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イブの妄想

イブの妄想  ハジメちゃんは二子ちゃんに夢中だからね

作者: 深瀬静流

「イブの妄想」は、「小説家になろう」のほうで連載していたもので、短編のほうはそのシリーズの続編になります。登場人物の詳しい関係は、本編の第一話を読んでいただけたらわかりやすいかと思います。みんなからイブと呼ばれて愛されている高校二年生の相田伊吹君は、たくさんの友人たちに囲まれて、なぜだかいつもまわりを大変なめにあわせるというお話しです。


 日曜日でも平日と同じように起きた伊吹は、万作にいわれる前に英語のテキストブックをテーブルに広げていた。

 テーブルには十時のおやつに宝子がつくったパウンドケーキと紅茶が用意されている。 万作はシステム手帳を開いて、あしたからの一週間分のスケジュールをチェックしながらパウンドケーキをほおばっていた。

「暇なのは今日ぐらいしかないな。来週の週末はシンガポールに行かなきゃならない。親父の仕事関係のパーティがあるんだ。イブ、土産は何がいいんだ」

 返事がないのでシステム手帳から目を上げてみると、伊吹はイヤホンを耳に突っ込んで音楽を聴きながら、頭をふりふり参考書をめくっていた。

「イブ、聞いているのか。俺は来週の金曜の夜からいないからな。日曜に帰ってくるんだ」

 イヤホンをつまんでもう一度いったら、伊吹は、ちらりと万作をみてすぐ参考書に目を落とした。

「マーライオンチョコレートとドライフルーツはいらないからね」

「じゃあ、土産はなにがいいんだ。パイナップルタルトなんかどうだ」

「スーパーマーケットで、いろんなスナック菓子をいっぱい買ってきてよ」

「それもいいなあ。そうするか」

 そんなことを話していたら、ノックもなくドアが開いて坂本肇が入ってきた。

「やあ、肇さん。いらっしゃい」

 万作が気さくに声をかけたが、どうも様子がおかしい。肇は手に持っていた女性向けのファッション雑誌を伊吹の参考書の上に放り投げた。

「何するんだよ、ハジメちゃん」

 勉強を邪魔されて怒った伊吹は雑誌を投げ返した。雑誌は肇の腹にあたって床に落ちた。開いたページに目をとめた万作が雑誌を拾い上げる。

「これ、二子じゃないか」

「そうだよ。二子だよ」

 憤然と声を荒げて肇は伊吹と万作のあいだに腰を下ろした。

「俺に内緒で二子はこんなバイトをしていたんだ。まるでモデル気取りでポーズなんかとっちゃってさ」

 憤懣やるかたないといわんばかりに鼻の穴を膨らませる。伊吹は雑誌をぺらぺらめくって、あるページを二人に見せた。

「なんだ? これ、もしかしてイブか」

 肇がすっとんきょうな声を上げた。万作も慌てて覗き込む。そこには、スタイリストの手によってファッショナブルに飾られた伊吹と二子が、仲良く手をつないで笑っていた。姉と弟だとすぐわかるよく似た二人は、そこいらのタレントやアイドルよりかわいかった。

「いつの間にこんな写真を撮ったんだ」

 万作も驚いてうなった。

「だいぶ前だよ。二子ちゃんはカリスマハウスマヌカンだから、ちょくちょく取材やモデルを頼まれたりするんだよ」

「俺は聞いてないぞ。二子が人気のハウスマヌカンだというのは知ってたけど、取材だって? モデルだと?」

 目をむいて伊吹に詰め寄る肇を無視して、伊吹はフンと鼻を鳴らした。

――ハジメちゃんはバカだから二子ちゃんの本当の姿を知らないんだ。うちにはお姉ちゃんが三人いるけど、お人よしなのは一子ちゃん。男前で豪快なのが三子ちゃん。真ん中の二子ちゃんは、見た目はレインボーカラーのキャンデーみたいに可愛くてスイートだけど、本当は計算高くて腹黒くて打算的で、必ずほしいものは手に入れる強欲な人間なんだ――。

「イブ、それは言いすぎだろ。二子はそんないやなやつじゃないぞ」

 肇が噛み付きそうに歯をむき出して伊吹に講義したが、伊吹は聴いていない。万作はのんびり紅茶を口に運んだ。

――二子ちゃんの夢は、自分のブティックをもって自分でデザインして仕立てた洋服を売ることなんだ。べつにファッション界に打って出ようなんて大それたことを考えているわけじゃなくて、自分の作品でお店を飾って、夢のような楽しい世界を作り上げたいと思っているだけなんだ。そのためにおやすみの日はせっせとミシンをかけて色とりどりの雑巾のような服を縫っている。あのセンスは理解できないけど、本人は才能があると信じているみたいだ。ぼくには端切れの寄せ集めにしか見えないけどね。

 二子ちゃんが店で働いていると、お客さんがかわいいって寄ってくるけど、声をかけてくるのは女の子だけじゃなくて男の子もおじさんも業界の人も寄ってくる。ほんとに二子ちゃんは人気があるんだ。腹黒な二子ちゃんは、お金ほしさにハジメちゃんだけじゃなくて、ママにも内緒でモデルのバイトをしている。最近では、ハウスマヌカンのお給料よりも、モデルのほうがいいくらいだ。ぼくが二子ちゃんにおこずかいをねだったら、ただではあげないといわれて撮影に引っ張っていかれた。そこで撮った写真がこれだ。撮影に一日かかったのに、二子ちゃんたら、千円しかくれなかった。そんなに溜め込んでビルでも建てるつもりなのだろうか。スタッフやメークさんたちとも仲良しで、タレント事務所からも引き合いがあるみたいだけど、仕事の幅を広げすぎると雑巾みたいな服を縫う時間がなくなるっていってことわっている。ハジメちゃんとデートする時間なんてないんだよね。

