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2.図書館

 滝のように汗をかく、という表現をこれ以上ないくらいに体現して実家に帰り着くと、僕は玄関に荷物を放り出してすぐに居間へ向かった。事前に母親に連絡は入れていたが、今は買い物に出かけているらしい。父親は当然仕事だし、妹も部活で家にいない。なので、およそ半年ぶりに帰ってきた僕は、誰にも迎えられる事はなかった。だからといってどうこう言うつもりはないけど、それでも一抹の寂しさを覚えてしまう。

 僕は居間に置かれた扇風機のスイッチを入れ、そんな女々しい気持ちを暑気を冷まそうと試みる。汗に濡れた肌にかかる風は気持ちよく、気の抜けた溜息を吐く。そのまましばらく風に当たっていると、汗も徐々に引いてきて、今まで感じていた不快感がなくなってくる。

 ある程度涼んだところで、僕はその場に寝転がり、これからどうしたものかと思案する。居間には扇風機の羽が風を送り出す音のみが侘しく響く。壁に掛けられた時計へ目をやると、時計の短針は二と三の中間を指していた。昼食はあちらを出る前に食べてきたので、腹の虫は大人しい。考えているうちに睡魔が襲ってきて、一瞬それに身を委ねようかとも思ったけど、僕は頭を振って身を起こす。このまま昼寝をするのもいいが、それはどこか勿体無い。かと言って、特別やりたい事もないのだが。

 この中途半端な田舎において、何かいい暇つぶしはなかったかと考える。大きなショッピングモールなどは車でなければ少し遠い。生憎ながら僕は車の運転免許を持っていなかった。自転車で、そこまで時間のかからない位置にあって、そこそこ時間を潰せる場所。脳内にそんなワードを連ねた検索をかける。しばらくして、一つの施設がヒットした。

 ――図書館。自転車で十五分くらいの場所に、図書館があった。そこならばお金もかからず、本の為に寒くもなく暑くもない極楽な空調がなされている事だろう。よし、と僕は呟くと、玄関に放り出したバッグから財布だけを抜き取り、外へ出る。太陽からの紫外線と地面からの照り返しの挟撃を受け、目の眩むような熱気に包まれる。しかし先ほどとは違い、今は重い荷物を担いではいない。僕は比較的軽い足取りで車庫に向かい、自転車を引っ張り出す。どこにでも売っている安いママチャリだけど、高校三年間を共に過ごした愛着のある一品だ。太陽光線を鈍く跳ね返す、艶消しの銀のフレームをした相棒に跨り、僕は図書館を目指す。

 やかましく反響するセミの大合唱を聞きながら、ペダルを踏みしめる。その都度タイヤはアスファルトの上を転がり、僕を加速させる。人が少なく緑が多い風景の中を、ぬるい風を切って走っていく。まるで安い青春ドラマにでもありそうな一幕だ。そんな他愛のない事を考えながら、ペダルを漕ぐ足には硬い感触が伝わってくる。もしかしたらチェーンの油が切れているのかもしれない。帰ったらオイルを差してやろう。

 と、そこで何故か元恋人の言葉を唐突に思い出してしまい、僕は思わず舌を打つ。せっかく穏やかな気持ちでいられたのに、また変な風にあの夜の事を考え出してしまう。例えばそれは、あの時こう言っていたらどうだったかとか、そんなどうしようもないものだ。その妄想の中では、彼女の別れの言葉に理路整然とした言葉を僕は返す。論理的に組み伏せようとする。しかし、彼女は泣きながらも筋の通った言葉で反論してくるのだ。現実の詩的な姿からは程遠く、散文的な言葉で。そして僕の非をこの上なく正確に打ち抜き、ついに僕はぐうの音も出せなくなってしまう。投げかけた言葉は尽く打ち返され、投じる言葉がなくなり、情けなく白旗を上げてしまうのだ。もしも現実がその通りだったら、こんなにも惨めな気持ちになる事はなかったのに。そう思ってしまうからこそ僕の苛立ちさらに大きくなり、その当てつけとしてペダルを強く踏み込んでしまう。だが自転車はそれを軽くいなし、八つ当たりを推進力に変えてさらに加速する。そしてぬるく不快な風が体を撫でていき、僕は呆然と思うのだった。ああ、何をやっているんだろう、と。

