特訓(魔導理論)
恵一は息を切らせながら、桝岡邸の広大な庭園を駆け抜け、再び書斎に戻った。京介との個人授業が開始される時間が近づいていた。星岡との模擬試合まで残された時間はわずかだという現実が、彼の焦燥をいやがうえにも煽っていた。
書斎の扉を開けると、すでに京介がノートと教本を広げて待っていた。彼の整然とした佇まいには、どんな局面でも揺らがない安定感が漂っている。
「お帰りなさい、桂澤さん。まずは今日の予定を確認しましょう」
京介は手元のノートをめくりながら言った。
「模擬試合に向けて、理論の基礎を固めます。感性力と悟性力、それから統覚コヒーレンス係数についての具体的な演習です。午後には実践的な術式の練習に入ります」
恵一は椅子に座ると同時に深いため息をついた。
「京介氏、こんな短期間で本当に間に合うのかね……あの星岡ってやつ、明らかに俺とは別次元なんですが」
京介は微笑を浮かべ、静かに首を振った。
「間に合うかどうかではありません。やり遂げるのです。あなたにはその可能性があります。星岡さんとの模擬試合に勝つには、理論の基礎が欠かせません。それを理解するための時間は十分にありますよ」
その言葉に少しだけ元気づけられた恵一は、手元のペンを握り直した。
「……わかったよ、京介氏。よろしく頼み申す!」
「まず、物自体と現象について、復習しましょう」
京介は恵一の机にノートを広げると、スラスラと数式を書き始めた。
「物自体は、人間の意識が通常触れることのできない、本質的な存在です。そして、現象は、その物自体が感性力と悟性力を通じて私たちに現れる形、つまり認識可能な姿です」
京介はさらにノートに図を描き加えながら続けた。
「魔導士の特性は、この物自体に触れる力にあります。ただし、完全に知覚するのではなく、その痕跡や波動を感知するのです。これを『触覚的アクセス』と呼びます。そして、その感知した本質を現象として現実に再構築する力が『投影的アクセス』です」
京介はノートに描かれた円の一部を指し示した。
「この『アクセス』が可能なのは、感性力と悟性力が高度に調和しているためです。魔導士の訓練とは、この調和を高めることにほかなりません」
恵一は眉をひそめながら問いかけた。「つまり、魔導士じゃないと物自体に触れることもできないってこと?」
京介は静かに頷いた。「その通りです。物自体へのアクセスは、魔導士だけが持つ特殊な才能によるものです。それが、魔導士を他の存在と一線を画する理由でもあります」
さらに、京介はノートに簡単な図を付け加える。
「魔導理論においては、物自体へのアクセスが最初の大きな壁となります。物自体は通常、人間の意識が直接触れることはできません。これにアクセスするプロセスを認識と呼びます。これは、術式使用者が意識を集中させ、物自体の一部を認識する段階です。ここで注意してほしいのは、認識の精度が低いと、その後のプロセス全体が崩れてしまうことです」
京介はノートに細かい線を引きながら、恵一に向けて説明を続けた。
「現象、つまり私たちの認識が作り出した世界は、通常、術式使用者自身にしか影響を及ぼしません。しかし、術式の本質は、この現象を他者に共有可能な形で表現することにあります。このプロセスを『超越』と呼びます」
「ぐふぅっ!?超越……?」
「そうです。簡単に言えば、術式使用者が自己の認識を超えて、現象を外部の現実に作用させることです。これにより、魔導が初めて現実の物理的な現象として他者に影響を与えることが可能になるのです」
恵一はしばらく考え込んでいたが、やがて思い出したように顔を上げ、ふとした疑問を口にした。
「ところで、離散型と連続型って、結局どういう違いなんだ?」
唐突な質問に、京介は微笑みながらリズミカルに指先でテーブルを軽く叩いた。その仕草には、恵一の問いに答える準備が整っている余裕が漂っていた。
「簡単に言えば、物自体に対する触覚的アクセスと投影的アクセスのプロセスの違いです」
