9.不安
「こんにちは」
「……こんにちは」
あのお祭りの夜から明けて四日。図書館の読書スペースで、僕は少女と挨拶を交わす。あの夜に、あまりにも陳腐であまりにもらしい言葉で気持ちを伝え合った僕らだったけど、やる事は何ら変わらなかった。
図書館の読書スペースで本を読み、たまに雑談を交わす。お互いの名前も知らず、それでもお互いが好きな関係。変わった事といえば、せいぜい僕の座る席が彼女の目の前の席になったくらいだった。
「今日は遅かったわね」
「ああ、まぁちょっと」
僕としてはこの関係に捨て難い愛着を抱いているから別にいいのだけれど、少女の方はどうなのだろうか。彼女の目の前の席に座ると、しばし考える。
「……どうかした?」
そんな僕を見て、少女は首を軽く傾げる。何でもない些細な行動だけど、僕の目にはそれがやけに可愛らしく映ってしまう。
「うん、少し考え事」
「ふぅん……」
その答えを聞いて、彼女は含みのありそうな声を漏らす。多分、何を考えていたか知りたいんだろう。僕は少し逡巡してから口を開く。
「ちょっと君の事を考えてた」
「え?」
「何かしてあげたいなぁとか、どんな事したら喜んでくれるかなぁとか」
「なっ……」
それを聞いた少女の頬に朱色がさす。考えていた事とあながち外れた事は言っていないつもりだけど、少し仰々しかっただろうか。しかし彼女はからかい甲斐があるというか、一々反応が可愛かったり面白かったりするので、ついこんな言葉をかけたくなる。
「どうかした?」
そして僕は意地悪く追撃の言葉を投げる。
「っ、知らないわ……ばか」
少女はそう言うと、赤くなった顔を隠すように、手に持った本へ視線を落とす。その姿を見て僕は満足すると共に、心の内に秘めた不安が大きくなる。
僕らを繋ぎ止めているのはこの図書館だ。僕がここに来れば大抵少女には会える。彼女も同じように思っているだろう。だけどそれは今だけの事だ。もう間もなく――あと二日で、また僕は地元を離れて一人暮らしの生活に戻らなくちゃならない。
これは少女に連絡先を聞くなり何なりすれば解決する問題だろう。だけど僕はそれを聞く気にはなれなかった。本当にバカな考えだけど、そうしてしまったら途端に夢から醒めたような気分になってしまいそうな気がしたから。それに、最後まで物語の主人公のようにかっこつけていたかった。
本当、バカな考えだ。口ではとやかく言えど、僕は相当なロマンチストのようだ。それも愚かで救いようがない類いの。
「…………」
まだ顔の赤い少女を一瞥して、僕は自分の本を開く。しかし内容は頭に入ってこない。先行きの不安と自己嫌悪だけが脳裏に浮かぶ。
この別れをどう切り出すべきか、そしてそれが束の間のものになるのか一生のものになるのか。悩んだって仕方のない事だとは分かっていても、気持ちが割り切れない。
「……ねぇ」
「……え?」 纏まらない思考を持て余していると、不意に少女に話しかけられた。僕はワンテンポ遅れてそれに反応する。「あ、ああ、なに?」
「…………」
僕の問いには答えず、彼女は何か言葉を探すように少し俯く。それからしばらくして、少女は決心したように一つ頷いた。
「何か、悩んでない?」
そして僕を真っ直ぐに見据え、彼女はそんな質問を投げかけてきた。
「あー、いや……」
「……言えない事?」
それに怯んで言葉を濁した僕に、少女は不安そうな言葉を重ねる。
「や、言えない訳じゃないんだけどさ」
「なら教えて」
「…………」
いつになく強い口調。それを正面から受け止めて、僕はどうすべきかを考える……けど、すぐに考えるまでもない事だったと思い直す。……そうだ、これは僕一人の問題じゃないんだ。一人でああでもないこうでもないなんて考えてどうする。僕の求める関係はそんな独りよがりなものじゃない。
