「よし、今のは悪くないですね」


京介は軽く頷きながらそう言った。その表情には、ほんのわずかな期待が滲んでいた。

恵一は膝に手をつき、荒い呼吸を繰り返していた。汗が額から滴り落ち、芝生にじんわりと染み込んでいく。彼は息が整うのを待ちながら、空を見上げた。月明かりが静かに庭を照らし、その光は彼の疲れた身体に優しく降り注いでいた。


「はぁ、はぁ……これで……いいの……?」


恵一の声はかすれていたが、その中には充実感と少しばかりの達成感が混じっていた。


「今日のところは上出来です」


京介は相変わらず涼しげな顔を崩さない。彼の息は一つも乱れておらず、その余裕が恵一にさらにプレッシャーをかけるようだった。


「ただし、明日の模擬試合では、さらに速い判断と的確な術式の応用が求められるでしょう。気を緩めないことです」


恵一はその言葉を深く心に刻むように小さく頷き、その場に腰を下ろした。疲労が全身を包む中で、不思議と清々しい気分も感じていた。それは、今日一日を全力で駆け抜けた満足感と、確かな成長の手応えが混ざり合ったものだった。

月明かりの下、京介はしばらく黙ったまま立ち続けていた。恵一の姿を見下ろし、その小さな進歩を心の中で評価していた。庭を流れる冷たい夜風が、次第に二人の間の緊張をほぐしていくようだった。


「さて、今日はここまでにしましょう」


京介の声は、どこか優しい響きを帯びていた。

恵一はその言葉を聞くと、微かに安堵の表情を浮かべ、月明かりの下で体を横たえた。空には満天の星が瞬いており、その光景は、彼の疲れた心にほんの少しの癒しを与えてくれるかのようだった。

恵一は京介のアドバイスを心に刻みつつ、地面に腰を下ろした。疲労感と充実感が入り混じり、不思議と清々しい気分だった。



稽古の後、疲れた身体を癒すため、彼は自然とこの広大な浴場へ足を向ける。高い天井に取り付けられた天窓からは、夜空が柔らかい光を湛えながら覗いていた。満月の光が静かに浴場全体に降り注ぎ、蒸気に包まれた空間に幻想的な影を落としている。


恵一は浴衣を脱ぎ、大理石の床を裸足で進む。その冷たさが心地よく、稽古で火照った体を徐々にクールダウンさせていく。壁には緑青色のタイルが敷かれ、まるで温泉宿を思わせる落ち着いた雰囲気が広がっていた。静寂の中に、時折聞こえる水音だけが響き渡る。

湯気が立ち上る広大な浴槽の縁に腰を下ろし、恵一はゆっくりと足を湯の中に沈めた。湯の温かさが、疲れた筋肉をじんわりとほぐしていくのがわかる。彼は軽く息を吐き、肩まで湯に浸かると全身が解きほぐされていくのを感じた。


「ふぅ……やっぱりここが一番落ち着きますな……」


恵一はぼんやりと湯気の向こうを見つめながら呟いた。初めてこの大浴場に来た時の圧倒的な感動は薄れていたが、今ではその贅沢さを当たり前に感じられる自分に少し驚きさえ覚えていた。

目を閉じると、今日の稽古の情景が頭に浮かぶ。京介との稽古で学んだこと、少しずつ形になりつつある術式の感覚――それらが疲労感とともに脳裏を駆け巡る。模擬試合への不安ももちろんあるが、それ以上に、自分が成長している実感が心を支えていた。


湯に沈んだ肩が軽く浮き上がるほどリラックスし、恵一は深呼吸を繰り返した。湯の熱さが心地よく、体の芯から疲れを洗い流してくれる。しばらくその状態を楽しんでいたが、ふと視線を横に移すと、浴場の隅にある露天風呂への通路が目に入った。


「せっかくだし、外の風にも当たってみるか……」


恵一は立ち上がり、湯気の中を進んで露天風呂へと向かった。

岩を模した縁で囲まれた露天風呂は、夜空を仰ぐ特等席のようだった。星々がまばらに輝き、澄んだ冷たい空気が肺に心地よく流れ込む。恵一は湯に腰まで浸かり、背中を岩に預けた。風が湯気を揺らし、ほのかな硫黄の香りが漂う。


「俺、本当にやれるのかなぁ……」


思わず漏らした呟きは、夜空に吸い込まれるように消えていった。その問いにはまだ確かな答えが見つからないが、不安の中にもわずかな自信が芽生えつつあるのを感じていた。


「やれる……いや、やるしかないんだよな」


湯の中で握りしめた拳に、自分でも驚くほどの力がこもる。

しばらく星空を見上げていた恵一は、満ち足りた気持ちで湯を上がった。湯冷めしないように浴衣を羽織り、大浴場を後にする。蒸気の中でゆっくりと流れる時間が、彼の心と体をもう一度整え、明日への準備をさせてくれるようだった。


その頃、京介は桝岡本邸の書斎にいた。書斎は、天井まで届く本棚が壁一面を埋め尽くし、その中には魔導理論や歴史書がずらりと並んでいる。重厚な机には開かれた本が置かれ、ランプの柔らかな光がページを照らしていた。

京介は、広い机に向かい、分厚い魔導理論の書籍を広げていた。その内容は非常に難解で、魔導学の最高峰とも言えるような論文が書かれている。それを片手にペンを走らせながら、彼は自らの思考を整理していた。