 それにハジメちゃんより年上の二子ちゃんからみれば、ハジメちゃんなんかぜんぜん子供なわけで、あんな情けないハジメちゃんより、かっこいい大人の男の人がまわりにいっぱいいるから誘惑だらけだ。ハジメちゃんなんかとは別れちゃえばいいんだ。ハジメちゃんと結婚するって言っているけど、絶対不幸になるよ。二人は性格も生きてる世界も違いすぎるもん。一子ちゃんは本田さんと本気で結婚する気でいるみたいだけど、二子ちゃんまで不幸な人生を歩むなんて絶対だめだ。いくらぼくがお姉ちゃんたちのためにブラジルの鉱山で奴隷のように働く決心をしていても、二子ちゃんにはしっかりしてもらわなくちゃ。ぼくは相田家の長男だから、パパがいないぶん、頑張らなくちゃいけないんだ。男はたいへんだな――。

「はああ」とため息をついて伊吹はうなだれた。隣の肇もうなだれている。その肩が震えだした。

「ひどいよイブ。俺と結婚して不幸になるって、どうして決めてかかるんだよ。たしかに俺は大工の息子で性格が地味だよ。それに反して二子は見た目も性格も派手だ。でも、絶対不幸になるなんて言うなよ」

 めそめそと泣き出した肇に万作はため息をこぼした。伊吹は耳にイヤホンを突っ込んで鼻歌を歌いながら英語の書き取りを始めている。

「肇さん。イブの独り言は聞き流してください。頭に浮かんだことを言葉にしているだけで、内容なんか何もないんですから」

 万作がなぐさめても肇はぐすぐす鼻をすするだけだ。

「しょうがないなあ。じゃあ、二子に電話してイブがこんなことを言ったって話してみたらどうですか。きっと二子は笑いますよ」

「そ、そうかな」

「ええ。イブの独り言のばかばかしさはよくわかっていますからね」

 気を取り直して肇はポケットから携帯を取りだした。登録番号を押して耳に当てる。呼び出し音に耳を澄ませている肇の表情は真剣だ。二子はなかなか出ないらしくて肇の表情がくもりだす。あきらめて携帯を耳から離したとき、二子の声が飛び込んできた。

「二子? 俺だよ。ハジメ」

『なに』

「あのさ。いまちょっといいかな」

『長いの?』

「いや、イブがね」

『イブの話はきかなくてもいいよ』

「いや、イブの話じゃなくてさ」

『じゃあ、こっちからかけなおすよ。いま忙しいから』

「あっ」

 携帯を耳から離して“切れちゃったよ”と呟いた。口をへの字にしてテーブルを指でたたき始めた。こまかい振動がテーブルの上の消しゴムのかすを踊らせる。そのかすは、伊吹がノートに書きとったアルファベットの綴りを書いては消す作業の産物なのだが、しだいにひとかたまりになって小さな山を築きだす。伊吹はノートから顔を上げて消しゴムのかすの山に気づいた。

「これ、こねて団子にしたら、また消しゴムになるのかな」

 そう言って伊吹はテーブルで消しゴムのかすを丸め始めた。

「ねえ、ハジメちゃん」

 こねながら、上目づかいで伊吹はまつげをパチパチさせた。万作がいやな顔をした。こういう目つきの時の伊吹はろくでもないことを考えているときだ。案の定、伊吹はいらいらしている肇を覗きこむうようにして肩を寄せた。

「二子ちゃんね。最近おかしいんだよね。帰ってくるのがいつも夜中の一時頃でさ、男の人に車で送ってもらっているんだよ。四十代ぐらいのおしゃれでかっこいい男の人みたいだよ」

 ぎょっとしている肇を押さえて万作が身を乗り出した。

「イブ。あることないこと言うんじゃない。おまえは夜の九時になったら眠くなって朝まで目を覚まさないだろ」

「ぼくを幼稚園児のように扱うなよ! ぼくは大人だ。バカにするなよ。それに、今言ったことは本当のことだぞ。ママがこのまえ、心配そうに言っていたんだからな」

「宝子さんが……」

「おばさんが……」

 万作と肇は顔を見合わせた。伊吹の言うことは信用できないが、宝子のいったこととなると話は別だ。子煩悩の宝子は、子供が帰ってきたら、必ず『ご飯は?』と訊いてくる。子供がおなかを空かせているのを極端に心配する。だから、子供たちがどんなに遅くなっても起きていて、『おかえり。ご飯は?』と言うのだ。その宝子がいうのだから、二子が男性に車で送ってもらっているというのは本当だろう。

 肇は伊吹を突き飛ばす勢いで立ち上がった。部屋を飛び出して廊下を走り、宝子のテリトリーのダイニングキッチンに駆け込んだ。

「おばさん!」

「お腹すいたの? パウンドケーキがまだあるわよ。お紅茶がいい? それともコーヒー?」 

「じゃあ紅茶で、って、そうじゃなくて。二子のことだよ」

「わたしも驚いちゃったわ。三十九歳で社長ですって。若くてかっこよくて、すごくすてきなんですもの。二子ちゃんでなくったってポーとなちゃうわよね」

 パウンドケーキを皿にとって、紅茶サーバーにダージリンの茶葉を入れながら、宝子はうきうきとお茶の支度をする。肇は頭を抱えてキッチンの床にしゃがみこんだ。そこに伊吹が駆け込んでくる。万作も心配そうに後ろについてきた。そこへ朝寝坊を決め込んでいた三子がようやく階下に下りてきた。大あくびをしながら男子より短い髪をかき回す。