「……まぁ、簡単に言うと」少女の瞳に不安の色が揺らぎ出したところで、僕はようやく言葉を出せた。「不安……なんだ」
「不安?」
それを聞いて、彼女はオウム返しに僕の言葉を呟く。
「そう。……実を言うと、僕は明後日にはもう大学の方に行かなきゃならないんだ」
「…………」
少女は続けられた言葉を黙って聞いている。表情からはどんな事を考えているかが読み取れなかった。
「それでさ、不安になったんだ。離ればなれになる事に。それを一人で悶々と考え込んでいたんだ。これから先はどうなるんだろうとか、そんな事を」
本当に情けない話だけどさ、と最後に付け足して、僕は口を閉ざす。
「……そう」
少女は僕の言葉を聞くと、安心したように目を閉じて頷いた。
「君は不安にはならない?」
「分からないわ、そんな先の事」
「分からないって……もう明後日の事だぜ?」
「明後日でも一年後でも先の事は先の事よ。そんな事よりも、私には今ここでこうしている時間の方が大事なのよ」
少女はキッパリとそう言い切る。それを聞いて僕はしばらく言葉を失っていた。
「それに何より、あなたが悩みを話してくれた事が嬉しい」
「……嬉しい?」
「ええ。無自覚かもしれないけど、あなたは卑怯よ。何かにつけて私を気にかけてくれて、して欲しい事とかしたい事とか聞いてもないのに叶えてくれて……何て言うか悔しいのよ、私ばっかり色々としてもらって」
「…………」
誉められているのか責められているのかよく分からない文句に、僕はなんと言えばいいのか分からなくなってしまう。
「だから今度は私が力になりたかったし、あなたの事をもっとよく知りたかったのよ。大体、なんでいつも私の事を見透かしたような行動をするのよ。お祭りの時なんか特に顕著に。そのせいで私は、私は……」
力強かった言葉は尻すぼみに小さくなり、少女の顔が段々赤くなっていく。
「えと……なんかごめん」
「謝らなくていいわよっ」何に対してか分からないけど、とりあえず謝った僕に彼女は強い口調で言葉を放つ。「……その、う、嬉しかったし……」
そして恥ずかしそうにそう言い、僕から視線を逸らした。彼女のそんな様子を見て、僕は笑いだしそうになってしまう。
「と、とにかく、私だけが良くしてもらうのは嫌……嫌って訳じゃないけど、何か癪なの」
「…………」
僕の方を見ずに言われた言葉に、何とも言い難い気持ちが芽生える。これまで何人かと付き合った事はあったけど、そんな言葉をかけられたのは初めてだったからだ。本当に名状し難い気持ちだけれど、それは嫌なものではなかった。
「……ありがとう」
だから僕は素直に感謝を口にする。
「何でお礼なんか言うのよ」
「何でだろうね。僕自身も分からないけど、きっと君の気持ちが嬉しかったんだ」
「……またそういう事を言う」
少女は不服そうに口を尖らせるけど、顔は赤いままだった。それを見て、今度こそ僕は笑い出してしまう。
「笑わないでよ、もう……」
「ごめんごめん、つい」
少女の気持ちを身に受け、朗らかな気持ちになりながら、僕は一つの決心をする。それは、先ほど考えた我が儘を通してみよう、という決心だ。
「……一つ、いいかな?」
「なに?」
一頻り彼女の恥ずかしそうにする姿を楽しんだあと、僕は意を決して口を開く。少女は不自然に澄ましたような表情で応える。
「さっき言った通り、明後日に僕は大学の方に行っちゃうんだ」
「うん」
「それで、明日は準備だの何だのでここには来れないと思う」
「……うん」
「だから明後日の午後一時、駅まで見送りに来てもらってもいいかな」
その僕の我が儘に、少女はやっぱりわざとらしく澄ました様に、別段気にしてないかのように、伸ばされた黒い髪を手で払う。そして真夏に雪が降るのを容認するような、不自然に自然を装った口調で言葉を紡いだ。
「別に、構わないわ」