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7.雨

 次の日、空模様は生憎の雨だった。どんよりとした灰色の雲が空を覆い、サッと降る細かい雨粒が地面を控えめに叩く。そのため湿気が高く、気温はいつもより低いけど晴れた日よりも不快感が大きかった。

 ……そんな中、僕は片手で傘をさしながら、自転車を漕いで図書館に向かっていた。自分でもどうかしてると思うけど、昨日からどうしても胸にくっついて離れないモヤモヤとしたものが、僕の体を動かしていた。

 そんなに雨は強くないけど、それでも傘の隙間に雨粒は入ってきて、僕の体を濡らす。もうハンドルを握る左手はびしょびしょで、夏だというのにそこからじわじわと体温を奪われていくような感覚がする。スニーカーにも既に結構な量の雨が降りかかり、それが不快感をさらに煽っていた。

 本当にどうかしてるよ、僕は。何度目かの自嘲の呟きが雨音に掠れたところで、僕は図書館にたどり着く。一台も自転車の置かれていない小さな駐輪場に、濡れた道路を文句も言わずに走り抜けた相棒を停めると、僕は館内に足を運んだ。図書館の中はいつも以上に人気がなく、空の薄暗さと蛍光灯の浅い光が相まって、ひどく物寂しく映った。

 その中を歩き、僕はまず読書スペースに向かったけど、そこに少女の姿はなかった。まぁ雨だし仕方ないか、とは思うものの、想像以上に落胆している自分に少し驚く。それからしばらくどうしたものかと考え、僕は昨日少女に薦められた本を読む事にした。

 目の前で推薦した本を読まれるのは居心地悪いかもしれないしな、と、誰にしてるか分からない言い訳みたいな呟きを心の中で漏らし、僕はその本を探し出した。その物語は全三巻で、裏表紙のあらすじを見る限り、青春の友情を描いた話のようだ。少女がこの本を読んでいる姿は見た事がなかったので、それだけ前に読んでいた本なのだろう。

 しかし本当にこういうのが好きなんだな、と思いながら、僕はその三巻を手に取って読書スペースに足を向ける。ちょっとマナー違反のような気もしたけど、館内に利用者は僕くらいしかいない。だから今日くらいはいいだろう。

 冷房の音と時計の針の音と雨音とが静かに混ざり合う読書スペースに着くと、僕はいつもの席に腰掛ける。そういえばこの部屋で本格的に一人なのは初めてだという事に気付き、少しだけ寂しい気持ちになった。そして、彼女はずっとこんな中にいたのかな、と、またどうしようもない事を考えそうになってしまう。僕はその思いから逃れる為、持ってきた本の第一巻を開いた。

 ――それはある夏の物語で、高校生活最後の夏休みを満喫しようとする少年少女たちの話だった。主要な登場人物は五人、そのうち四人は幼馴染で(仮にA、B、C、Dとしよう)、もう一人(こちらもEとしよう)は高校から知り合った間柄のようだった。彼らは夏を楽しもうと、毎日のように色々なところに出かけてははしゃいでいた。そうしている内に、五人のメンバーの中の幼馴染であるAとBの距離が次第に近づいていき、結ばれる事となる。そこでその巻の話は終わっていた。

 僕は読み終えた第一巻を脇に置くと、次の巻にも手を伸ばした。

 第二巻では、結ばれた二人の幸せとは裏腹に、実は結ばれたBを好きだったらしいCとの関係が拗れてしまう。そのせいで、次第に五人の仲はギクシャクしてしまい、段々と疎遠になっていってしまうのだった。それを修復しようと、Eがみんなの仲を戻そうとする。しかしそれは逆効果で、ますます五人の仲は悪い方に向かっていってしまい、みんなの為に奔走したEも突っぱねられてしまう。それでもそいつはめげず、諦めないで行動を起こし続けるのだった。そうしているうちに、一人、また一人と彼に協力するようになり、やがてどうにか全員が仲直りする事が出来るのだった。そのままハッピーエンドに向かうのかな、と思ったけど、二巻の最後でみんなの仲を取り持ったEが転校する事になってしまうのだった。

 僕は第二巻を読み終えると、小さく息を吐いた。そしてこの物語の結末を考える。しかしそれは考えるまでもなく、ほとんど予想のつくものだった。

 次に僕の思考は少女の事に移っていく。この本を一人で読んでいた少女の事を考えてしまう。

 彼女は一体、どんな気持ちでこの物語を読んでいたのだろうか。どの登場人物に感情を移入して、何を思っていたのか。何とも言えない表情で「一人ぼっち」と告白したあの子は何を感じていたのだろうか。それが気になって気になって仕方なかったけど、僕が考えたって分かる事じゃなかった。

 僕は頭を振ると、三巻に手を伸ばす。

 三巻では、転校する事になったEの心理描写から物語が始まっていた。彼は転校する事を皆に告げるかどうかを悩んで、結局黙ったままでいる事にして、努めていつもと変わらない様にしていた。皆に嘘をつきながら接している事に罪悪感に苛まれながら、それでも彼らの夏休みは、上辺だけは平常通りに続いていく。仲直りしたメンバーでどこかへ行ったり、他愛のない話をしたり、将来に対しての漠然とした不安を語り合ったり。そして彼らの夏休みは終わりに差し掛かり、最後の思い出として夏祭りに行く事となる。そこでも彼らは一度きりの夏を目一杯楽しむ。そして祭りの最後に打ち上がる大きな花火を見終わると解散となり、そこでEだけは「またね」ではなく「じゃあね」という言葉を残すのだった。