「二子ちゃんがどうしたってぇ?」

「おはよう、三子ちゃん。何か食べる?」

 宝子がパウンドケーキと紅茶をダイニングテーブルに置いて肇にすすめながら、三子にもきく。

「お腹すいたよ。わたしには卵どんぶりをちょうだい。大盛りでね」

「ベーコンと納豆にどっさり粉チーズをかけた“三子ちゃん卵どんぶり”ね」

 喜々として宝子が腕まくりし、エプロンのひもをぎゅっと締める。フライパンをとり、冷蔵庫からつぎつぎと食材を取り出して、まな板に包丁の音をつむぎはじめた。

「で、なんの話をしていたんだ」

 三子はダイニングのいすに腰を下ろして、床にへたりこんでいる大学のクラスメイトを見下ろした。

 肇はもともと、建築科に在籍している三子の級友で、男気のある三子と気が合って相田家に出入りしているうちに二子と知り合い、恋に落ちた。二子より二歳年下の肇は、最初は二子に相手にしてもらえなかったが、三子をだしにして頻繁に相田家に足をはこんでの粘り勝ちで現在に至っている。大学生と社会人では、分が悪いのは肇のほうだ。二子は給料取りだが、肇は大学に通わせてもらって親から小遣いをもらってるすねかじりだ。自分でもそれがわかっているだけに、二子の周りに大人の、しかも社長だという魅力的な男性が接近してきたとなると落ちついていられない。大学を卒業したら結婚する気でいる肇は、実のところ二子も自分と同じように強く結婚を望んでいてくれているか自信がもてないでいる。夢を追いかけて、その夢を実現させようと努力している姿を知っているだけに、長女の一子のようにちんまり家庭に収まってくれそうにないとも思っている。不安材料は多々あって、肇は頭がパンクしそうだった。

「三子ちゃん、きいてよ。二子ちゃんに三十九歳の独身社長の恋人ができたんで、ハジメちゃんは捨てられちゃったんだよ」

 伊吹が得々と言った。かきこんだどんぶり飯を吹き出しそうになって三子がむせた。

「なんだと。二子に年上の恋人だと?」

「まあ! じゃあ、あの人は二子ちゃんの恋人だったの。仕事関係の人だっていっていたけど、恋人だったのね」

 茶碗を洗っていた宝子が、台所洗剤の泡をとばすいきおいでシンクから振り向いた。

「いや、そうじゃなくて」

 あわてて万作が口を挟むが、宝子と三子が目を見開いて機関銃のようにしゃべりだした。

「大変じゃないかママ。じゃあハジメはほんとに捨てられたんだ。ハジメだって、親父は工務店の社長なのになあ」

「いやね三子ちゃん。ハジメさんのお父さんが社長でも、三十九歳の独身社長に勝てるわけないでしょう。ママだって、ハジメさんと三十九歳の独身社長なら、三十九歳にときめいちゃうわよ」

「かっこいいのか? ママは見たことあるのか」

「見たわよお。夜中に車で送ってきてくれたとき、カーテンの隙間から覗いたのよ。ハンサムだったわ。落ちついていて、頼りがいがありそうで、かっこいいのよお」

「うわああああん」

 肇が床に泣き崩れて、宝子と三子は、肇がいたことをようやく思い出した。

「肇さん。俺の話を聞いてください」

 万作がおろおろしながら肇の肩を揺さぶる。伊吹は、三子が半端にしてしまったどんぶり飯の残りをちゃっかり食べながらぼそぼそと呟いた。

「しょうがないなあ、この家族は。仕方がない。ぼくが何とかしよう」

 どんぶりの中身を全部食べ終えてから、伊吹はおもむろに携帯を取り出して二子に電話を入れた。

「二子ちゃん? ぼくだよ。伊吹。これから二子ちゃんのところに行くよ。大事な話があるんだ」

 全員がはっとして伊吹をみた。伊吹は難しい顔をして電話に耳をすませている。

「忙しいなんて、いってる場合じゃないとおもうよ。ハジメちゃんにとっては一生にかかわることなんだから」

 肇は目を見開いた。頼りないとばかり思っていた伊吹が、急に頼もしく見えてきた。頭が悪いはずなのに、みょうに賢く見える。ハジメちゃんの一生に関わることだといわれて、感動のあまり伊吹を抱きしめていた。

「イブ。ありがとう」

「やめてよハジメちゃん。気持ち悪いな」

 邪険に突き放して、再び携帯電話に口をひらく。

「二子ちゃんが来るなっていったってダメだもんね。行くっていったら行くんだもんね。場所なんか教えてくれなくても平気だもん。じゃあ、待っててね。二子ちゃん」

 ポチッと携帯を切ってから、すぐにまた電話をかけた。

「もしもし。ぼくは相田二子の弟の伊吹ですが、急用で姉に会いに行きたいんですけど、姉は今どこでしょうか。わかりました。忙しいところをありがとうございます。失礼します」

 電話を切ったとおもったら、すぐにまた電話をかける。

「もしもし。相田二子はそちらでしょうか。あ、ぼくは二子の弟の伊吹です。二子ちゃんは何時までそちらにいますか。わかりました。第三スタジオですね。ええ。わかります。ぼくもそちらのスタジオで二子ちゃんと仕事をしたことがありますから。そうそう、そのイブちゃんです。あはは。ありがとうございました」

