エリア17の神童
帝暦41年
帝都・東京エリア17(旧大田区)――ここには、帝国屈指の財力と名声を誇る魔導の名家、桝岡家の本邸がそびえている。高級住宅街の一角に位置するこの邸宅は、厳重なセキュリティーに守られたゲートと荘厳な装飾が施された正面玄関を備え、その佇まいは一目で要人の住まいと分かるほどの威厳を放っていた。
この豪奢な館に住むのは、桝岡家次期当主筆頭候補と目される桝岡京介。17歳の高校二年生である彼は、家の期待を一身に背負い、日本魔導界の未来を担うリーダーとしての道を歩んでいる。
京介の特徴的なくせ毛は額の中央できっちりと分けられ、その間から覗く朧げな瞳には、その年齢に似つかわしくない使命感が煌々と宿っていた。それもそのはず、彼は次期当主としてだけでなく、若くして魔導界のエリートとしての地位を確立していた。
彼が魔導の才能に目覚めたのは、わずか3歳の時だった。それから14年余りで彼が積み上げた功績は計り知れない。世界最高権威の魔導学術誌「ソーサリー」と「ウィザードリィ」に掲載された論文は20篇以上にのぼり、魔導省から3度の叙勲を受けるという、普通の魔導師であれば一生かけても成し得ない偉業を次々と達成してきた。
その卓越した才能と功績に、人々は畏敬の念を込めてこう呼んだ。
――「神童」。
京介の朝は早い。
控えめなノック音が部屋に響き、彼は目を覚ました。寝台のカーテン越しに漏れ入る朝陽が、柔らかな金のベールを部屋全体に広げている。外からは鳥たちのさえずりが微かに聞こえ、遠くには庭師が手入れをする剪定鋏のリズミカルな音が風に乗って届いていた。
彼は目を開けると、天蓋の淡い青い刺繍を見上げながら深呼吸をした。窓の外では、朝露を含んだバラの花弁がきらきらと輝き、低木に張った蜘蛛の巣が虹色に光を反射しているのがちらりと見えた。
「御曹司様、脱糞のお時間でございます」
低く穏やかな声が部屋に響く。声の主は、長年桝岡家に仕える執事の溝呂木。彼の整然とした態度と声色は、静かな部屋に穏やかな波紋を広げるようだった。
「分かりました、溝呂木さん」
京介は軽く身を起こし、寝間着の襟元を整えると、執事の案内に従い支度を始めた。
部屋を出ると、廊下には窓から射し込む朝の光が長く伸び、古い絨毯の模様をくっきりと浮かび上がらせていた。外庭に面した大理石の便所に向かう途中、窓からは濃緑の木々が風に揺れる様子が見えた。湿り気を帯びた朝の空気が開け放たれた窓から流れ込み、鼻先に草木の青々とした香りを運んでくる。
大理石の便所にまたがると、京介は寝ぼけ眼をこすりつつ、軽く息を吐き、フンっと気張る。
ブリッ ブリブリ
軽快な音とともに直腸から放たれた排泄物は、ほんのりと薔薇の香りに包まれた水の中に、ゆっくりと吸い込まれていく。
排泄の間、彼の視線は便所の高窓に移り、そこからは青空が切り取られて見えた。その青さの中に、時折一羽のツバメが速やかな軌跡を描きながら通り過ぎる。
「いやはや、これは立派なお便でございます。当代当主様もお喜びになることでしょう」
溝呂木は静かに微笑み、恭しく頭を下げる。
「では、尻拭き係をすぐにお呼びいたします」
溝呂木はパンッパンッと二度程高らかに手を鳴らし、合図を送る。すると、奥の控室から巫女姿の幼女が現れた。8歳くらいの小さな女の子である。
「おんぞうししゃま、おしりをおふきいたしましゅ」
辿々しくも、一生懸命な声で幼女は言った。
幼女の言葉に無言で微笑み返すと、京介は排便が済んだばかりの汚れた尻を差し出した。
「溝呂木さん、本部から何か特別な報告は受けていますか?」
最高級カザンラク産のマセレートオイルで丹念に京介の臀部を磨く幼女を尻目に、彼は尋ねた。
「大したことではございませんが、帝国中央情報局より、例の件について報告が届いております」
恭しくお辞儀をしながら答えると、溝呂木はおもむろに銀色の上質紙で模られた書簡を取り出し、京介に手渡した。
「ふむ、やはりそうですか……」
京介は書簡を手に取り、青空を一瞬見上げてから静かに呟いた。その声は、庭のバラの香りに溶け込むようにして消えていった。
彼の言葉に溝呂木は深く一礼する。
「いかがなさいますか、御曹司様?」
京介は一瞬考え込み、書簡をそっと机に置いた。
「まずは静観ですね。必要とあれば、こちらから動きましょう」
「かしこまりました」
控えめな朝の光が窓越しに差し込む中、若き桝岡家の後継者は静かに椅子に座り、次なる一手を思案し始めた。