この国の王子:オセロット
デズデモーナとの婚約を破棄し、その場でイアゴネットとの婚約を交わしてから半年が過ぎた。あれから月日が流れたが、心にしこりが残り続けている。
イアゴネットとの関係は良好で、俺が結婚をするなら彼女しかいないという確信は変わらない。イアゴネットと過ごす日々は、幸せとしか表現できない。ずっと彼女が俺の傍らにいてくれると思うだけで、王となるプレッシャー、全ての国民の命をこの背中で背負っていくという重圧に俺は耐えていけるだろう。国民のために身を粉にして働けるだろう。政務の疲れも、イアゴネットの笑顔を見れば、すべて癒やされるだろう。その確信は変わることはない。
だが、この胸に残るしこりは何だろう。
「オセロット様? どうかなさいましたか?」
イアゴネットの長い髪が彼女の顔の前に流れ落ちるほど、心配そうに俺の顔をのぞき込んでいた。流れた髪からは、仄かに金木犀の香りがした。
「いや、少し考えごとをしていてね」と俺は答える。
「暗い顔をされていましたわ。何かご心配事があるのですか? それとも、紅茶、美味しくありませんでしたか?」
「いや、美味しいさ」と俺は紅茶の入ったカップに再度口を付けた。
「デズデモーナ様の事を考えられていたのでしょうか?」
イアゴネットが唐突に言った。そしてそれは図星だった。ドキリとした。俺はおもわず顔を上げ、イアゴネットの顔を見た。彼女は少し寂しげなようだった。
「そ、そうだ」と俺は正直に答えた。
「この場所ですもの。仕方がありませんわ」と、イアゴネットは頬を膨らましながらも穏やかに言った。
この場所……。私専用の王宮の庭園だ。真ん中にお茶を飲むテーブルがあり、その周りを山茶花が取り囲んでいる。
白色とピンクの山茶花。それは、デズデモーナが好きだった花だ。私が父からこの庭園を下賜された時、デズデモーナの希望で植えたのが山茶花だった。デズデモーナと婚約してデートをする時は、ほとんどがこの場所だった。7才でデズデモーナと婚約をして、それから8年、ここで逢瀬を重ねた。この半年、イアゴネットともこの場所でお茶を飲むが、この場所でお茶を飲んだ回数から言えば、デズデモーナとの方が段違いに多いだろう。
側近やメイドの者達からも度々言われることがある。それは、この庭園の植物を植え換えては? という提案だ。デズデモーナのために、この庭園に山茶花を植えたということは、皆が知っている。もちろん、イアゴネットもこの事は知っている。「イアゴネット様は、紫色の紫苑の花がお好きだと伺いましたよ」と具体的な提案までしてくる家臣もいる。前の婚約者のために用意した庭園で一緒に過ごす、というのはイアゴネットも心中穏やかではないのかも知れない。しかし、イアゴネットは「そのようなお気遣いは不要です。山茶花も綺麗ではありませんか」と、植え換えを固辞している。男なら甲斐性を見せる所であるとは思う。しかし、中々その決断が出来ず、イアゴネットの言葉に甘える形となっているのが現状だ。
「ご心配でしたら、デズデモーナ様のご様子を視察されますか?」とイアゴネットは言う。
「そ、それは……。しかし、いいのか?」と俺は言う。即座にそれを却下するのが筋であろう。しかし、それを拒絶できない何か俺の心の中にあった。
「私は構いません。殿下もご心配でしょう」とイアゴネットは優しく言う。
「そうか」と俺は言った。
デズデモーナの処断で俺は後悔をしていた。身分剥奪はやり過ぎではなかっただろうかと。今、俺の愛するイアゴネットを害する者がいれば、容赦なく一族もろとも断頭台に送ってやる。しかし、あの時は状況が状況だ。デズデモーナという婚約者がいながら、イアゴネットに心惹かれていた。だがこれは俺が不義理を働いたとも言える。
それに、貴族の誰もが心清らかということではない。身分を笠に着て、下の身分の者を虐げるというのは、良くある話だ。デズデモーナに行った身分剥奪という処断は重すぎる。婚約破棄を行うだけで良かったのではないだろうか。振り返ると、そう思う。