 そんな惨めな気持ちとあの夜の事を頭から追い出そうと必死になってペダルを漕いでいると、意外なほど早く図書館に着いた。どうやら負の力の方が自転車は進むらしい、なんてバカな事を考えながら、小さな屋根の付いた駐輪場に自転車を停める。そしてシャツの袖で顔の汗をぬぐい、僕は図書館を見上げる。築何年かは知らないけど、少なくとも僕の生まれる前に建てられたそれは、くすんだ白い壁にいくつもの雨染みを作っている。入口の脇に設けられた小さな庭には申し訳程度に小さな花が植えられていた。恐らく職員が世話をしているのだろう。全体的にくすんだ景観の中で、そこだけは時間が動いているような、なんだかチグハグな印象を受けた。そして僕はまた自分が嫌になる。どうしてこうも、見るもの全てにネガティブなんだろうか。

 しばらくその場に立ちすくんでいたが、観念したように溜息を吐いて、僕は図書館の入口に向かう。開館時間の書かれたガラスのドアを開け、館内に入る。すると心地のいい冷たさを持った空気がスッと流れてきて、体に篭った熱をゆっくりと冷ましてくれる。僕はもう一度溜息を吐いた。そして、これからどうしたものかと考える。思いつきだけでここへ来たから、別段読みたい本がある訳でもない。本当にただ暇だから、なんとなく来てみたという感じなのだけれど……。

 しばらく考えてから、僕はひとまず館内を見て回る事にして、入口の近くにある館内の案内図を見る。入口から右手には階段があり、そこから行ける二階は、半分ほどが閉鎖書庫、もう半分が郷土資料館となっていた。ああ、そういえば図書館と併設されているんだったか、と僕は思う。しかし今は地元の歴史を紐解きたいという気持ちじゃない。僕は一階の案内図へ目を移す。

 案内図では、まず入口に対面して雑誌が置かれたラックが設置されていて、そのすぐ後ろにはトイレがあった。ラックから左手に行くとL字に通路が伸びていて、貸出やレファレンスサービスを行うカウンターと、その近くに読書スペースと書かれた広場がある。その突き当りを右に進むと、児童書なんかが配架された棚があり、L字の終着点からは広いフロアに繋がっていた。そのフロアには小説や新書などの一般書があるようで、一番奥まったところにも読書スペースと名付けられた小部屋があるようだった。

 記憶の中の図書館と目の前の案内図とを照らし合わせてみると、少し食い違いがあった。最後に来たのはいつだったかと考えてみると、記憶は中学二年生にまで遡った。なるほど、もう六年くらい経っているのか。それなら図書館の配架も変わっているだろうし、僕の記憶にも間違いがあるだろう。

 そう納得したところで、僕は一般書が配架されているフロアを目指して歩き出す。カウンターには若い女性と年配の女性が座っていて、小さな声で何か世間話をしていた。その奥の方では男性の職員がパソコンで事務処理を行っている。近くの読書スペースには、勉強をしている中学生くらいの女の子と熱心に本を呼んでいる小学生くらいの男の子がいた。それを脇目に書棚の隙間を縫って歩いていると、他にも同じくらいの歳だろう子供を二人見かけた。夏休みの読書感想文でも片付けに来ているのだろうか。そんな事を考えながら一般書のあるフロアに続く通路へ差し掛かると、そこに置かれたソファーに年配の女性が座っていて、最近テレビで取り上げられた新書を呼んでいた。その姿を尻目に一般書のあるフロアにたどり着くと、僕はざっと書棚の間を見て回ってみる。二、三人くらい人がいるだろうと思っていたが、誰の姿も見当たらなかった。