 パタンと携帯をとじていすから立ち上がった。

「さあ、二子ちゃん、待てろよ」

 呟くと、コマネズミのようなせわしさで廊下の奥の部屋に駆け込んでいった。

 宝子をはじめ、全員が呆気にとられていた。

「なんて頼もしいのかしら。あんなに大人になっていたなんて、うれしくて胸がいっぱいになっちゃったわ」

 宝子のつぶやきは全員の感想だった。身支度を整えた伊吹が玄関に下りた。最初に我に返ったのは肇だった。

「イブ! 俺も行く」

 かけだした肇のあとを三子が追いかけた。万作もそれに続く。宝子は洗い物の続きをしながら、しっかりしてきた伊吹に笑顔がこぼれた。



 伊吹が向かった先は、六本木七丁目にあるビルだった。外苑通りを歩きながら、三子は盛んに巨大なミッドタウンのビル群を見上げてにこにこしている。

「すげえな、ハジメ。見てみろよ。わたしもいつか、あんなでっかいビルを建ててやるからな」

 しかし肇は、ビルなんかそっちのけで伊吹の服の裾を掴んで放さない。肇には、六本木の華やかさも人混みも目に入っていない。

「ハジメ、おまえさ、親父みたいに注文住宅の神社みたいな家を建てるのか。それって、金になるのかよ」と、三子は肇をからかいだす。

「うるさいぞ、三子。俺はそれどころじゃないんだ」

「ちぇっ。余裕のない奴だな。なあ、万作」

「仕方ないだろ。それより三子。なんでおまえまでくっついてくるんだ。せっかくの日曜日なのに」

「暇つぶしだよ。おもしろそうだからさ」

「俺はいやな予感がする」

「万作は心配性だからな。イブなんか放っておけばいいんだよ」

 そんなことを話しているうちに目指すビルについたらしく、伊吹はなれた様子でミラーガラス張りのビルのエントランス入っていった。

「いいデサインだよなあ。贅沢にエントランススペースをとっていて、張り出し天井の曲線が装飾的でいい感じだよな」

 なあ、ハジメ、と三子が肩でハジメをつついても返事はない。エレベーターで六階まで登り、ぞろぞろと数珠つながりで写真スタジオに入っていくと、受付の女性がにこやかにイスから立ち上がって迎えてくれた。

「いらっしゃいませ」

 黒のワンピースの制服を着た、落ちついたかんじの女性は、先頭にいる伊吹ではなくて一番後ろにいた万作に声をかけた。ずぬけて背が高いうえに高校生にはみえない貫禄のせいで、代表者に見えたらしい。すかさず伊吹が一歩前に出て口を開いた。

「第三スタジオで写真撮影がおこなわれていると思うんですけど、そこにいる相田二子に呼ばれてきました。ぼくは弟の伊吹です」

「あっ、イブちゃん! ごめんなさい。小さくて見えなかったわ。相変わらずかわいいわねえ。もう中学生になったのかしら」

 本当に伊吹が見えなかったらしく、女性は目を見開いて大きく笑顔を作った。

「いやだな、佐藤さん。中学はとっくに卒業しましたよ」

「わたしの名前を覚えてくれてたんだ」

「はい。これでも記憶力はいいんです」

「勉強はぜんぜんダメだけどな」

 三子が後ろでこっそり笑った。

「ちょっと待っててね」

 佐藤さんはそう言うと、内線電話を手に取った。

 受付ホールの壁には、七五三の写真や古希のお祝いの記念写真など、たくさんのサンプル写真が飾ってある。肇はその中でも結婚式のウエディングドレス姿の写真に釘付けになった。

「きれいだな。これなんか、二子に似合いいそうだな」

「二子ちゃんなら自分でウエディングドレスをデザインするよ」

 三子も肇の横に並んで写真パネルを眺めながら話を続ける。

「ハジメさあ、二子ちゃんと結婚しても、主婦力に期待なんかするなよ。二子ちゃんは一子ちゃんとちがって家庭に収まるような女の子じゃないからさ」

「わかってるよ。でもさ、俺、心配なんだよ。どんどん先に行っちゃいそうで、結婚しても家庭とか、俺のこととか、忘れられちゃいそうでさ」

「情けない奴だなあ。なんだ、その自信のなさは」

「だってよお」

 三子を相手に愚痴をこぼしかけたとき、廊下の奥のドアがバタンと開いて二子が飛び出してきた。血相がかわっていた。

「イブ! 万作。ハジメ。それに、なんで三子までいるの! 来るなって行ったでしょ」「わっ。二子ちゃん、かわいい。ティンカーベルみたい」

 二子の格好を見て、伊吹が興奮して大きな声をあげた。

「うるさい。帰れ。わたしは仕事中なんだからね。みんな帰りな」

 二子は身を震わせて目をつり上げた。金髪に染めた髪を、両耳の上にふわふわの団子に結い上げ、透き通るピンクの生地を何枚も重ねた超ミニスカートの上に真珠色のぴったりしたトップを着た二子の背中には、銀色に光る極薄のチュールで作った四枚の大きな羽が揺れていた。

「二子ちゃん、その羽どうしたの。どうやって背中についてるの」

「おだまりイブ。話している暇はないの。さっさと帰れ」

「ねえねえ二子ちゃん。この羽、ぼくもつけたい。かして」

 飛び跳ねながら背中の羽に手を伸ばしてくるイブの頭を片手で押さえて、二子は三子に怒鳴った。

「わたしは今日はほんとにイブの相手をしている暇はないんだよ。次の仕事がとれるかどうかの瀬戸際なんだ」

「わかったよ。つれて帰るよ。で、なにやってるの?」

「だから、撮影だよ」

「おもしろそうだな。見学させろよ」

「三子まで、なにいってるのよ。怒るよ」

「あはは」

 でかい図体でのんきに笑う三子を睨む二子の顔は怒りで真っ赤になっている。なにをいっても無駄だと思った二子は、「帰れ」と叫んで背中を向け、第三スタジオに駆け戻っていった。伊吹が素早く二子のあとについていった。大きな羽がちぎれるように揺れている真ん中に挟まるようにしてスタジオに入ってしまった。一瞬の出来事に、三子をはじめ万作と肇も虚を突かれて呆然とした。

