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3.会話

 約半年ぶりの実家で一晩を過ごし、明くる日の午後一時を半ばほど過ぎた頃。母親の気の抜けた昼食をとり終わった僕は、また自転車に跨って図書館へと向かった。そして昨日のように汗にまみれながらそこへ着くと、適当な本を手に取って読書スペースへ足を運ぶ。すると、やはり少女がそこにはいた。まるで昨日からずっとそうしていたかのように、日当たりの良すぎる窓辺の席で、つまらなさそうな表情で本を読んでいた。

 その姿を見て安堵したように小さく溜息を吐くと、僕も昨日と同じように彼女の斜め前の席に座って本を読む。まるでストーカーそのものの行動だな、と自嘲の言葉が脳裏をかすめるけど、どうせこれは気まぐれの行動だ。そのうち飽きるだろうし、少女も少女でまさか毎日図書館に入り浸っている訳もないだろう。僕は軽くそう考え、物語を読み進めていく。

 今日手にとった本は、名前くらいは聞いた事のある作者の本だった。そこそこ有名な人の本だし、それなりには楽しめるだろう……と思っていたのだけど、どうにもページが進まない。何というか、文章が重すぎて、内容が頭に入ってこなかった。僕は小さく溜息を吐いて、自分には合わない作風の本を手にとってしまった事を少し後悔した。

 しかし途中で投げ出すのは嫌だったので、まるで事務処理のように文章を目で追っていく。たまに少女の方を見ると、彼女は変わらぬ様子でページを捲っていた。楽しくないのに本を読んでいるのだろうか、なんて思ったが、僕が考えても仕方のない事だろう。そんな事を合間に重ねながら、僕が三時間とちょっとかけて一冊の本を消化するうちに、彼女は二冊の本を読み終えていた。

 随分と速く読むんだな、なんて思いながら、その日はもう胸焼けしそうな気分だったので、僕は図書館を後にした。

 ……そして、それから十日続けて、僕は図書館に通い続けた。その度その度、やはり少女は読書スペースの同じ席で本を読み続けていた。その様子を確認すると、僕も同じように彼女の斜め前の席に座って本を読み続けた。そして、読書の合間に彼女の様子を窺ってしまう。

 少女は読む本のジャンルはバラバラだった。テレビなんかで取り上げられた話題作を読んでいる事もあれば、大仰なタイトルの打たれた新書を読んでいる事もある。それ以外にも、聞いた事のないタイトル、または作者の本を読んでいる事もあれば、表紙に大きくキャラクターの絵が書かれたライトノベルに目を落としている事もあった。また、目の端に垂れてくる長い黒髪をうざったらしそうに払いのける以外、彼女は決まってつまらなさそうな表情だった。しかしそれはどうやら表面上だけの事のようだ。というのも、少女はたまにものすごい勢いで本を読み終える事がある。すると彼女はその本の続巻、または同じ作者の本を手にして読書スペースに帰ってくる。恐らくその本が気に入ったからだろうが、それでも少女は表情を変えようとはしなかった。確かに一人でいるのに突然笑い出したりなんかすれば、変人のレッテルを貼られる事に間違いはない。だけど、それにしてもずっとそんな表情でいるのは疲れるんじゃないか、と僕は思った。

 なんてそんな風に、図書館に何をしに来ているんだと問い詰められそうな事を続けている内に、少女には一つの変化があった。それは七日目あたりの事だったろうか。いつものように僕が読書スペースに足を踏み入れると、ほんの少しだが、僕の方を見て彼女は不機嫌そうな部類に入る表情をした。最初は気のせいかとも思ったけど、次の日もその次の日も、僕があの小部屋に入ってくると、少女の表情は何とも言えないような、少なくとも喜んではいないようなものになった。

 まぁそれも仕方のない事だろう……とは思う。しかし少女がそんな表情をするのは、僕がその日に初めて読書スペースに入った時だけで、それ以降は決まっていつものつまらなさそうな表情になる。それが少し気にかかったけど、それがどうしたって話だろう。彼女からしてみれば僕は厄介者でしかない訳なんだし、もうそろそろ図書館に通うのは止めようか。