 一通り室内を見て回り、フロアの入口近くで足を止めると、やけにエアコンの音が大きく聞こえた。その閑静な様子を目の当たりにして、今は八月初頭、学生は夏休みなれど世間一般では平日の昼間だという事を改めて思い出す。そして、僕は何となく溜息を吐く。その音も思った以上に大きく響いて、言いようのない寂しさに襲われた。

 それをごまかそうと、僕は強い足取りで、何か読む本を探そうと歩き出す。コンコン、というスニーカーが床を叩く音。やはりそれも、まるで時間が止まったような館内の空気を虚しく震わせる。また変な事を思い出してしまいそうで、名状し難い焦燥感のようなものに心が急き立てられる。それを意識しないように意識して、僕は名前も聞いた事がない作家の何となく目に付いたタイトルの本を手に取る。そして図書館の一番奥まった場所にある読書スペースを目指した。この静かで人がいない図書館で、わざわざそんなところにいる人はいないだろう。一人で落ち着きたかった僕は、そうタカをくくって歩を進める。

 フロアの入口から一番遠い壁際。そこに読書スペースの入口があった。そして、壁に沿ってそこへたどり着くと、見事に僕の期待は裏切られた。

 長机が二つ、入口から見て縦に置かれ、その左右にそれぞれ四つずつ椅子が備えられただけの小さな部屋。まるであるべき場所から追いやられ、仕方なくといった風に端に収まったような印象を抱かせる、その小さな部屋の左の机の窓際。入口から最も遠く、図書館の最深部とも言える席に、つまらなさそうな表情で本に目を落とす女の子が座っていた。

 僕は驚き、まじまじとその様子を眺めてしまう。少女は真夏だというのに長袖のシャツを羽織り、足首まで丈のあるジーンズを履いていた。真っ直ぐに伸ばされた黒い髪は、背中の真ん中あたりで無造作に切り揃えられている。その切り口は、まるで面倒だからと横一直線にハサミを入れただけのようにも見えた。その髪の毛から覗く横顔はやはりつまらなさそうで、僕の存在など気にもしないで彼女は呼んでいる本のページを捲った。そしてその音で僕は我に返る。

 何を失礼な事をしてるんだ僕は……、と思うものの、何故か少女の事が気になってしまった。別に人間観察だなんていう奇特な趣味を持ち合わせている訳ではない。ただ、何もかもに拒絶されたようなこの場所で、物好きにも真夏の日光が当たる席で本を呼んでいる。そんな行動に奇妙な親近感を覚えてしまったのだった。

 それもそれで失礼な話か。僕はそう思いながら、やや足を忍ばせて少女の斜め前の席へ向かい、静かにその席に腰を下ろした。そして手に持つ本を広げる。それからチラリと少女の様子を窺ってみる。遠目では同い年くらいに見えた彼女だったが、こうして近くで見てみると、やや幼い顔立ちをしていた。恐らく高校生くらいの女の子だろうか。髪の毛もどうやら意識して伸ばしているようではなく、ただ整えるのが面倒だからそのままにしている、といった印象だ。幼く見える顔立ちも化粧っけがないせいかもしれない。

 そんな風に見られているのを知ってか知らずか、彼女は鬱陶しそうに、目にかかる前髪を払いのける。その様子を見て、僕も手に持った本へ視線を落とした。そして極力少女の事を気にしないように文字を追っていく。

 ほとんどジャケ買いの要領で選んだこの本は、病弱な少女と臆病な少年の恋物語のようだった。作中ではちょうど夏を舞台にしていて、淡々と、ゆっくりと話を進めていく文体に好感が持てた。僕はすぐに本の世界へと引き込まれていく。

