理事長――釈尾 朋華
入学手続きを終えた恵一が案内されたのは、白金魔導学園の理事長室だった。その扉の前に立った瞬間、自然と息を呑む。磨き上げられた黒檀製の扉は、重厚な存在感を放ち、手を触れるのをためらわせる冷たささえ感じさせた。その向こうには、学園の中枢とも言える場所が広がっている――そう思うと、恵一の胸の鼓動がわずかに高まった。深呼吸を繰り返し、小刻みに震える手でノックをすると、内側から冷徹な声が響いてきた。
「入るがよい」
その短い一言には、絶対的な威圧感と権威が宿っていた。恵一は恐る恐る扉を押し開ける。理事長室は期待を裏切らない壮麗さだった。天井に施されたステンドグラスからは柔らかな光が差し込み、床には見事なペルシャ絨毯が敷かれている。壁には歴代の理事長たちの肖像画が飾られ、それぞれの鋭い視線が来訪者を圧倒するかのようだ。
その中心に佇む女性――釈尾朋華――の姿が恵一の目に飛び込む。彼女は椅子に腰掛け、背筋をまっすぐに伸ばしてこちらを見つめていた。整った顔立ちは、ただ美しいだけではない。内に秘めた強さと揺るぎない自信が、その佇まいから溢れ出している。完璧にまとめられた黒髪、洗練されたデザインのスーツ。そのどれもが、彼女がこの学園の頂点に立つ存在であることを物語っていた。
「君が桂澤恵一であるな?」理事長の問いに、恵一はぎこちなく頷きながら答えた。
「はい! その……えっと、お、俺が桂澤でありますっ!」
釈尾は一瞬彼を見つめた後、静かに立ち上がった。その仕草は無駄がなく、見る者に威厳と気高さを感じさせる。
「君がこの白金魔導学園に編入する初めての例だということは理解しているな? 君は特例中の特例であり、それだけの期待がかかっているのだ」
恵一は緊張で口がカラカラになりながら、曖昧に頷いた。
「えっと、その……正直、魔導とかほぼエアプなんですけど……でもここでガチでワンチャン頑張っていきたいと思います!!」
その言葉に、釈尾の眉が微かに動いた。驚きや怒りではなく、興味深げな目を向ける。
「君は、自分がこの学園にいる意味を理解していないのか? それとも単なる無知なのか?」
「えっ……あ、あう、あ、あうあ」
恵一は答えに窮し言葉を詰まらせた。
釈尾は冷ややかな目で恵一を見据え、低く鋭い声で問いかけた。
「君は、この学園で成功するために最も重要なものが何だと思うかね?」
釈尾の問いに、恵一は息を詰めた。彼女の瞳は鋭く、あらゆる逃げ道を封じるようにこちらを射抜いている。動揺した恵一は、喉の奥で音を立てながら、ようやく言葉を絞り出した。
「えっと……その、人間力……ですか?」
彼の答えを聞いた瞬間、釈尾の表情は無表情に凍りついた。次いで、室内に響く控えめな失笑――理事長室の隅にいた秘書が、思わず咳払いで誤魔化す。
「違う」
釈尾は冷ややかに一言で否定した。その声には、恵一の未熟な答えを容赦なく切り捨てる確信が込められていた。彼女は静かに歩み寄り、そのヒールの音が重く響き渡る中、言葉を続けた。
「答えは実に単純だ――『力への意志』だよ」
その瞬間、恵一は彼女の言葉に飲み込まれるような感覚を覚えた。釈尾の声には冷徹な確信が込められ、その言葉一つひとつが厳然たる真理のように響いていた。
「この学園は、徹底した実両主義……しかし、ただの実力だけでは不十分だ。力を求め、力を伸ばし続ける意志――それこそがすべてを決める。それ以外の要素に頼る余地など微塵も存在しない」
釈尾の冷ややかな言葉は、恵一の心に深く突き刺さり、彼を揺さぶった。それは単なる冷たい叱責ではなく、彼の中の可能性を見抜き、その可能性を引き出そうとする無慈悲な試練のようでもあった。
「この白金魔導学園に入るということがどういう意味を持つか、まずは理解してもらおう」
彼女は壁に飾られた歴代理事長の肖像画の最左を指差した。そこには威厳に満ちた老紳士が映っている。
「この学園は今から160年前、恩田宗治郎によって設立された。彼は桝岡家初代当主、桝岡陽太郎閣下の右腕と称された人物であり、帝国魔導界の基礎を築いた功績者だ。当時、帝国は内外の脅威に晒され、強力な魔導士の育成が急務だった。宗治郎はその使命を果たすべく、この学園を設立したのである」
釈尾は腕を組んで、再び厳しい視線を恵一に向けた。
「設立当初から、ここは単なる教育機関ではなかった。この学園の目的は、単に優秀な魔導士を育てるだけでなく、帝国の未来を担うリーダーを育成することにある。それ故、教育方針は徹底した優勝劣敗に基づいている。――まさに、『万人の万人に対する闘争』さ。実力を持つ者だけが評価され、怠ける者は容赦なく切り捨てられる」
ここまで一気に説明すると釈尾は一息ついた。
「ここまでで、何か質問はあるかね?」
恵一はその厳しい口調にさらに縮こまりながらも、意を決して質問をした。
「あの、理事長……。学園の食堂って、バイキング形式ですか?」
その発言に、今度は秘書が笑いを堪えきれずに咳き込んだ。
「バイキング形式、だと?」釈尾は一瞬驚いたように彼を見たが、すぐに冷ややかな表情を浮かべた。「そのような些末なことに関心を持つ余裕があるとは、大した胆力だな」
「は、はい! すみません……」
恵一は慌てて頭を下げた。
釈尾は軽く首を振り、冷たく言い放った。
「ここでは、全員が競争相手であり、馴れ合いは許されない。学年ごとにAからFまでの6クラスに分けられ、毎年1クラスずつ淘汰される。最終的に卒業できるのは入学者の半分以下。その過程で生徒たちは、自己研鑽と他者への戦略的な対処法を学ぶのだ」
恵一は釈尾の話を聞きながら、背中に冷や汗を感じていた。この学園が持つ空気は、ただの競争を超えている。それは、生き残るために全力を尽くさねばならないという、残酷な現実を象徴していた。
「君がこの学園で何を学ぶか、何を成し遂げるか。それはすべて君次第だ。甘い考えは捨てろ。この場では実力が全てを決める」
釈尾は鋭い瞳で恵一を見据え、最後にこう付け加えた。
「繰り返すが、誰も信用してはならない」
その一言が恵一の胸に突き刺さるように響いた。彼女の言葉の裏には、彼が今後直面するであろう試練の全てが詰まっているように思えた。
釈尾は一瞬微笑みを浮かべた。その笑みには、冷たさと余裕、そして彼女の中に潜む圧倒的な自信が滲み出ていた。
「最後に一言だ」
その一言に恵一は思わず息を呑む。釈尾は、凛とした姿勢を崩さずに言葉を続けた。
「白金魔導学園に――ようこそ」