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「くだらないよ」僕の話を聞いてジビはそういった。あるいは話の内容ではなく、そんなことを話そうとした前程を否定したのかもしれない。どちらにせよ彼にとってくだらない話だった事には変わりはない。
ジビはカウンターに置かれた珈琲に口をつけると、少し苦そうな顔をして砂糖を投下していた。いつものことだ。ジビはいつだって一口目はブラックで飲む。そして苦そうにしては砂糖を入れる。何故そんなことをするのか、気にならないと言えば嘘になる。最初は気になった。何度か聞こうとしたが幾度と繰り返していくうちに、そういうものなんだと思うようになっていた。
僕も砂糖を入れずにそのまま珈琲を口に運んだ。芳醇な香りと適度な酸味、上品な味わい。これはコスタリカの豆を使っているのだろうか。
人間は歳をとるごとに味覚が鈍化して珈琲のように刺激の強い物でも美味しいと感じられるのだと聞いたことがある。もしそれが本当なら、僕の舌は相当に年老いてしまったようだ。
「君はよくもまぁこんな黒くて苦いものを美味しそうに飲むな」
「美味しくないのかい?」
「わからない。美味しいのか美味しくないのか。そもそも美味しいとはなんなのか」
「それは感性だからね。僕にもわからない。自分のはわかるけどね」
「感性か・・・」
「なら、俺がふと気づくと『コイツ』を口にくわえているのは俺の感性が美味いと絶賛しているからなのかい?」ジビはパーラメントを銜えながら言った。
そしてポケットからライターを取り出し「ピンッ」というデュポンの綺麗な反響音と共に銜えた煙草に火をつけた。
「わからないね。でももしそうなら僕と同じさ」そういって僕も煙草を銜えた。
八畳しかないとても小さな喫茶店の視界が薄く白く濁っていく。
「マスター。そのライトの下についているファンは意味があるのかい?」僕が尋ねるとマスターは上を見て二秒ほど考えたあとに「あれは飾りさ」といって換気扇を回した。
「今日は構わないが、天津さんがいるときは煙草は控えておくれよ」
マスターはカウンターを挟んだ向こう側の席に座りこみ僕達と対面しながらそういった。
「彼女の前では吸わないさ。煙草が嫌いなことは知っているからね」ジビは一本目が吸い終わり、残った少量の葉とフィルターを灰皿へと押しつけながら言った。
「そういえば僕はまだ、天津さんに会ったことがないな。どんな人なんだい?」
僕はジビの顔は見ずに、自分の右手の煙草の先から、ゆらゆらと天井に向かって伸びる蜘蛛の糸のような煙を眺めながら言った。
「綺麗な人さ。とっても。少なくとも俺は見とれたよ」
「そうかい。さぞ美人なんだろうね」
「彼女は本が好きなんだ。」
ジビは二本目の煙草に火をつけながら話を続けた。
僕は煙草を吸い終え、珈琲を一気に飲み干してジビの話に割り込んで質問した。
「本は読んだりするのかい?」
ジビはカウンターの横の壁に背中をつけもたれかかりながら少し笑っていた。
「生憎、活字は嫌いでね」
「そうだろうね」
「でも本はいい。一度しかない人生を活字から生み出される想像の中でいくつも体験できるのだから」
「それは良いことなのかい?」
「さぁね。それもまた感性さ。」
「何を読んだらいいかわからない。」
「そうだなぁ。フランツ・カフカ、ジャック・ケルアッカ、カート・ヴィネガット、、、うん。夏目漱石がいい。」いろいろ迷ったが、ふと思いついた。
これしかない。といった感じで何故か僕の中で決定的な事項になっていた。
「わかった。読んでみるよ」
「『こころ』がいい。読み終わったら教えてくれ。きっとジビはこう言うんだ、、、。いや、それは今度にしよう」
僕は右手で口を隠しながらジビを見た。ジビは小刻みに何度か肯いていた。
「そろそろ帰ろうか」ジビはポケットから小銭を取り出し、カウンターに綺麗に並べると僕にそう言って立ち上がった。
「何か用事かい?」
「いや、特にこれといって用事があるわけじゃないさ。そんな事より送っていくよ」
僕はジビの綺麗に並べた小銭の横に握っていた小銭をそのまま置いて店を出た。
僕たちは店の前に停めてある『NⅢ360』に乗り込んだ。
「相変わらず狭い車だ」
「今日は気分がいい。少し飛ばすよ。」ジビはニヤリと微笑みながらアクセルを踏み込んだ。
窓を開けると心地の良い風が車の中に吹き込む。それはもうすぐ夏が来ることを教えてくれる、少し気の早い風鈴の音のように澄んでいた。
家の前に付いて僕は車を降りた。そして運転席の横の窓を二回、中指の第二関節の出張った骨の部分で『コンコン』と叩いた。これが僕らのいつもの別れの挨拶だ。ジビは手を一回降り、臭い排気ガスだけを残して走り去っていった。