それに、あの、婚約破棄の現場で俺が怒っていたことは、冷静に考えると2種類の怒りがあった。一つが、愛しているイアゴネットに対して害を為したこと。そして、もう一つが、聡明で優しく誰とでも分け隔て無く接することができたデズデモーナが何故あのような愚かなことをしたのか、という怒りだった。噂を聞いたときは、俺は全く信じなかった。デズデモーナに対する嫉妬か何かを原因とした流言であろうと。しかし、側近達の自白という証拠を目の当たりにして、俺は怒り狂った。デズデモーナに対する大きな失望。そして、デズデモーナに対して裏切られたかのように感じていた。優しいデズデモーナがするはずがないと信じていたのに、と……。
・
デズデモーナを視察する日取りは決まった。ただ、馬車から遠巻きに彼女を見るだけということになった。
「デズデモーナ様は刑期中の身。お話をされたい気持ちは分かりますが……」というイアゴネットの言葉があり、遠巻きに見るということに私が同意したのだ。前の婚約者に会いに行くということだけを考えても、イアゴネットの心中は穏やかではないであろう。彼女の優しさに甘えすぎるのも良くないと俺は思った。正直、少し話がしたいと思ったが、それは耐えるべきだろう。
夕暮れの農村に馬車を止める。
遠くの森から1人ゆっくりと歩く人影。イアゴネットが差し出してくれたオペラ眼鏡でその女性を見た。間違いなくデズデモーナだった。デズデモーナは疲れているのか、遠くの我々には気づいた様子はなく、地面を見ながらゆっくりと歩いていた。
デズデモーナの姿は、私の記憶とかなり違っていた。遠くを歩いている女性が、私の庭園で一緒に山茶花を見ながら紅茶を飲み、優しく微笑んでいたデズデモーナと同じ人だとは思えなかった。
「オセロット様。これ以上は、気付かれてしまいますわ。心残りかとは思いますが、デズデモーナ様が無事に開墾の刑を終えた曉には、2人でデズデモーナ様を迎えに行きましょう」と、隣でイアゴネットが優しく私に声をかけた。
「そうだな。イアゴネット、辛い思いをさせてしまったね。もう行こう」と私は御者に指示を出して馬車を出発させた。俺の婚約者、イアゴネットはなんと心優しい人なのだろうか。未練がましく婚約破棄をした以前の女をお忍びで見に来ている。それに、デズデモーナは、イアゴネットに対して酷い仕打ちをした張本人じゃないか。デズデモーナの罪を、イアゴネットは既に許しているのだろう。俺はイアゴネットの寛容な心に引き込まれた。
帰りの馬車の中、肩を寄せ合いながら、沈み行く夕陽を眺めていた時、おもむろにイアゴネットが口を開いた。
「オセロット様。初恋は実らないものだ、という言葉をお聞きになったことはありますか?」
「ああ」と俺は頷いた。
初恋。俺の初恋は、デズデモーナだ。7才の時に婚約が結ばれ、最初はお互いに緊張していたが、打ち解け、そしてすぐに俺は彼女を好きになった。それが俺の初恋だ。俺が初めて舞踏会で踊った相手もデズデモーナだった。初めてのキスも、彼女とだった。
「初恋の思い出というのは、美しく、そして忘れがたいものです。ですが、それらは全て過去なのです。オセロット様、過去ではなく、今と、そして未来を見て戴けたらと思います」とイアゴネットは言う。イアゴネットの目には涙が溜まっていた。
イアゴネットを不安にさせてしまったようだ。それは沈み行く夕陽のせいだけではないだろう。俺はなんと優柔不断で情けない男であろうか。
「ああ。分かっている。先ほど、デズデモーナの姿を見てはっきりと分かった。どうやら私は、思い出を過度に美化していたようだ。イアゴネット、すまなかった。これからは、君と過ごす今と、そして未来だけを見て生きよう。愛しているよ、イアゴネット」
私は、そっとイアゴネットの肩を抱き寄せ、彼女に口づけをした。
心に残り続けていたしこりが、ふっと消えて行くのを感じた。