 それから一時間と半ばくらい経ったころ、その物語の佳境、少年と少女の気持ちが打ち明けられるページに差し掛かったところで、視界の端で少女が席を立つ。それに僕の意識は本の中の夏から現実の夏に引き戻される。そして、ほんの少しだけ、少女に見られているような気配を感じた。それを努めて気にしないようにして、まだ半分ほどしか読んでいないページを捲る。少女は静かな足音を立てながら、読書スペースを出て行った。

 僕は小さく溜息を吐き、ページをぼーっと眺めたまま考え事をする。すると、自意識過剰という言葉がまず一番に頭に浮かんできて、次に目は口ほどに物を言う、という言葉が思い浮かんだ。……自分が思う以上に世界は僕の事なんか気にしてなどいない。だけど、どうにも他人の視線は敏感に感じ取ってしまう。ああ、よくある事だな。

 しかしこの場合は「目は口ほどに物を言う」なんて言わないか、と詮のない方向に思考が向かい始めたころ、読書スペースに一つの足音が入ってくる。それはあの少女のもので、また新たな本を手にした彼女が先ほどと同じ席に座った。それを視界の端に捉えた僕は少し驚く。何となく距離を置かれたりするものだと思っていたが……余程そこの席が好きなのだろうか。それとも僕の事など微塵も気にならないのだろうか。どちらにせよ物好きな女の子だな、とか、僕は結構失礼な事を考え、それからまた手元の本に意識を向けた。

 それからは特に変わった事もなく、ただ紙と紙とが擦れる音、時計の針が動く音なんかが部屋には響く。僕は物語に没頭していた。淡々と簡潔に、ともすれば短調に綴られる少年と少女の物語。夏を印象づける描写にだけは力が入っていて、タイムリーな季節の話という事もあってか、僕の頭には新緑を着飾る木々、照りつける太陽と蒸し暑い空気といったものが鮮明に浮かび上がってくる。まるで無名な作者のまるで無名の物語だが、かなり僕好みの本だった。

 そして作中の二人が結ばれ、共に歩んでいこうとする爽やかなハッピーエンドを迎えたところで、僕は満足して本を閉じた。巻末には聞いた事のない人の解説が載っていたが、そんなものを読んでこのスッキリとした気持ちを損ないたくなかった。作者のあとがきならまだしも、第三者の解説なんて、読者としては蛇足でしかない。この物語をどう感じたかなんて僕の勝手だし、その解説に変な意識を植えつけられるのは御免だった。

 僕は小さく息を吐くと、壁に掛けられた時計に目をやる。時刻は五時を半分ほど過ぎたくらいで、この時間なら家にもう誰かが帰ってきていそうだ。そう思い、席から立ち上がりつつ、斜め前の少女の様子を窺ってみる。彼女は変わらずつまらなさそうな表情で本を読んでいて、やはり僕の事など気にもかけていないようだった。そりゃあそうか、初対面の、しかも関わる必要が微塵もない人物に興味を抱く人間なんてそうはいない。僕はそう思い、少し伸びをしてから読書スペースを後にする。そして本をラックに戻し、出口を目指した。

 館内には昼にも増して人がおらず、やけに足音が大きく響く。変に寂しい気持ちになりながら外へ出ると、途端に嫌な暑さを持った空気が僕にまとわりついてくる。僕はそれに辟易しながら、ふと気になり、図書館のガラスの扉に書かれた開館時間を確認する。

 開館時間、平日:午前十時~午後六時(木曜日は午後八時まで)、休日:午前九時~午後三時。

 掠れたその白い文字を見て、もう少しで締め出されるところだったのかと思う。それからあの少女の事を考えつつ、僕は自転車置き場へ足を運ぶ。小さな屋根のついた駐輪場には、僕の自転車の他に、もう一台自転車が停めてあった。先程は特に気にならなかったが、これは彼女の物なんだろうか、なんてどうしようもない事を考えてしまった。

 僕は大仰な溜息を吐く。それから自転車に跨り、帰り道を走り始める。そして燃えるような夕焼け空へ、本当に物好きな自分へ向けて嘲るように呟く。

 明日もまた来てみようか、と。


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