ふと、控えめなノック音が響いた。


「どうぞ」


ドアが開き、執事の溝呂木が静かに姿を現した。彼の表情は、いつも通り冷静だったが、どこか緊張感を漂わせている。


「御曹司様、門前に訪問者がございます」

京介は顔を上げ、ペンを置いた。


「訪問者ですか? この時間に?」

「はい。『浅井智也』と名乗る青年でございます。どうしてもお目にかかりたいと申しており、数時間にわたり門前で正座しております」

京介は眉を少し上げた。


「数時間も正座? 何か特別な用件でもあるのでしょうか?」

「それについては、『必ず直接お伝えしたいことがある』と申しております」


一瞬の沈黙が書斎に流れた。京介は軽く首をかしげると、静かに立ち上がった。

「応接室に通してください。私もすぐに向かいます」



応接室に通された浅井智也は、深々と頭を下げていた。

桝岡家の応接室は威厳と洗練が同居する空間だった。高い天井から吊るされたシャンデリアが柔らかな光を放ち、壁際には趣のある古書やアンティークの花瓶が並べられている。室内には木材の温かみのある香りが漂い、緊張した客人をほんの少しだけ和らげる効果を持っていた。


しかし、浅井の姿勢はその静かな雰囲気を一切感じさせないほどの緊張感を帯びていた。背中はまっすぐに伸び、拳は固く握り締められている。額からは薄く汗が滲み出し、その目は固い決意を宿していた。

やがてドアが静かに開き、京介が応接室に入ってきた。黒いスーツに身を包んだその姿は、桝岡家の若き当主に相応しい気品と威厳をまとっていた。


「お待たせしました」

京介の声は静かで落ち着いていたが、それだけで相手を圧倒する力を感じさせた。浅井はすぐに頭を上げ、京介の姿を確認すると、さらに深く頭を下げた。


「どうぞお座りください」

京介が手でソファを示すと、浅井は一礼して慎重に腰を下ろした。その動きには一切の隙がなく、彼の緊張が如実に表れていた。


京介も向かいのソファに腰を下ろし、浅井の顔を静かに見つめた。その視線には圧迫感はなく、それでいて相手の真意を見抜こうとする鋭さがあった。


「浅井さん、わざわざお越しいただいた理由をお聞かせいただけますか?」

その声は柔らかいながらも威厳に満ち、浅井の背筋をさらに伸ばさせるようだった。


浅井は拳を握りしめ、一度深呼吸をした。その目はまっすぐ京介を見据え、瞳の奥には揺るぎない決意が宿っている。


「桝岡……どうか、あいつをなんとか勝たせてやってくれ! 明日の模擬試合、あいつが勝つためには、あんたの力が必要なんだ!」


その言葉と共に、浅井は再び深く頭を下げた。その姿勢には、自分のすべてを懸けて恵一を応援する覚悟がにじみ出ていた。

京介は少し目を細め、浅井の動きを一瞬見つめた。その視線は冷静で、相手の真意を見極めようとするように鋭く、それでいて決して威圧的ではなかった。


「なぜそこまで必死なのですか?」


その問いは淡々としていたが、浅井の心に深く刺さるものがあった。

浅井は顔を上げ、再び京介の目を見つめた。その表情には迷いはなく、ただまっすぐな熱意がこもっていた。


「あいつに会ってまだ数日しか経ってないけど……なんかほっとけなくて」


浅井は言葉を探しながらも、自分の気持ちを率直に語った。


「俺、学園がみんなにとってもっと楽しい場所になればいいと思ってるんだ。編入生のあいつだって、不安やプレッシャーを抱えてるはずだろ。だから、あの傲慢な星岡に負ける姿なんて、見たくないんだ!」


その言葉には浅井自身も驚くほどの情熱が込められていた。京介はその言葉をじっと聞きながら、浅井の目を見つめ続けた。そして、ほんの少しだけ頷いた。


「確かに、桂澤さんには特別な才能があります。しかし、彼の精神的な未熟さは否定できません。そのような彼を支えようとする浅井さんの気持ちは、彼にとって大きな力になるでしょう」

京介の冷静な言葉に、浅井の緊張が少しずつ緩んでいくのが見て取れた。彼は再び深々と頭を下げた。


「俺にできることがあれば、何でもする! だから、どうかあいつを勝たせてやってくれ!」


その言葉を受け、京介はしばらく沈黙した。何かを考えるように目を閉じ、浅井の真剣な思いを胸に刻み込むようだった。


「ご安心ください」

静かな声で京介が口を開いた。その言葉はどこか穏やかでありながら、確固たる自信に満ちていた。


「桂澤さんは、明日の模擬試合で必ず勝利を収めます」

その一言が、浅井の胸に深く響いた。


「本当か……?」


京介は微笑みを浮かべた。その笑みには疑いようのない確信があった。

「私が保証します。桂澤さんは、彼自身が気づいていないだけで、途方もない才能を持っています。そして、その才能を最大限に引き出すのが私の役目です」

浅井はその言葉に安堵したように大きく息を吐き、再び深々と頭を下げた。


「ありがとう……本当に、恩にきるぜ!」


京介は浅井の目をじっと見つめながら、心の中で静かに決意を固めた。この青年を桂澤恵一の精神的な支えとして取り込むことが、恵一の成長には欠かせない。

浅井が去った後、京介は応接室に一人残り、夜の静けさの中で微かに呟いた。


「さて、明日は楽しみな一日になりそうですね……」

その言葉は、誰にも聞かれることなく応接室の静寂に溶けていった。

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