恵一は少し首を傾げる。その仕草を確認した京介は、さらに言葉を重ねる。
「たとえば、物自体を認識するとき、離散型はその情報を論理化し、抽象化して整理します。つまり、悟性力を駆使して複雑なものを簡潔にまとめ上げるアプローチです。一方、連続型は物自体をそのまま忠実に理解しようとします。感性力を拡張し、細部まで逃さず、ありのままを受け取ることを重視するんです」
京介の説明は簡潔で理路整然としていたが、その内容は恵一にとって少し抽象的だった。恵一は再び考え込み、やがて目を細めながら口を開いた。
「つまり、離散型ってのは効率よくサクッとまとめるタイプで、連続型は細かいところまでガチ忠実に再現する職人タイプって感じでOK?」
京介は軽く頷くと、やわらかな声で補足する。
「その通りです。それぞれのアプローチには長所と短所があり、学園での模擬試合のような場面では、それぞれのスタイルが自然と現れるでしょう」
その言葉に、恵一は少し眉間に皺を寄せながらも、あることを思い出したようだった。
「でもさ、星岡氏が連続型の方が優れてるみたいなこと言ってたんだよな」
京介はそれを聞いて軽く肩をすくめ、皮肉げな笑みを浮かべた。
「星岡さんは連続型至上主義ですからね。少し偏った見方をしていると言えます。確かに、連続型は物自体を忠実に理解する分、情報量が膨大になります。その結果、一つの術式を極めるには離散型より時間がかかるのですが、その分、極めた時の精度や威力は高い傾向にあります。ただし、離散型は多くの術式を効率よく習得することが可能です。一つに特化する連続型に比べ、柔軟性に優れていると言えるでしょう」
恵一はその言葉を反芻するように小さくうなずいた。
「つーことはさぁ、連続型って一つのことにガチ特化するのはいいけど、その分、視野狭窄になりがちっていうリスクもあるってことだよね?」
京介はその通りだと言わんばかりに頷く。
「その通りです。連続型の魔導士は一芸に秀でた人が多いですが、悪く言えば蛸壺に陥りやすい。星岡さんもその例外ではなく、彼の得意とする一斉射撃とその派生系以外の術式はほとんど使えません」
恵一はその説明を聞いて、肩をすくめながら窓の外を見る。
「なるほどなぁ……でも、そういう特化型の方が格好良く見えるんだよな」
京介は穏やかに笑いながら答えた。
「確かに見栄えはしますが、戦いでは柔軟性が重要です。桂澤さんも自分の特性をしっかり理解して、どちらのスタイルが適しているかを見極めることが必要です」
恵一は真剣に耳を傾けながらメモを取ったが、眉間には深い皺が寄っていた。「連続型と離散型の違いは何となくわかったけど、そもそも、どうやってその物自体とやらにアクセスするんだよぉ?ただ集中すりゃOKとか、そんなイージーモードじゃないよなぁ??」
「いい質問ですね」京介は笑みを浮かべながら、さらに詳細な図を描き加えた。
「物自体へのアクセスは、感性力が鍵となります。そして、現象としての再構築には悟性力が必要です。これらが調和して働くことが、術式成功の条件です。ここで重要なのが、統覚コヒーレンス係数です」
「感性力が、物自体を捉える基盤になることは分かったんだけど……。でも、この『統覚コヒーレンス係数』って何だ?これが高いと、何が良いんだ?」恵一は眉間にしわを寄せながら、教科書を指でトントンと叩いた。
京介は机越しに微笑み、彼の焦燥を落ち着かせるように穏やかな声で答えた。「焦らなくて大丈夫です、桂澤さん。この部分は、学園でもまだ全員が完全に理解できているわけではありませんから。まず、統覚コヒーレンス係数というのは、感性と悟性の調和度を示すものです。感性力がいくら高くても、それを現象として再構築する悟性力が足りなければ、術式は不安定になりますよね?」
京介は手元のノートにさらさらと何かを書き始めた。恵一の目の前に、ガウス平面が描かれ、その上に円を描き込む。
「たとえば、この円を見てください。この半径R が感性力、角度Θが悟性力の位相を表します。そして、実際に術式を発動させるためには、この二つが調和して動く必要があります。この調和を測る指標が、統覚コヒーレンス係数です」