「イブのやつ、すごいなあ」

 改めて三子は自分の弟に感心してしまった。

「ほめてる場合じゃないぞ」

 万作が眉間にしわをつくって言った。

「いや、ほめてないけど。しかたがないから万作、おまえ、つれてこいよ。二子が困るだろ」

「しょうがないなあ」

「俺が行く」

 きっぱりと肇が叫んだ。力こぶを両肩につくって盛り上げ、決意をこめて歩き出す。

「二子に気がある男が、そこにいるかもしれない。それに、どんなところで、どんな仕事をしているのか、見ておきたいんだ」

 鼻息荒く第三スタジオに入っていく肇のあとに続いて三子もドアをくぐった。

「お騒がせしてすみません。すぐ帰りますから」

 先ほどからなりゆきをみていた佐藤さんに会釈をして、万作も第三スタジオに向かおうとしたら、佐藤さんが困ったように笑った。

「そのほうがいいわね。今日の撮影は、二子ちゃんにとってはビッグチャンスなのよ。大手の出版社の社長さんが、新しい企画のキャンペーンガールに二子ちゃんを起用したいっていうお話があって、今日はそのテスト撮りなの。現場はピリピリしてるわ。じゃまはしないほうがいいとおもうわよ」

「そういうことなら」

 おもわず万作は背筋を伸ばして佐藤さんに一礼していた。

 おそるおそる第三スタジオのドアをあけた万作は、おとぎの国に迷い込んだような錯覚を覚えた。何台もの大きなスポットライトをあびたセットは、スモークでもたいているのか、うっすらと霧が漂っていた。

 その霧の中に森が展開していた。見事な大木の幹には緑こいツタが絡まり、ツタはロープのように次の大木に絡まっている。森の奥に行くほど木は密集していて霧の中にかすんでいた。

 二子は、手前にあるひときわ大きな木の枝に腰を下ろしてカメラに向かって頬笑んでいた。カメラマンが何度か指示を与えるたびにポーズをかえて表情も変えている。背中の大きな薄い羽がふわふわ揺れて妖精そのものだ。そこにいる二子は、家でごろごろしている二子ではなかった。人を引きつける魅力にあふれたプロのモデルだった。

 大勢のスタッフや関係者にまじって、真剣に注目しているスーツ姿の男性たちは、クライアントのようだった。伊吹たちは、その男性たちの横でひとかたまりになっていた。

 伊吹が、自分の横に立っている三十代後半ぐらいの男性の腕を指でつついた。宝子からきいた、二子を車で送ってきた男性とかんじが似ている。ととのった容姿をしていて、大人の男性の魅力があった。

 伊吹が声を潜めてその人に話しかけた。

「ねえねえ。あのモデルさんはね、ぼくのお姉ちゃんなんだよ」

「そうなの」

 男性は撮影の様子から目を離さずに返事を返す。

「ねえねえ。ぼくもモデルをしたことがあるんだよ」

「ふぅーん」

「ねえねえ」

「静かにしてね、ボク。みんなお仕事中だからね。ママはどこなの?」

 男性は迷惑そうに伊吹を振り向き、ついで三子に目をとめた。

「きみ、子供さんをつれて外に出ていてくれないかな。スタジオ見学は許可していないはずなんだけど」

「すみません」

 三子はぺこりと頭をさげて伊吹の手を握ろうとした。

「イブ、行こうぜ。二子に迷惑がかかったらいけなからな。ハジメも来いよ」

「うん。でも、その前に」

 そういったのは肇だ。男性の前に、立ちふさがるように歩み寄る。

「あの、失礼ですが、先日うちの二子を車で送ってくれたかたとういのは、あなたですか」

「え、ああ、そうですけど」

 うるさそうに返事をかえすものの、視線はセットに向いたままだ。腕時計をみたり、隣の二十代ぐらいにみえるデザインスーツを着た男性に何かをささやいて説明を求めたり落ち着かない。それをドアのところから眺めていた万作が、急いでみんなを外に連れ出そうとした。しかし、肇が肩をいからせて男性に詰め寄るほうが早かった。

「二子は俺と婚約しているっていうことをしっていますか」

「ふうん、婚約しているの。ええと、誰がだったかな」

「相田二子です。二子と俺です」

「そう」

 はじめて男性が肇に顔を向けた。

「で、それが私とどう関係するのかな」

 意味がわからないとういように眉をあげる。肇の表情が一変した。

「いえ。遅くなった二子を、家まで送っていただいて、ありがとうございました。二子がお世話になってます」

 ぺこりと頭を下げて、満面の笑みで三子のそばに戻った。

「じゃあ、帰ろうか。三子」

「気がすんだか」

「おう。仕事だけの関係みたいだからな」

「よし」

 あらためて伊吹の手を取ろうとしたが、そこに伊吹はいなかった。

「イブがいないぞ」

 三子の押さえた叫び声に肇がぎょっとした。

「静かにしたまえ!」

 男性に叱責されたがそれどころではない。

 セットの中では、二子が天井からのびているロープに吊されて、空中で羽をひらひらさせながらバレリーナのようにポーズをとっていた。スタッフが脚立に乗って、銀色の粉を二子めがけて振りかけている。きらきら輝く銀粉をあびた二子に、肇は思わず目を奪われてしまった。三子まで目をすいよせられている。