 そのページの隅に、何か水滴が落ちたような跡がある事に僕は気が付いた。それは本当に小さくて瑣末な物で、だから僕は「ああ、今日は雨だもんな」と見当外れの言葉を呟く。そしてもう一度本の世界へ入っていく。

 引越しの前日、荷物を纏めて準備を終えると、Eは学校に忍び込む。そして、いつものみんなの靴箱に手紙を入れた。それを二学期の初めに登校して見つけた幼馴染達は、一様に首を傾げる。手紙には、Eの名前と「またあの場所で」という一文しか書かれていなかったからだ。その手紙の真意を差出人に尋ねようとするけど、一向に彼は登校してこなかった。新学期早々サボりか、と笑い合うメンバーだったが、担任から彼が転校してしまった事を告げられショックを受ける。そして学校が終わると、彼らは手紙に残された場所――幼馴染四人が小さい頃に作った秘密基地で、皆が仲直りした場所だ――へ向かう。そこには一通の手紙が置いてあった。その内容は、皆に対する感謝や、黙って行ってしまう事に対する謝罪の言葉が連なっていた。

 その手紙を見て「バカ野郎」と呟いたメンバーのように、僕の心にも多少の苛立ちが生まれた。そしてそれからどうしようもなくやるせない気持ちになった。

 作中で転校する事になってしまったEは、強がって友達の前では自分の気持ちを漏らさなかった。そして最後の手紙の中でようやく寂しいだとか何だとか、そういった気持ちを吐き出した。それに対して、どうしても後ろ暗い気持ちが生まれてしまうのだ。

 寂しいなら寂しいとその時に言ってくれなくちゃ分かるはずもない。未練があるならそれを吐き出さなきゃ分かるはずもない。どうしてそれが出来ないのか。その姿がまるであの夜の僕と同じで、その事が嫌で嫌で、だけどどうしても受け入れてしまっていた。だから、余計にやるせなくなる。僕は結局そう言う人間なんだ。

 途方もない自己嫌悪の次に、気持ちを押し殺した作中の彼と、図書館に一人でいた少女の姿が重なる。そして居た堪れない気持ちになる。

 僕は重い溜息を吐き出すと、物語の最後までは目を通さずに本を閉じる。そして持ってきた三巻を返却のラックに置きに行くと、次に読む本を持たずに読書スペースに戻った。

 それからぼんやりと僕は考え事をする。彼女に対しての僕や、僕に対しての彼女の事を、水の中をたゆたうように考える。それは感情の波であちらこちらに流され、一向に纏まる気配がしない。そして最終的にそれは雨音によってかき乱され、読書スペースに少女がやってきた事で霧散した。

「……こんにちは」

「こんにちは」

 彼女の挨拶に僕はオウム返しをする。

「今日は読んでないの、本」

「いや、読んでたよ」

「ふぅん……」

 と、それきり僕らは黙ってしまう。少女はいつもの席に座って僕の方を見ていて、僕は雨の降りしきる窓の外をただ眺める。意味深長な空気だ。

「君は何も読まないの?」

 それを嫌い、僕は沈黙を打ち破る。

「ええ。今日はちょっと」

「図書館に来て本を読まないって、何かおかしくない?」

「それを言うなら、雨の中、わざわざ自転車で図書館に来るのもおかしくない?」

「……それもそうだ」

 そうして僕らはまた黙り込んでしまう。図書館に来て、互いに本を読まないおかしな二人を雨音が包み込む。やがて、この沈黙を気不味く思って何か話題を振ろうとしたところで、少女が口を開く。

「人ごみって嫌い?」

「……人ごみ?」

「そう」

 その質問はあまりに唐突で、僕はやや遅れて反応する。

「それは……嫌いかな。疲れるし」

「私も嫌い。ごみごみしてて気疲れするわよね」

「…………」

「…………」

 少女が何を言いたかったか分からず、僕は続く言葉を考えつかなかった。彼女も同じように黙りこくってしまい、さらに僕はどうしていいか分からなくなってしまう。

「……そろそろ帰ろうかな」

 しばらく何か声をかけようか悩んだけど、今日はこれ以上ないくらいに頭が働かない。だから僕は少女に話しかけるように独り言を呟いた。

「そう。私もそろそろ帰るわ」

 少女もそれに同調する。今日はここに来て一冊も本を読んでいないのだけど、それはいいのだろうか。聞こうかと思ったけど、それすら億劫で、僕は口をつぐんだまま彼女と並んで館内を歩く。そういえばこうして並んで歩くのは初めてで、決して身長の高い方ではない僕の肩までしかない少女の背丈に、いやに落ち着かない気持ちになった。

 その気持ちを踏み潰すようなわざとらしい足取りで外に出ると、僕は「それじゃあまた」と少女に声をかけた。

「……ええ、また」

 彼女は歯切れ悪くそう言うと、入口の脇に置かれた傘立てから水色の傘を抜き、足早に歩を進める。僕はそれを少し見送ってから、駐輪場へ向かった。

「……ん?」

 と、屋根の隙間から入り込む雨を滴らせる相棒のカゴに、一枚の紙が入っている事に気付く。それを手にとって紙面に目を通す。

『明日の十九時、神社の前で』

 すると、たったそれだけの文字が、ところどころが雨に濡れたA5の紙の左上に、几帳面に並べられていた。よく見ると、その文字の後ろに何回か文字を書き直した様な跡があった。

 その中に『お祭り』という文字が薄らと見て取れ、「そういえば明日はお祭りがあるんだったな」と僕は思い、それから溜め息を吐いた。

「人ごみ、嫌いなんだろ……」

 少女が歩いて行った見通しのいい道の方を見やるが、彼女の姿はもう見えなかった。


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