恵一は頷いたものの、どこかぼんやりした表情を浮かべていた。
「その調和が乱れると、どうなるんだよぉ?」
「いい質問ですね。調和が乱れると、こうなります」京介はノートの隣に別の図を描き、波の振幅が不規則に崩れる様子を示した。「術式が失敗したり、出力が不安定になります。最悪の場合、術者自身に負荷がかかり、魔力の暴走が起きる可能性もあります」
恵一はその説明にぞっとした表情を浮かべたが、次の瞬間には口をへの字にして真剣な顔に戻った。
「じゃあ、その調和を高めるには、どうしたらいいんだよぉ?」
京介は微笑みを深め、立ち上がって書棚から一冊の古い本を取り出した。
「基本は、感性力と悟性力のバランスを取る練習を積むことです。この『認識訓練』がそれに当たります。この本に記載されている方法を使えば、少しずつ統覚コヒーレンス係数を高めることができますよ」
恵一はおずおずと本を受け取り、その分厚さにたじろいだ。
「こ、これ全部?!」
「最初から全部覚える必要はありません。一つ一つ、基本から始めていきましょう」京介は肩をすくめて笑った。「たとえば、物自体を感知する練習です。この感性力の訓練には、まず集中力が必要です。物自体とは、我々が通常認識できない物自体です。これを感知するためには、心を空にして感覚を鋭敏にしなければなりません」
京介はテーブルの上に小さな球体を置き、それを指差した。
「では、この球体に意識を集中してみてください。ただの物体としてではなく、その背後にある本質を感じ取るのです」
恵一は緊張しながら、球体に目を凝らした。しばらくして、彼は顔をしかめた。
「えっと……ただの金属の玉にしか見えないけど……」
京介は微笑みを浮かべながら頷いた。
「最初はそれでいいんです。ただ、意識を集中させ続けることで、徐々に現象を超えた物自体に触れることができるようになります」
恵一はため息をつきながら椅子に寄りかかった。
「学園でさ、これ練習してるけど、みんなそれぞれ違うこと感じ取ってて、正直カオスなんだが。そもそも、『正しい感覚』ってあるの?」
「正しい感覚などありません。それぞれの術者が物自体にどうアクセスするかは個々の感性次第です。ただし、感性と悟性を結びつける訓練は誰にでも有効です。あなたにはその素質がありますよ」
恵一の額には汗が浮かび、握り締めた手が震えていた。星岡との模擬試合まであと数日。焦りと不安が混じり合い、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
「俺、こんなのできるようになるのかなぁ……」
思わず呟くと、京介は手を止めて彼を見つめた。
「桂澤さん、大切なのは自分を信じることです。理論は手段に過ぎません。あなたの中には、すでに十分な力が眠っています」
京介は恵一の肩に手を置くと、噛んで含めるように諭した。
「あなたの感性力は通常エリートと呼ばれる魔導士の約300倍程度と推定されます。私と比べても約1.2倍程度です。これは非常に稀有な才能です。ですが、感性力だけでは不十分なのです。悟性力、つまり知覚と判断力、そして制御力を高めることが重要になります」
恵一は驚きの表情を浮かべながら、京介の言葉を噛み締めた。
「つーか、俺の設定……そんな強キャラみたいになってるの? 嘘でしょ、俺、ただのモブキャラだと思ってたんですけど!?」
京介は微笑みながら頷いた。
「その通りです。そして、感性力は、生まれつきの上限がありますが、悟性力は鍛錬で向上可能です。悟性力と制御力を伸ばすことさえできれば、あなたの力はさらに飛躍するでしょう」
恵一は自信と不安が入り混じった表情を浮かべながら、再びメモを取り始めた。彼の内心には、自分の可能性への期待と、未知の力への恐れが渦巻いていた。
その言葉に、恵一は深く息を吐き出し、ノートを見つめ直した。少しずつだが、彼の中に希望の光が灯り始めていた。