「彼女、いいですよね。よく見つけてきましたね」

 年配の男性が、左隣の男性に、撮影から目を離さずに声をかけた。

「娘が騒いでいたんですよ。人気ナンバーワンのハウスマヌカンで、雑誌にも出ているというのでみてみたら、今度の企画にいいかもしれないとおもいましてね」

「うん。気に入ったよ」

「それはよかったです」

 そんな会話は三子たちには届いていない。夢見るように二子に釘付けになっている。ドアのところにいる万作だけが、伊吹を探し当ててを見つめていた。

 伊吹は、材木とベニヤ板をきざんで彩色した木の根本にうずくまって、なにかゴソゴソやっていた。正面から見ればツタの絡まる森に見えるが、裏からみればベニヤ板とそれを支える角材の柱だ。二子が枝にのぼって撮影している大木の台座だけが頑丈にボルトで締めてあるが、あとのベニアの木は立てかけてあるだけだ。伊吹はその薄っぺらい木の裏で床にうずくまり、なにかしている。なにをしているのかわからないが、とにかく万作は伊吹のいるセットのほうに近づいていった。そばに寄って伊吹に声をかけるつもりだった。そして、伊吹がうずくまって両手でこねまわしている真っ黒なものをスモークの隙間からかいま見て、目をむき出して叫んでいた。

「イブ! そんなもの、いじるんじゃない」

 万作の大声に驚いて飛び上がった伊吹の手には、黒いものがぶら下がっていた。

「わあああ、大声ださないでよ。万札」

 身を震わせて文句をいっている伊吹の指の先には、まるまると太った都会のクマネズミが、身をくねらせて歯をむき出し、毛を逆立てていた。

 枝に腰をかけてつま先をそろえてポーズをとっていた二子が、甲高い叫び声をあげて枝の上に立ち上がった。

「きやあああ、イブ、ネズミをどっかにやってよ。こっちに向けるな」

「あぶない。二子!」

 肇がとっさに駆け寄って二子を支えようとした。

「なにやってるんだきみたち。撮影のじゃまをするな。だれか、彼らをつまみ出せ」

 カメラを振り回しながら写真家が怒鳴ったら、反射板や光度計を持っていたスタッフが機材を放り投げてバラバラとセットに駆け寄った。ネズミが体を揺らして伊吹の指に噛みついた。

「ギャアアアア。噛まれた」

 反射的にネズミを放り出す。ネズミは二子の足もとにとんだ。

「ギヤアアアア」

 伊吹と同じような声で叫んで、片足をめちゃくちゃに振り回す。その足が肇の顔面を直撃した。両手で押さえて呻きながら、たたらを踏む。肇の肩が後ろの張りぼての木にぶつかった。その木が次の木に倒れ込む。木はドミノ倒し状態になって騒々しい音が響き、セットにホコリが舞い上がった。ネズミが全力で二子の体を駆けあがって頭の上で伸び上がった。二子の悲鳴が響きわたった。伊吹の目つきが変わった。爛々と輝きをます。二子がいる木にカエルのようにとびついてするするのぼっていく。

 二子の頭の上で鼻をうごめかせているネズミに手を伸ばした。ネズミは危険をかんじて天井から垂れているツタに飛び移った。そのツタを素早く駆けあがっていく。天井に組んであるアングルからは、たくさんの照明が真下や斜め下に光のアラベスクを織りなしている。ツタも無数にからみついて垂れ下がり、スチールのアングルは足の踏み場もなくなっている。しかし、ネズミに歩けない場所などない。真っ黒な毛におおわれた逞しいネズミは、すばらしい跳躍力でアングルの上を走り出した。一直線に伸びているピンク色のしっぽに魅せられた伊吹は、そのしっぽを追いかけて二子を踏みつけてアングルに飛びついた。天井とアングルの隙間は四十センチほどしかない。伊吹は猫のように四つん這いになって天井の隅に逃げていくネズミを追った。

「やめろ、イブ! 降りてこい」

 万作が叫んだ。

「イブ、マジでやめろ。ねえちゃんのいうことをきけ!」

 三子も叫んだ。

「うわああああんんん。誰でもいいからイブを捕まえてよ」

 とうとう二子は張りぼての木にしがみついて泣き出してしまった。

「まってろ二子。俺が捕まえてやるから」

 肇が勢い込んで二子の乗っている木に飛びつき、二子がいる枝の上からジャンプしてアングルに手をかけた。しかし、あと一センチ足りなくてズデンと背中から床に落ちて悶絶してしまった。

「肇さん」

 泡をふいて失神している肇をだきおこして、万作はこれまでにないほどの大声を出した。

「イブ! ハウス!」

 ネズミと伊吹がフリーズした。ネズミも伊吹も完全に目が点になってる。意識を取り戻し始めた肇を三子に任せて、木の上で泣き続けている二子を抱きおろしてから、軽い身のこなしで枝を伝ってアングルの上に顔を出した万作は、四つん這いで固まっている伊吹の腰に腕を回して引きずりおろした。

「きみ、ネズミも捕まえてくれ」

 カメラを振り回しながら写真家がわめくので、下に来ていた三子に伊吹を渡してから、アングルの上を這ってフリーズしているネズミのしっぽを掴んで、そのまま床に飛び降りた。

 クライアントである出版社の関係者がやってきて万作を取り囲んだ。

「きみ、子供のしでかしたこととはいえ、この責任は親としてとっていただくことになるでしょう。私はこういうものです」

 三十代後半の、スーツがばりっときまっている男性が名刺を差し出してきた。

「まことに申し訳ありません。名刺がないものですからお許しください。すべてこちらの責任ですので全額賠償いたします。詳しいことはうちの弁護士を差し向けますので、よろしいでしょうか」