 ……そういう風に考え始めた十一日目の事だった。

 僕は昼過ぎに図書館を訪れ、今日は何を読もうかと本棚を眺めていた。すると通路から、やはり今日も図書館にいた少女が歩いてくる姿が見え、彼女に対して何となく軽い会釈をしてみた。それを見た少女は少し戸惑ったような表情をした後、取り繕うかのように不機嫌そうな顔をして僕から目を逸らす。まぁ当然の反応だよな、と思いながら、本棚へ視線を戻した僕の耳に、段々と近づいてくる静かな足音が聞こえた。

「……ねぇ、どういうつもり?」

 そして、唐突に紡がれた言葉が僕の鼓膜を震わせる。それは今まで無言の他人だった関係を壊すような行動だった。

「……何がですか?」

 無言の他人の関係を壊す、とは言うが、それはプラスにもマイナスにも考えられる。何故なら彼女の言葉は僕に対する拒絶にも興味にも聞こえたからだ。どう返すべきだろうか、と少し逡巡してから、僕はすっとぼけたような言葉を丁寧に送り返した。

「何がじゃないでしょ」

 彼女は口を尖らせ、不服そうに睨み付けてくる。すっとぼけた事が癪なのか、今までの行動を非難しているのか。冷房の唸る音に思考を乱されながら、僕は次に出すべき言葉を考える。正直、無言の顔見知りという関係を保ったまま話す事はないと思っていたから、どうにも上手い返しが思い付かない。

「……まぁ、聞かれたまま返すなら、君に興味を抱いたからですかね」

「…………」

 まとまらない頭のまま、何か含みを持たせた事を言っても裏目に出るだけだろう。そう考えて、率直に返答をする。彼女はその言葉を聞いて何故か恨めしそうな表情になった。眺めていた時は能面な女の子だと思っていたけど、こうやって対面してみると、それまでとは真逆の印象を受けた。

「それで、何か用ですか?」

 その様子を見てどこか余裕が出来た僕は、今度は自分から彼女に尋ねる。

「……別に」

「別に、って事はないでしょう」

「何でもないわよ」

「自分から話しかけておいて?」

「それは……」

 彼女はそれで押し黙って俯いてしまった。別に言い過ぎたとかそういう事では全くないのだけれど、何故か罪悪感が心に生まれてしまう。まるで悪さをした子犬を叱った後みたいだ。こちらは悪くないのだけれど、シュンと落ち込んだ姿を見ると可哀想になる心境に近い。

「いや、その、僕も申し訳なかったです。そりゃ、いきなり見知らぬ男が近くに来たら不審に思いますよね」

 そして結局そんなフォローを入れた自分に呆れる。初めて出会った(とは言わないかもしれないが)日に、元からいた彼女の近くの席に座ったのは僕の方だ。確かにそれについては変に警戒させたこちらに非があるのだろう。だけど僕がどの席に座ろうが僕の自由だし、実害もないのに警戒心を抱くのは自意識過剰とも言えなくはない。

「……別に、不審には思ってないわよ」

「え?」

 いや、かと言って何日も続けて近くの席に座るのは十分に警戒するのに足りるか、それに「君に興味がある」とか言ったし。そう考えたところで、彼女は俯いたまま小さな声を出す。

「だから、ただ私は、何で近くに座るのか興味があっただけって言うか……とにかく!」そして言葉が詰まったところで少し大きな声を出す。「とにかく、それだけだから!」

「は、はぁ」

 僕の気の抜けた返事を聞き、彼女は踵を返して早足に歩き去ってしまう。その後ろ姿が本棚の間から消えたところで、僕は小さく息を吐いた。

「……なんだってんだ」

 同時に漏れた呟きは冷房の唸る音にかき消された。それからしばらく本を手にしたまま立ち尽くしていたが、やがて諦めたように首を振り、読書スペースへ足を動かす。このまま帰っても良かったけど、今しがたのやり取りから少女に対してまた変な興味が湧いてしまった。――あんなやり取りをしておいて、もしも僕がまた何食わぬ顔で同じ席に座ったら、彼女はどんな反応をするだろうか。それが気になって仕方ない。

