新しい朝
柔らかな朝日が、高い窓からそっと差し込み、豪奢な絨毯と調度品に静かに影を落としていた。恵一は、まだその快適さに馴染めない高級ベッドの上で目を覚ました。シーツの柔らかな感触は、まるで雲を撫でるような心地よさで、昨夜の出来事がただの夢だったのではないかと思わせるほどだった。
「俺、まだ夢を見ているのか……?」
彼はかすかな声で呟き、天井を見上げた。そこには、きらびやかな装飾が施されたシャンデリアが輝いており、その光景は非日常の重みを帯びて彼の心に迫った。ここは桝岡家の邸宅――昨夜、京介に連れられて初めてその扉をくぐった場所。彼は胸の奥に微かな重圧を感じながら、再び静かな朝の光の中に身を横たえた。
その時、扉がノックされ、恵一の考えを断ち切った。
「おはようございます、桂澤様」
低く響く、しかし丁寧な声。それは執事の溝呂木だった。彼は優雅に扉を開け、手には黒い布を折り畳み丁寧に抱えていた。
「これは、本日から桂澤様にご着用いただく白金魔導学園の制服でございます」
その一言に、恵一は目を丸くして反応した。
「白金魔導学園って、あの……? いやいや、待ってくださいよ! 俺、普通の高校生ですよ? そんな名門の制服なんて……!」
溝呂木は微笑を浮かべ、動じることなく続けた。
「どうぞご心配なさらず。こちらの制服が似合わない方など、これまでお見かけしたことがございません。それに、桝岡様がすべて手配済みですので、どうぞ安心してお召しください」
恵一は渡された制服をそっと広げた。漆黒の生地に施された白銀の刺繍が、朝の柔らかな光を受けて静かに輝き、その一着がただの衣服ではなく威厳と品位の象徴であることを感じさせた。肩章に縫い込まれた学園のエンブレムは、金糸で丹念に描かれ、その繊細な細工には、一針一針に込められた職人たちの魂が宿っているかのようだった。
「ちょ、ちょっと待ってください! これ、俺が着るんですか?」
「はい、それにふさわしいのは、桂澤様以外にはおりません」
溝呂木の返答は揺るぎなかった。その声には確信があり、どんな抗議も受け付けない雰囲気を漂わせていた。
白金魔導学園――それは帝国内で最も名高い魔導学園であり、選ばれた者だけが進学を許される場所だ。帝国の教育は大きく普通科と魔導科に分かれ、魔導科に進むのは臣民の5%程度に過ぎない。その中でも極めて優れた才能を持つ者だけが白金魔導学園の門をくぐることを許される。
学園は、単なる教育機関ではない。そこは帝国魔導界の中枢を担う人材を育成し、国家の基盤を支える「選ばれた者」の聖域とされている。
恵一は制服を見つめながら言葉を失っていた。
「でも……俺、普通の高校生なんですよ?」
戸惑いの中で呟く恵一に、溝呂木は穏やかに笑みを浮かべた。
「桂澤様、普通であろうとなかろうと、今やその制服は貴方のものです。さあ、お着替えください」
その言葉に押し切られるようにして、恵一は制服を手に取った。
恵一には知る由もないが、実はこの白金魔導学園は桝岡家の影響下にある。帝国には「四大名家」と呼ばれる魔導の名家が存在し、それぞれが地域ごとに強い影響力を持っている。
東北と北海道を掌握する中御門家、西日本を統べる西園寺家、九州を拠点とする周防家、そして関東を中心に首都圏全域を支配する桝岡家。この四家は、魔導の実力だけでなく、政治・経済・軍事においても絶大な権力を握る存在だ。
桝岡家が手掛ける白金魔導学園は、次世代の魔導界を支える若き精鋭を育成する場であると同時に、桝岡家の影響力を国内外に示す象徴でもあった。
制服に袖を通し鏡の前に立った恵一は、自分の姿に驚いた。少し腹周りが窮屈そうではあったが、漆黒の布地が不思議と小太りの体型に馴染んでいる。かつての冴えない高校生だった自分とは違う、どこか特別な存在になったような錯覚を覚えた。
「なんか……すごいな、俺……」
まだ信じられない思いで階下へ向かうと、玄関先で待っていた京介の目に、その姿が映った。
「おはよう、桂澤さん。よく似合っていますよ」
京介の言葉に、恵一は少し照れながらも頷いた。
京介はリムジンの扉を開きながら続けた。
「今日からあなたは白金魔導学園の生徒です。高校2年からの編入は非常に特例で、前代未聞のことですが、あなたにはそれだけの才能があります。そして、それだけの理由もあるのです」
リムジンに乗り込んだ恵一の顔には戸惑いの表情が浮かんでいたが、京介の口調は変わらず穏やかだった。
「白金魔導学園に進学する理由は二つあります。一つは、あなた自身が魔導の基礎と理論を体系的に学ぶ必要があるということです。これまであなたは自分の力を無意識のうちに発揮してきました。しかし、制御を学び、理論を理解することで、あなたの力はさらに大きな可能性を秘めています」
一呼吸置き、京介は続けた。
「もう一つは、あなたを保護するためです。白金魔導学園は桝岡家の影響下にあります。学園内での生活は、あなたにとって安全であり、同時に最適な学びの場となるでしょう」
恵一は京介の言葉の重みを噛み締めるように小さく頷いた。その様子に、京介は満足そうに微笑んだ。
リムジンが学園の正門に滑り込むと、恵一の目の前に広がったのは壮麗なる白金魔導学園の建物だった。その塔は天を突くようにそびえ、優美なアーチは時の流れを超えた調和を語っている。石の一つひとつに刻まれた伝統と威厳が、静かに、しかし確かに恵一の心に響き渡った。
リムジンから降りた京介は、恵一の肩に優しく手を置いた。
「これからあなたが進む道は決して平坦ではありません。しかし、あなたにはそれを乗り越える力があります。まずは入学手続きを済ませ、理事長に一人で会いに行ってください」
「一人で……理事長に?」
「そうです。あなたがここに来た理由を自分の言葉で語ること。それがあなたの新たな一歩となるでしょう」
京介の言葉に静かに勇気づけられ、恵一は小さく頷いた。その手に握られた書類は、ただの紙束ではなく、彼にとって未知の未来への扉のように思えた。
京介は穏やかな微笑みを浮かべ、リムジンの扉を音もなく閉じた。その瞬間、恵一の背中に微かな風が吹き抜けるように感じられた。彼は一度振り返ることなく背筋を伸ばし、荘厳な白金魔導学園の正門をくぐり抜けた。その足取りには、これから始まる物語の重みと微かな期待が滲んでいた。