 万作は殊勝に頭を下げた。

「ええ。それでけっこうです。で、あなたのお名前は」

「福沢です。福沢万作ともうします。福沢コーポレーションの顧問弁護士の青山から電話がいくようにしておきますので」

「弁護士の青山さんというと、もしかして日弁連の会長の青山連一氏ですか」

「そうです。ご存じですか」

「いいえ! とんでもない」

 目を見張って、居住まいを正した相手にむかって、万作は伊吹の頭を押さえつけて頭を下げさせた。

「イブ、あやまれ」

「なんでだよ。ネズミがちょろちょろしていたから捕まえただけだろ。二子ちゃんがぎゃあぎゃあ騒ぐからいけないんだ」

「二子にもあやまれ。いっぱい迷惑をかけたんだぞ」

「いやだ。ぼくは悪くないもん」

「伊吹!」

「うわあああああんんん。ぼくは悪くないもん」

 泣き出した伊吹に腹を立てながらも万作は気を取り直して彼に向かい合った。

「で、二子のことですが」

「ああ、もういいです。別のタレントを使いますから、お引き取りください」

「うわああああああんんん」

 こんどは二子が大口を開けて号泣した。伊吹と二子の鳴き声がギャッギャン響いた。

「帰ってくれたまえ。うるさくてかなわん。ここは子供の遊び場じゃないから、二度と来ないでくれ。一からやり直しだよ」

「すみませんでした」

 万作は深く一礼して、泣いている伊吹の襟を掴んでスタジオを出た。三子が続き、大泣きしている二子の肩を抱いた肇が続く。

 受付の佐藤さんが笑っていいのか怒っていいのかわからないとうように腰に手を当てていた。

「やらかしちゃったねえ」

 二子が泣きながら佐藤さんにとりすがった。

「仕事、だめになっちゃった! チャンスだったのに。イブのせいで! イブが! イブのやつが! わああああああんん」

「残念だったわよねえ。なぐさめようがないわ」

 苦笑する佐藤さんのそばから二子を引き寄せた肇が、機嫌よく肩を抱く。

「二子、イブを怒るなよ。悪気はないんだからさ。それに二子ならすぐにでもビッグチャンスが回ってくるさ。だいいち、俺がいるじゃん? 二子のこと、世界で一番愛してる俺がいるんだから、それだけで幸せだろう?」

「うわああああああんんん。悔しいいいい」

 泣いている二子を慰める肇はやけにうれしそうで楽しそうだった。三子を先頭に二子と肇が続き、そのあとを伊吹と万作がくっついて駅に向かう。伊吹はもう泣いていない。万作が摘んでいるものに気がついたとたん、目がらんらんと輝きだし手を伸ばした。万作は忘れていたが、ネズミのしっぽを掴んだままだったのだ。そのネズミは伊吹のTシャツの裾にくるまれてもぞもぞ動いている。電車に乗るのに、ケージに入れずに動物を電車に持ち込むのはいけないのだが、伊吹が有無をいわさずTシャツの裾にくるんでしまった。でも、車中で注目を浴びたのは、手放しで泣いている二子の背中の羽だった。着替えもせずにスタジオを出てきたのだから目立つことこの上ない。おかげでネズミは、無事相田家についた。

 宝子が動物病院につれていって、健康診断と寄生虫の駆除をうけ、予防注射を一本打たれて帰ってきたあと、トリミングサロンに連れて行ってシャンプーをしてもらい、首に真っ赤なリボンをむすんだら、見違えるようにきれいになった。名前をなににするか、三子と伊吹がもめている。二子はみんなの目を盗んで新聞紙を丸めた紙の棒でネズミを追いかけまわしているが、一度も二子に隙をみせないネズミは伊吹よりも賢いのは確かなようだった。


     ハジメちゃんは二子ちゃんに夢中だからね  完





つづいて、おまけのお話です。


「チュー太郎の憂鬱」


 相田家では、黒い毛に覆われたクマネズミがペットとして飼われている。体長は二十三センチほどで、丸い耳と手足と鼻の先がピンク色をしていて、腹の毛は真っ白だ。まん丸な瞳がなかなかかわいい。

 宝子がチュー太郎と名づけたネズミは、二子の仕事場に遊びに行った伊吹たちが持ち帰ったもので、宝子はチュー太郎を動物病院とトリミングサロンに連れて行って、すっかりきれいにしてペットにしてしまった。

 おいしいご馳走をふんだんに食べさせられて、いつもいい匂いのするシャンプーで体を洗われてかわいがられているうちに懐いてしまって、日に日に賢くなっている。もともとネズミは学習能力が高いうえに人にも慣れるので、家族の一人一人を識別して態度を変える。

 宝子のことは餌係だと思っているから、すこし小言がうるさくても大目に見ている。一子のことはおとなしい哺乳類で、三子のことはしつこくしなければ安全な大型哺乳類。万作は集団のボスだから一目置いている。伊吹に関しては、まったく問題外だ。自分より知能が劣っていると思っているから相手にしない。

 問題は二子だ。チュー太郎に責任はないのに、チュー太郎のせいで大事な仕事をだめにされたと思っているから、隙あらば丸めた新聞紙の棒で叩き潰そうと狙ってくる。居心地のいい家だから、できれば住み着きたいのだが、最近二子の執念に疲れてきた。きょうは日曜日で二子は仕事だから家にいないが、かわりに小型の哺乳類が二匹と、老齢のために体躯が縮んでしまった哺乳類が一匹やってきた。いつもなら、外来哺乳類がやってきたときは、見つからないように避難して姿を隠すのだが、小型の哺乳類と老齢の哺乳類は行動が素早く、逃げ遅れてしまった。

