泣き虫な君へのセレナーデ
『君は泣き虫だな』
そう言って、頭を撫でられた。繊細な指を持つあなたはよく私にピアノでセレナーデと称して曲を聴かせてくれた。
けど、私はあなたの気持ちに気付かなかった。それが悔やまれてならない。もう一度、聴かせてほしいと願えば、弾いてくれるのだろうか。気持ちを聞かせてくれるのだろうか。
あれはまだ、私が幼い中学一年生の初夏の事だった。あなたからの連絡はもうないけど。
私は雨が降るのをぼんやりと眺めていた。窓ガラス越しに雨粒が当たる。風も吹いているようでビュウと音も鳴っていた。
今日は学校も休みで退屈で仕方がない。ピアノを聴かせてくれていたあの人、小野先輩は私より二つ上で今は音楽大学に通っている。確か、ピアノ専攻の洋楽科で学年は三年生のはずだ。
私は十九歳になったから、先輩は二十一歳になっている。中一の時に出会ったのはほんの偶然だった。
その時から私は小野先輩が好きだった。完璧な片想いだったけど。
部屋の中でサラサラの黒髪を短くした小野先輩を思い浮かべた。目は薄い茶色で顔立ちは男の子にしては綺麗だったのを覚えている。
そういう風に回想に耽っているとドアをノックする音が部屋に響いた。
開けて、入ってきたのはお母さんだった。
「…佐那。もう、夕方だから。ご飯できたから、下りてきなさい」
「はあい。今、行くから」
立ち上がって向かうとお母さんはドアを閉めて部屋を出て行った。
私も後を追ってドアを開けて部屋を出たのであった。
それから、時計を見たら既に時刻は午後六時になっていた。良い香りが二階の廊下にまで届いてくる。
ちなみに私の名前は森川佐那という。今は高校を卒業して短大に通っていた。今は夏が過ぎて秋になったばかりだ。十月の上旬といったところである。
階段まできてそのまま、一階に下りた。トントンとリズム良く足を動かすと五分もしないうちにたどり着く。
台所まで行くと煮物の香りがした。テーブルには既に肉じゃがやほうれん草のお浸しなどが並べられている。
お母さんと椅子に私より、二つ下の弟が座っていた。名前を悠太といって高校二年生になる。
「あれ、姉ちゃん。課題、やってたんじゃなかったの?」
「…もうとっくに終わらせたよ。悠太はどうなの?」
「……俺はまだ終わってない。何だよ、姉ちゃん。もう終わらせたんだったら、俺にも教えてくれよな」
少し、拗ねてしまったらしい。さて、どうしたものかと考えてしまう。
「えっと。教えてもいいけど。その代わり、私の用事に付き合ってもらう事になるよ?」
「…用事って?」
「小野先輩に久しぶりに会いたいからさ。二人だと色々言われやすいから、悠太にも付き合ってほしいんだよね」
私が慎重に切り出すと悠太はぶすくれた顔になる。いかにも、機嫌が悪そうだ。何でか、小野先輩の名前を出すと悠太は決まって不機嫌になる。いつもの事だった。
「二人とも。喧嘩は良くないわよ。佐那、早く座りなさい。ご飯を入れるから」
「はあい。わかりました」
返事をするとお母さんは炊飯器の側まで行き、蓋を開けた。もうもうと湯気が上がる。美味しそうな香りがして空腹を誘う。
お茶碗にご飯をよそってお母さんが私の分を持ってきてくれた。それを受け取るとテーブルの上に置いた。
悠太も受け取り、同じようにする。最後にお母さんもご飯を入れたお茶碗を持って席についた。
「いただきます」
お母さんが言うと私と悠太もそれに倣う。両手を合わせていただきますと言うと早速、お箸を手に取る。
肉じゃがにお箸を伸ばし、口に運ぶ。じゃがいものほくほく感と濃いめの甘辛い味がちょうどよくマッチングして美味しい。お肉もなかなかだ。
ほうれん草のお浸しやお味噌汁もまだ、出来立てだからかいつも以上に体に染み込むような感じがする。
「お母さん。俺さ、ほうれん草は苦手だって言ったよな。いつも、入れてくるのはやめてほしいんだけど」
「…あら。そんな事を言うんだったら、食べなくてけっこう。何だったら、明日の朝ご飯はあんたは抜きね?」
お母さんはにっこり笑顔でそうのたまった。途端に悠太は慌てて、ほうれん草のお浸しを食べ始めた。
「…わ、わかった。食べます!」
「わかったんだったら、良いわ。あんた、ほうれん草くらいは食べられるようになりなさいよ。もう、高校二年生なんだし。大人になってからだと恥ずかしい思いをする事になるわ」
「何を根拠に言ってるのかはわからないけど。わかった、食べられるようにはなる」
悠太が頷くとお母さんは満足そうに笑った。私は秘かに母は強しという言葉を思い出したのであった。
夕食後に私はスマホで小野先輩にメールを送った。ラインを使ってもいいんだけど、それは良くないからと両親から使うのは禁止にされていた。
ちなみに、メルアドは先輩の女友達である美陽さんづたいで教えてもらっている。
<先輩、お元気ですか?佐那です。今週の日曜に一緒にお出かけできないでしょうか。ちなみに、弟の悠太も一緒です。もし、よろしければ、お返事をください>
なるべく、失礼のないようにしてみたけど。やっぱり、言葉が強引かなと思ってしまう。そんなことを考えながら、スマホを机の上に置いた。その後、先輩からは返事は来なかった。
翌日、私は休日が明けたので大学に行く準備をしていた。先輩からの返事は来ずじまいである。
それでも、朝食を食べて鞄を持ち、玄関に向かう。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアを開けて声をかけると母さんから返事が返ってくる。それに微笑みながらも私は靴を履いて門に向かった。
ドアを閉めて、門も開けて空を見上げる。雲ひとつない真っ青な空だった。
息を吸い込みながら一歩を踏み出した。門を閉めるときいと音が鳴る。大学に向かうために道を歩く。
「…よ。おはよう」
後ろから声をかけられて振り向いた。そこには中学生の時から慕い続けてきた先輩の姿があった。
「おはようございます、先輩」
私がにっこり笑いながら言うと先輩も笑いかけてくれた。
「…久方ぶりだな、佐那。昨日は返事送らなくってごめんな」
「いいえ。私、それくらいのことくらいで怒りません。気にしないでください」
そう言いながらも胸の中のモヤモヤには蓋をする。先輩はそっかと言いながら歩き始めた。その後を追ったのであった。
そよ風が吹いて私と先輩の髪を揺らしたのであった。終わり