 僕は内心ワクワクしながら、しかし表情はいつも通りに、読書スペースの敷居を跨ぐ。その足音を聞いて少女は僕の方を見る。すると少し目を見開いて、それから不貞腐れたように読んでいた本へと視線を落とした。僕はそんな様子を見て何となく面白い気分になりながら、いつもの席へ腰を降ろす。そして何食わぬ顔で手に持つ本を開いた。

 その本は昔の有名な外国人作家のもので、主人公がある日「虫」に変身してしまう話の本だった。確か高校生の頃、現代文の先生がごり押ししていた作品だ。当時は授業の中で取り扱ったという事もあって、ただ淡々と流される先生の解説をノートに書き写しただけで、内容を自分からはあまり理解しようとしなかった。しかし今こうして読み直してみると、高校生の頃には思いもしなかった印象を受ける。それがなかなか楽しかった。

 物語も中盤に差しかかったところで、ふと視線を感じた。僕は一旦意識を本の世界から離して、そちらをチラリと見る。すると少女が僕の方をじっと見ていて、目が合うと慌てたように視線を外した。そして読んでいる本のページをわざとらしく捲る。その仕草がどこか面白く感じた。

 僕はふっと小さく息を吐くと、また物語へ没頭していく。そうしながら、頭の隅ではまた少女の事を考え、一つ小さな決心をした。今日は閉館まで……というか、彼女が帰るまで本を読み続けてみようだとか、そんなおかしな決心を。

 時計の針が動く音、冷房の唸る音、時折近くを通る人の足音や職員の話し声を耳にしながら、僕は本を読み続ける。たまに少女がこちらの様子を窺っているような気配がしたが、努めて気にせずに文字を追っていく。最初は頻繁に感じた視線なんかも、時間を追うごとに少なくなっていった。彼女も本に集中しだしたのだろう。それでも僕が新しい本を取りに行こうと席を立てば、少女は僕の方をチラリと見てきた。逆に少女が席を立つ時は、僕はそちらに視線を送りたくなる衝動を堪えていた。何となくだが、彼女の方を気にしたら負けなような気持ちだったからだ。本当に馬鹿げた一人相撲だとは思うけど。

 そんな事をしているうちに、部屋に射し込む陽の光に朱が混じるようになってきた。窓から見える緑の多い景色にも斜陽の影が差し、どこからともなく響く蜩の寂しげな鳴き声が室内にも入ってきた。その声に耳を傾けながら、僕は壁に掛けられた時計に目をやる。時計の針はあと十分ほどで六時になるところを指していた。

 閉館時間は何時だったか、と考え始めたところで、図書館の職員が読書スペースの入り口に顔を出す。そして僕の事を見て少し驚いたような顔をしてから、「もうすぐ閉館なのでここは閉めますよ」と声をかけてきた。少女はそれに頷いて席を立つ。その慣れた様子と職員の僕に対する反応を見るに、恐らく彼女はこの時間まで一人でここにいる事が多いのだろう。そんな事を思いながら、僕も席を立つ。そして少女の後に続いて読書スペースを出て、読んでいた本を返却ラックに置いた。先導する彼女は少し僕の方を気にしているようだったけど、振り返らずにいた。

 そして僕と彼女は変に距離を保ったまま出入口へ向かう。カウンターの前を通る時、閉館処理をしていた職員が物珍しそうな視線を送ってきた。それに少し苛立ちを感じたけど、僕は無表情のまま、少女に続いてカウンターを通り過ぎ、図書館の外へ出た。途端に襲いくる熱気や湿気に不快な気持ちになりながら、先に外に出た少女の行く先をしばらく見つめる。どうも彼女はここまで歩いて来ているらしく、図書館の駐輪場には向かわず、僕の家とは反対方向の道に歩いていった。

 それに安堵する気持ちと残念に思う気持ちが生まれ、少し複雑な気分になった。別に家が同じ方向だったら一緒に帰るだとか、そんな不躾な事は考えてなかった。むしろこれ以上少女に関わるのはどこか気まずいと思っていた。しかし、それでも心には、何か取れそうで取れない突っかかりが出来たように感じてしまっていた。

 僕は自分に対して呆れたような溜め息を吐くと、小さな駐輪場へと歩き出す。そこには僕の自転車しか停まっていなくて、そいつが作る長い影とポツンとした寂しい佇まいに、また心の突っかかりが大きくなったような気がした。


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