 チュー太郎はシステムキッチンと冷蔵庫の隙間にもぐりこんで、ネズミらしく小刻みに震えていた。


「チュー太郎、でておいで」

「チュー太郎、でておいで」

 太郎と花子が、冷蔵庫の隙間から出てこないクマネズミにさかんに声をかける。チュー太郎の首には、ネズミ用の首輪がつけられていて、リードの先は太郎の手に握られている。

「お兄ちゃん、花子にも紐をもたせて」

「だめだよ。ネズミは獰猛だから、男のぼくが持たなくちゃ」

「うえぇぇぇん。お兄ちゃんが紐を持たせてくれないよおぉ」

「太郎。花子に持たせてあげろよ。お兄ちゃんだろ?」

 伊吹が太郎を叱った。

「なにを言っているんだい伊吹ちゃん。ネズミなんか害獣なんだから殺しておしまい」

 チュー太郎がキツ子の言葉に震え上がった。

「バーバ、太郎と花子のまえで、そんな残酷なことを言っちゃいけないんだぞ。命の重さは人間もネズミも平等なんだからね」

「へええ、伊吹ちゃんも、たまにはまともなことを言うんだねえ。あきらめないで学校には行かせるもんだねえ」

 妙な関心の仕方をするキツ子である。

「おばあちゃま、こちらでお茶にしましょう。おいしいきんつばがありますよ」

 宝子に声をかけられてダイニングテーブルのほうに移動する。子供たちにも同じようにテーブルに用意してあるので声をかけるが、子供たちはチュー太郎に夢中で動こうとしない。太郎がリードを軽く引っ張った。チュー太郎の体が軽く浮く。チュー太郎は必死で床に爪を立てて踏ん張った。逃げ遅れたことをまたもや後悔する。

 こんどは花子が太郎からリードを奪って引っ張った。チュー太郎の体がボールのように隙間から空中に飛びだした。

「きゃああああああ」

 自分でひっぱてネズミを飛ばせたくせに花子は自分で驚いて尻もちをついた。驚いたのはチュー太郎もおなじだ。空中でもがいて、なんとか体勢を整えて無事に床に着地しようとした。足掻いた甲斐があってなんとか骨折を免れて床に着地する。そのまま、一目散に逃げ出そうとした。しかし、太郎という小型のオスの哺乳類はなかなか素早くて、伊吹のような具合には行かない。あやうく捕まりそうになった。チュー太郎の小さな体がボールのように転がりながら床を滑っていく。爪でブレーキをかけ、廊下のほうに逃げ出した。

 伊吹の目がらんらんと光りだした。

 チュー太郎を追って走り出した太郎と花子に負けまいとして走り出す。

「伊吹ちゃん! ネズミは害獣だから、捕まえて殺しておしまい」

 キツ子も走り出す。走るといっても狭い家の中だから小走りなのだが、子供二人と伊吹とキツ子の四人ががたがた走れば、床も壁も硝子窓もがたがする。

「おやめなさい! 家の中を走ってはいけません」

 宝子の叫びなど誰も聞いていない。廊下に飛び出したチュー太郎が、はっとして動きを止めた。玄関ドアが開いて、あろうことか二子が帰ってきた。

「ママ、体がだるくて仕事にならないから早退してきちゃった」

 靴をぬいで顔を上げた二子の先に、リードを引きずったまま廊下で固まっているチュー太郎がいた。

 二子の目がパッキーンと大きくなった。だるそうだった体がシャッキと伸びて力が漲り、やおらショルダーバッグを肩からはずすと、それを振り回してチュー太郎めがけてたたきつけた。チュー太郎の小さな体が、風圧で吹き飛んだ。二子のバッグはむなしく床を打撃しただけだった。

「あ、おねえちゃん。お帰りなさい」

「あ、おねえちゃん。お帰りなさい」

 太郎と花子が立ち止まって二子に挨拶した。

「二子ちゃん、お帰り。体がだるいって? 風邪でもひいたのかねえ」

 キツ子がバッグを拾って二子に手渡す。

「いらっしゃい、バーバ。風邪じゃないと思うんだけど、このところ仕事が忙しかったから、疲れがたまっているみたいで」

 つい二子も動きをとめて世間話をはじめてしまう。年寄りと話すと、いくら若くてもペースがスローダウンしてのんびりしてしまう。

「二子ちゃんは、お休みの日もお洋服をつくっていて体を休めないからそうなるんだよ」

 伊吹が一人前なことをいったものだから、キツ子と二子は顔を見合わせてしまった。

「伊吹ちゃんは、ときどき賢くなるよねえ」

「うん。一瞬だけどね」

「あはは」

「あはは」

 平和な会話を交わしているうちにチュー太郎が階段を駆け上がっていった。二子の動きは早かった。チュー太郎を追って階段を駆け上がる。負けずに伊吹もあとを追った。太郎と花子も駆け上がる。つられてキツ子も、つい走り出していた。地震の耐震基準は満たしているものの、さすがにどやどや走られたら家中が揺れる。

「だから走るのはおやめなさい!」

 宝子が叫んでも、みんな二階に行ってしまったので誰もいない。こんどは天井が揺れて、どたどた走りまわる足音が右に左に斜めに移動する。

「あっちへ行ったぞ」

「こっちににげたあー」

 太郎と花子の興奮した声も聞こえる。

「チュー太郎、ぼくのところに逃げておいで」

「伊吹ちゃん、ネズミなんか飼うんじゃないよ。ネズミは害獣なんだから殺しておしまい」

 キツ子が伊吹に怒鳴っている。

「バーバ、じゃまだからどいてよ。バーバはそこのハエ叩きでチュー太郎を叩いてよ。わたしはこの紙棒でやっつけるから」

 二子の大声に、宝子の我慢が切れた。

「みんな、この家から出て行きなさい。そんなにチュー太郎ちゃんが気に入らないのなら、チュー太郎ちゃんを連れてこの家を出て行きなさい」

 宝子の金切り声は、しっかり二階にも届いた。

 天井の隅にぶら下がって小さな心臓をめいっぱい動かして喘いでいたチュー太郎は、この家を出て行こうかと、真剣に悩みはじめたのだった。


     おまけのお話は、これでおしまい。


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